選ばれた“それ”
祖父の部屋を後にして、コルプトは考えていた。
長い廊下がいつもより長く見える。
一人、歩みを進めながら、その足は暗い方へと向かっていた。
(俺が……選ばれた。)
コルプトは心の中で呟く。
それは歓喜に満ち溢れるものではなく、もっと足元から彼をぐらつかせるものだった。
先ほど、祖父に撫でられた頭を直す。
コルプトは胸の奥がざわつくのに気づいた。
痛みではない。だが、放っておけば壊れるような感覚。
呼吸の仕方を、忘れたようだった。
選ばれたことは名誉であるはずなのに。
喜ぶべきことのはずなのに対応する感覚がない。
空白を胸の内に彼は抱えた。
「……選定、しなければ。」
コルプトは思い直したように、顔にかかる髪を払いのけ。儀式の間へと向かう。
重い石の扉を開けて中に入れば、いつもの静寂が身を包んだ。
(落ち着く。)
無意識のうちにコルプトは、息を吐いていた。
それに気がついて、口元に手をやる。
なぜだか、先ほどから酷く落ち着かない。
コルプトは、石棚に向かい合うと宝珠を手に取る。
「これは……強すぎる、もう少し弱いものがいい。」
選ばれた若者たちに与える宝珠だ。
決して強すぎず、弱すぎず。
器の耐えられる魂を選ばなければならない。
「あ。」
手から一つこぼれ落ちる。
音を立ててそれは転がっていった。
コルプトは急いで拾い上げると、傷を確認する。
(……面倒だな、怒られる。)
幸い、割れていなかった。
砕けていたら、宝珠が一つ無駄になるところだ。
コルプトはふと、思う。
石は砕ければ終わりだ。
終わり?
本当に?
……誰の声だ?
それは考えてはいけないことだった。
今まで、ずっと砕く側でいたコルプトは、石の気持ちなど知らない。
それだけじゃない。
果たして、混ざり合ったものは自分であると言えるのか?
今まで何度も儀式をしてきた。
廃人になるもの、狂うもの、壊れるもの。
様々なものがいた。
それは全て弱いからだとコルプトは思っていた。
もしも自分がそうであったら?
砕ける石だと証明されてしまったら?
――選ばれた“器”であるのに。
顔をあげた先に、石台があった。
石台の上に縛られた男が寝かされている。
その側にコルプトはいた。
これはかつての光景だ。
コルプトはわかっていた。
記憶の再現からコルプトは目が逸らせない。
記憶の中のコルプトは宝珠を持ち、呪文を口遊む。
血の匂いがあたりに立ち込め、宝珠は溶け出し、やがて赤い液体へと姿を変えた。
それを器にいれ、男の口へと注ぐ。
最初こそ大人しかった男だったが、全て注ぎ終わる頃には目を見開き、手足を振り動かそうとして暴れていた。
何もおかしくない光景だ。
「今、お前の体の中で、魂と魂が荒れておる。」
男の側に立つコルプトが静かに言う。
「どちらが体の主となるのか、はたまた交わるか。
交わらざり壊れるか。」
男は聞いてなどいなかった。
力のいっぱい頭を振り、自由な指先で石台を掻く。
「壊れるものに価値などない。
お前は、どちらか。」
……ならば、俺は?
その問いが、初めて自分に向けられる。
ふと記憶の中の自分と目が合った。
穴の底のような黒い眼が、今の自分を飲む。
身体中から汗が出た。
指が震える。
幻影はもう見えなかった。
だがコルプトの心には残っている。
あの、つんざくような悲鳴に彩られた過去の言葉が。
それが自分に向けられていると理解した瞬間。
「違う!」
思考が纏まらない。
違う。
なにが違う?
わからない……。
わからないのに間違っている気がする。
視界が徐々に遅れだす。
世界の色が褪せて、失われていく。
違う、何がだ。
なにかだ。
何もかもだ。
視界が揺らぐ、頭を掻き回すような耳鳴りが聞こえた。
自分の手足が遠のいた。
世界が一つ、離れたところで嘲笑っている。
今まで砕いてきた声が、全部自分に向かっていた。
「価値がない。」
「失敗作。」
「器ではない。」
それは誰の声でもなかった。
——自分の声だった。
何かが違う。
だが何が違うのか定義できない。
祖父の視線が、背中に突き刺さる。
無数の目が、自分を値踏みしていた。
そう思ったとき、ふと体の糸が切れた。
何も感じなくなった。
腕が勝手に動きだす。
何を選べばいいのか、わからない。
目に赤が映る。
――眩しい赤が。
呼ばれている。
視線が剥がれない。
あれは俺だ。
そう思った瞬間、もう手が伸びていた。
触れてはいけないと知っていた。
だが、一番赤く輝く血の宝珠を抱えて、コルプトは走り出した。
部屋から出た先でティダウとすれ違う。
「コルプト顔色が悪いぞ?」
その言葉も今は耳に入らない。
建物を出て、雪を踏み締める。
白に足を取られながらもコルプトは進んでいく。
もう何もかもがわからなかった。
ただひたすらに何処かへ、体は向かっていく。
そんな自分の体を、コルプトはただ眺めていた。
もはや、手足の一つも自分の意思で動かせなかった。
動かそうという気もなかった。
やがてあたりが闇に包まれたとき、コルプトは意識を失う。
最後に残ったのは、問いだけだった。
——今考えているのは、本当に俺か?
その問いに、答える者はいなかった。
視界の隅を何かがひらひらと舞う。
四枚の羽を持った小さな生き物。
そして意識が沈む。
浮かび上がったのは、別の記憶だった。




