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手の温度


 酒の匂いが消えていた。

 イルネスは静かに工房を出て、歩いていく。


 ゆっくりとした重い足取りでたどり着いたのは、砂岩でできた建物だった。

 その壁には複雑な紋様が刻まれ、門には金色の金具で意匠が施されている。


 ――アルダの屋敷だ。


 門の向こうには人の気配が数多くあった。

 

 イルネスは足を止める。


「今じゃねぇ。


 ……やっぱ、ダメだ。」


 踵を返して今まで来た道を戻ってゆく。

 その後ろ姿は酷く小さかった。


 *


 湯から出て服を着替えたあと、メフェルは近くの岩場で涼んでいた。

 不思議なことにあんなに熱かったサンオドアルの風が、今は緩く感じる。


 まだ濡れた髪を手でとかすと、風の流れるままに任せた。


 しばらく足をぶらつかせて遊んでいると、ラガルが側にやって来る。

 メフェルの隣に小さく腰を下ろすと、静かな声で言った。


「悪くなかった。」


 ラガルからの会話に、メフェルは一瞬驚く。

 けれどそれを表に出さないで、彼女は笑顔を返した。


 ラガルの視線が動く。


「気持ちよかったわね。」


 メフェルは少しだけラガルに寄る。

 彼は逃げない。逃げないだけで胸が変に熱い。


「……あなた、少し変わったわ。」

「知らぬ。」


 言いながらラガルは、濡れた前髪を指で払った。

 その仕草が幼く見えて、メフェルは視線を逸らす。


「イルネスの紹介、明日になるのかしら。」


「明日……。」


 ラガルが言葉を繰り返す。

 

 呪紋を解く事について彼はどう思っているのだろう。

 メフェルは考えてみたが、わからない。


 本人に尋ねた方が早いと思い、口を開く。


「ラガルは、呪紋……嫌よね?」


 恐る恐るメフェルはラガルの方を見る。

 どんな答えでも良かったが、改めて尋ねるのは緊張した。


 ラガルは胸に手を当てるとしばし考える。


 そして……。


「嫌じゃない……いや、なかった。

 でも今は、わからぬ。」


 ラガルは初めて己を疑っていた。

 今までの確固たる足場が崩れるかのように、不安を感じる。


「……。」


「どうしたの?」


 黙り込むラガルにメフェルが尋ねた。


 彼の紫の瞳に、明確な揺らぎが見える。

 自分でも制御できないような感情に、ラガルは怯えていた。


「……こわい。」


 初めてラガルの口から聞く、怯えの言葉にメフェルは戸惑う。

 

 ラガルは自分の服の裾を弱々しく握る。


「どうして?」


 メフェルは自分でも知らないうちに、優しい声を出していた。

 ラガルは意思を持とうとしている。

 彼女は直感的にそう思った。


「俺は……。」


 言葉にできなかった。

 胸の中がぽっかりと空いたように白くなる。


 言葉にすれば自分が割れてしまうのだと、ラガルは気づいた。

 だがその思いすらも、過ぎ去るように消えていく。


 何を言えばいいかわからなくなっていた。


「……。」


 再び沈黙するラガルをメフェルはひたすら待つ。

 メフェルは、答えを求めるのをやめて、ただ隣にいた。  

 ラガルが言葉を探すのを、壊さないように。


 ラガルの口が開くことはなかったが、代わりに手がメフェルの掌に重なる。

 ラガルは少し安心したような表情を見せた。


「そう、今はまだ言えないのね。」


 メフェルは、繋いだ手をほどかずに、ゆっくり立ち上がった。

 そしてそのまま、歩き出す。


 影が伸びても、手の温度だけはほどけなかった。

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