水鏡の門
水音だけが、広い空間に響いていた。
天井から落ちる雫が、石の床を叩く。
門の隙間から漏れる白い光が、水面に揺れていた。
「……近くで見ましょうよ。」
メフェルが扉に手を伸ばす。
イーヴァたちが止めるより早く、その指先が石門に触れた。
低い音が、奥で鳴る。
次の瞬間、門の隙間から冷たい風が吹き抜けた。
雪が舞い込み、一瞬視界を奪う。
けれど白が晴れた先には、いくつもの穴が穿たれた岩壁と、それに囲まれた青い泉があった。
メフェルたちが光景に見惚れていると、ラガルだけが、ゆっくり泉へ歩み出る。
水面の縁に膝をつくと、水に手を触れ、祈りを捧げた。
「ヘレー……ネヘ……ユワイリァルナグハイムディサ。」
その声は子守唄のように心地よい。
ラガルの指先から落ちた雫が、
ぽたり
と、水面に触れた。
波紋が広がり、景色が揺らぐ。
それまで空を映していたはずの水面が、一瞬で夜に変わる。
いや、違う。
青白い水晶の煌めく、洞窟を映し出す。
ラガルは予期せぬ事態に、動きを止めた。
水面を掻き消そうとするが、遅い。
「……。」
メフェルが食い入るように見つめていた。
そしてラガルに詰め寄ると、頬を掴む。
「まさか、あなた……ヘレーの乙女?」
「我がおなごに見えるのか。」
ラガルが真面目な顔で返す。
メフェルは水面を覗き込んで、これまでにないほどの笑みを浮かべていた。
「やっと思い出した。そうよ、ヘレーの鏡よ。
ヘレーが貰ったのは水面に映る鏡だったのだわ。」
そう言って手を水鏡に伸ばす。
ごくりと唾がなった、一瞬、躊躇った。
それでも、もう引き返す気はない。
ラガルが腕を引いて、咄嗟に止めた。
「何を考えておる。」
「何って行くしかないじゃない、冥府に。」
「……ダメだ。」
「なんで?」
「ダメだと決まっているからだ。
母にそう言われている。」
ラガルは幼い頃の記憶を思い出す。
体の弱かった母がまだ生きてた頃の話だ。
いつものように一人で本を読んでいたラガルに、母は秘密の話を教えてくれたのだった。
【これはお母様のお母様から聞いた話。】
自分と同じ、母の水色の髪が揺れる。
あの頃もそれが誇らしかった。
【冥府にはね、ヘレーという乙女がいるの。】
包み込むような母の手が頭に乗せられる。
そしてゆっくりと髪を撫でた。
【あなたの遠い、お母様。だから私たちは会うことができる。】
揺らすような声を今でも覚えている。
【でもね、誰に言われても決して鍵を開けてはならないのよ。冥府に行ったものは戻らないのだから。】
そう言って母は手を離した。
そこまで思い出して、ラガルは手の力を強める。
――冥府に行ったものは戻らない。
その言葉が本当なら。
続きは考えたくなかった。
「待て。」
「待たないわ。あなたの為でもあるのよ。」
「ダメだ。」
手に汗が滲む。
そのときだった。
揺れていた水面の奥で、光が瞬いた。
「……?」
メフェルが顔を上げる。
次の瞬間、泉の中心から新しい波紋が広がった。
それはラガルの雫とは違う。
まるで、水の底から返事が返ってきたようだった。
「……見ろ。」
イーヴァが低く言った。
泉の中央。
そこに、人の影が映っていた。
水面の奥の洞窟の中で、誰かがこちらを見ている。
薄水色の長い髪。
鏡のように白い水。
その影は、ゆっくり微笑んだ。
「……。」
メフェルの目が輝く。
「やっぱり。」
誰にも聞こえないほど、小さな声で彼女は囁く。
「待ってたのね。」
メフェルはラガルの手を振りほどいた。
「メフェルさん!」
シーナの叫び声がする。
けれど彼女は振り返らない。
水面の奥の影を見つめたまま、メフェルは一歩踏み込んだ。
水が揺れる。
次の瞬間、彼女の体は水鏡の中へと吸い込まれた。




