怖い、とは
「……どう思う、だと?」
乾いた笑いが漏れる。
「思うも何もねぇよ。そんなもん、呪いだろうが。」
イルネスは吐き捨てるように呟いた。
そして何がが切れたように、背を伸ばす。
「俺は逃げた。ああ、逃げたさ。」
彼の拳が震えた。
「怖かったからだ。責任って言葉が、重かった。」
ラガルに視線が落ちる。
「命令に従ってるだけなら、楽だよな。
俺だって、誰かに命令されて逃げたって言えりゃ、どれだけ楽だったか。」
言い切った瞬間、少しだけ静かになる。
ラガルは息が止まったかのように、固まっていた。
イルネスは、それを見て目を逸らす。
ほんの一瞬だけ、悔しそうに。
「紹介はしてやる。借りだからな。
だが説教は御免だ。」
そう言ってイルネスは一同に背を向けて作業に戻る。
工房の火は赤々と燃えていた。
一同は工房を後にする。
何も言わず、少し歩いた。
ふと、サンオドアルに似つかわしくない、冷たい風が吹く。
シーナがラガルの足元を見ると、霜がおりていた。
「ラ、ラガルさん。」
ラガルは気づいていない。
だが息が白い。
指先が冷えて、微かに赤くなっていた。
肩がわずかに震える。
「大丈夫ですか?」
「何がだ。」
聞き返したラガルにシーナは、指を指す。
足元の霜は薄く広がって、パキパキと音を立てていた。
ラガルに魔法を使った覚えはない。
しかし、無意識のうちに魔が溢れていた。
ラガルはそれをしばらく見つめていたが、やがて視線を上げる。
「……知らぬ。」
それだけ言って、また歩き出す。
霜は、あとから追うように、静かに広がった。
「知らぬってこたぁないだろ。
折角サンオドアルに来たんだ。
湯でも入ってくか?」
イーヴァが工房を後にして以降、妙に静かだった空気を破る。
メフェルがお湯と聞いて少し嬉しそうな反応をした。
「お風呂?いいわね、長旅で湯浴みもろくに出来てなかったし。」
「えー、あっついの嫌だよー。」
ミムラスが今にも溶け出しそうな声で言う。
「お湯ですか……!」
シーナは嬉しいのか嬉しくないのか、微妙な反応をしている。
ワイワイと賑やかになり始めた空気の中、ラガルだけが無機質な声で、“了解した”と言葉を残した。
*
「い、痛い!」
叫んだのはシーナだった。
彼の人生初めての温泉に、恐る恐る足を浸けて最初の感想だ。
熱さも越えると痛みになると少年は、初めて知った。
「ははは、まだまだだな。シーナ。」
イーヴァの笑い声が響く。
女湯からはミムラスとメフェルの笑い声も聞こえた。
「うう……なんで皆さん平気なんですか。」
「ちょっとずつ慣らしていけ、次第に平気になる。」
シーナは助言通りに、少しずつ指先から体を着けていく。
だが、変わらず騒がしい。
また笑い声が響いた。
「……。」
そんなイーヴァとシーナの会話を背景に、ラガルは一人考えごとをしている。
湯気で視界が曇った。
冷えていた体に熱が戻る。
身体中の筋肉の強張りが消えていく。
「はぁ……。」
思わず声が出る。
そうしていると、色々なことが頭を巡っていった。
湯面に映る自分の顔が揺れる。
(命令に従っているだけなら、楽。)
その言葉が湯気の向こうで反芻された。
ラガルは胸の奥が熱くなるのを感じながら、湯に沈んでいく。
ぶくぶくと泡立つ水面は、思考の泡のようだった。
「ラガルさん、溺れてません?」
やっと肩まで浸かることに成功したシーナが、ラガルの近くまでやってくる。
シーナが覗き込むと、泡が止まった。
そして湯からラガルが顔を出す。
「わっ、何やってるんですかラガルさん。」
「溺れてなどいない。」
淡々とした声。
だが、僅かに呼吸が深い。
濡れた髪が額に張り付いていた。
「ほんとですか……?」
「湯は、沈める。」
それだけ言って、また肩まで沈む。
イーヴァが横目で見る。
「沈むな。温泉は浸かるもんだ。」
「……。」
返事はない。
湯面がゆっくり揺れる。
熱が、皮膚を通して内側に染み込む。
冷たいままだった場所に、熱が触れた。
胸の奥の熱とは違う。
これは外から来るものだ。
選ばなくても与えられるもの。
(命令に従ってるだけなら、楽。)
その言葉が、今度は少し違って聞こえた。
(楽とは……痛みを選ばないことか。
責任を持たないことか。)
湯気の向こうでイルネスの拳が震える。
――怖かったからだ。
怖い。
その言葉の重さを、初めて測る。
(怖い、とは……判断か。)
ラガルは揺れる自分の姿を見つめた。




