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月蝕の夜

 一歩、エンルフが近づく。

 すると、イリフェルは下がった。

 エンルフの顔は見えない、影が彼を覆う。


 二歩、彼は近づいてイリフェルを壁際まで追い詰めた。

 イリフェルの顔が、怯えたものに変わる。


 銀の剣が暗闇の中で光った。

 ラガルは、エンルフの手を止めようと必死に抗う。

 けれどその腕は止まらない。

 ゆっくりと腕は上がり、イリフェルへと伸ばされていく。


 イリフェルが目を瞑ったとき。

 カラン、と音を立てて剣が落ちた。


 同時に彼女の体をエンルフが引き寄せ、強く抱きしめる。

 イリフェルは目を丸くした。

 エンルフは、彼女の肩に顔を埋める。


「……逃げよう。」


 そう言うと、エンルフは更に強くイリフェルを抱きしめる。

 イリフェルはエンルフの肩を掴むと、尋ねた。


「待って、どうしたの?」

「追手がくる。本気だ。」


 それだけ言うとエンルフは顔を上げる。

 珍しく真剣な様子に、イリフェルはたじろいだ。


「本当なの……?」


「火砲を出してた。お前を殺す気だ。」


 イリフェルはその言葉に驚いた様子だった。

 そして地面に落ちた銀の剣を見ると、彼女は尋ねる。


「いいの……?戻れなくなるのよ。」


「構わない。お前が居なくなるよりずっといい。」


 エンルフは剣を蹴ると、イリフェルの手を引く。

 イリフェルはそのまま、洞窟を出た。

 二人で走り続ける。


 更に西へ、銀の手が届かない場所へ。


 林を抜けて、川を越え、草原に出た。

 それでも二人は止まらない。

 一夜があけ二夜を越した。

 追手の足音がすぐ側まで迫ることもあった。

 やがて森の小さな洞穴にたどり着くと、二人はそこに身を潜めた。


「エンルフ。」


 息をついたイリフェルが、彼の腕を引く。

 二人とも、息も絶え絶えだった。

 森の小さな白い花が揺れる。

 風がそよそよと吹いて、平穏な陽が大地を照らしていた。


「伝えなきゃ行けないことがあるの……。」

「なんだ?」


「あのね……。」


 イリフェルは言いにくそうに口を動かす。

 エンルフは、追手が来ないか心配だった。

 外の様子に気を配りながら、イリフェルの続きの言葉を待つ。


「来てないの。」


 最初はそれだけだった。

 なんのことかわからずにエンルフは聞き返す。

 イリフェルは恥ずかしそうに、続きを言った。


「月のものが……来てないの。」


「え?」


 エンルフはしばらく考える。

 それから目を見開いた。

 ラガルはエンルフが何に驚いているのか、わからなかった。

 けれど嬉しいという感情が止まらない。

 これは自分のものではないとわかっているのに、高揚する気持ちを抑えられなかった。


「妊娠……したのか?」


 エンルフの声が明るく響く。

 まさか、とラガルは思った。

 けれども表情を変えずにイリフェルは頷く。


 自分が父親になれるとは考えてもいなかった。

 エンルフは喜びのあまり、イリフェルに抱きつく。

 イリフェルが小さく声を上げた。


 逃亡生活のことなんてエンルフの頭にはもうなかった。

 新しい命が愛する人の腹の中にある。

 そう考えただけで怖いのと愛おしいので、どうにかなりそうだった。


「エンルフ……ごめんなさい。」

「なんで謝るんだ。」


「だって。」


 イリフェルが泣きそうな顔でエンルフを見る。

 けれど彼は責めるどころか、イリフェルの頭を優しく包んで撫でた。


「謝ることは一つもない。オレとイリフェルの子だ。」


 そのまま額に口付けをする。

 何もない洞穴だったが、エンルフはここが豪邸に思えた。

 彼女がいるだけでそれで良かった。


「嫁入り道具も何もないけど……私、あなたに心臓を捧げるわ。」


 イリフェルが静かに呟く。


「じゃあオレもだ。オレの心臓はお前のもんだ。」


 エンルフは小さく笑う。


「約束だ。必ず世界樹なんか燃やしてやる。

 お前のために。」

「それなら私も、誓うわ。

 あなたと生まれてくる子たちのために……。」

 

 その夜、銀の大地の片隅で小さな結婚式が行われた。

 たった二人しかいないけれど、その式は永遠に二人の記憶に残る。


 月蝕の夜のことだ。


 交わし合った月の指輪は、欠けていたが美しかった。

 それが終わりの始まりになるとは、今は誰も思わない。

 

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