従う体
火の匂いが、まだ鼻に残っている。
廊下は冷えていた。
だが胸の奥だけが妙に熱い。
(ろくでなし。)
そう言った。間違ってはいない。
イルネスは責任から逃げた男だ。
女を捨て、子を捨てた。
自身の中では最上級に軽蔑すべき存在だ。
――なのに。
進んでいた足が止まる。
(逃げた理由が怖さなら、今も怖いままだ。)
自分の言葉が、耳の奥で反芻した。
誰に向けた言葉だった?
イルネスか……それとも。
小さく拳を握る。
(我は逃げていない。)
そうだ。
我は最善を選んできた。
不要な感情を切り捨て、必要な決断を下した。
リィマも――あれは調和だ。
(逃げではない。)
だが、胸の奥がわずかに軋む。
火を前にしたとき、なぜ立ち上がった。
なぜあの男に言葉を返した。
他人の過去など関係ないはずだ。
……なのに。
頭の奥で、声がする。
――逃げるな。
それは誰の声だっただろうか、記憶をたどるが思い出せない。いや、思い出したくない。
廊下の先で明かりが揺れて、ひらりと蝶が舞ったような気がした。
無意識に手を伸ばす。
(……平気だ。)
触れても壊れない。
計算できる。
予測できる。
人は違う。
選ぶ。
逃げる。
裏切る。
だから。
(切り捨てるのが最善だ。)
そう思うのに。胸の奥の熱だけが、消えない。
苛立ちが彼の心に残る。
しかしそれを言葉にできるほど、ラガルは言葉を持っていなかった。
振り上げかけた拳を、そのまま下ろす。
寝室まで向かって行くと、丁度イーヴァが部屋に戻るところだった。
「あれ、ラガル。お前しょんべんでも行ってたのか。」
「……。」
そのまま黙って寝室に入ると、壁際で目を閉じる。
朝が来るまで胸の内が静まることは、結局なかった。
*
「おはようございます……。」
寝ぼけ眼のシーナがフラフラとしながら起きてくる。
熱の国の熱さで体力が削られているらしく、寝ても寝ても回復しないと言っていた。
「ラガルさんも昨日は眠れませんでしたか?」
ラガルの背は、朝の光にも溶けない。
シーナがラガルに近づく、けれどラガルは返事をすることはなく、無言で立ちあがると一階の工房へ先に行ってしまった。
「あれ……僕、何かしたかな。」
「気にすんな、どうせ気まぐれだろ。」
眉を下げながら首を傾げるシーナに、ポンとイーヴァが肩を叩く。
続いてシーナとイーヴァも工房に向かうと、そこにはミムラスとメフェルがいた。
ミムラスが鍛冶台に向かうイルネスに声をかける。
「イルネスのおっちゃん、直すのにあとどれくらい掛かるの?」
「うーん、あと一ヵ月。」
のんびりと答えるイルネスだったが、無言で凄むイーヴァを視界の端に捉えると慌てて言い直す。
「一週間、あ、いや、三日、二日!」
「お前は二日の仕事を半年も放っておいたのか!」
「槌の柄を直さなかったら……だが。」
イルネスがイーヴァの顔色を伺う。
彼は額を抑えて、溜息を吐いていた。
「お前なぁ、どうしてもって言うから金も前払いで……どうせ、もう酒代に消えてんだろ?」
「へへ……すんません、旦那。」
イルネスが手を揉んで、イーヴァの機嫌を取る。
シーナとミムラスは思わず呆れた目で、彼を見てしまった。
「この借りは高く付くぞ、
お前が俺のお願いを聞いてくれるって言うなら。チャラにしてやる。」
「へへ!なんでしょう。」
イーヴァは椅子に座るイルネスの前に、深妙な面持ちで立つ。
改まったその態度に、イルネスも背筋が伸びる。
「お前、アルダの遠縁だよな。
アルダに俺たちを合わせろ。」
そう言った瞬間、イルネスの顔色が変わった。
明らかに動揺している。
メフェルは昨日の約束の雲行きが怪しいことに気づいて、不安を隠しきれなかった。
「お願い、私たちどうしても会わないといけないの。」
無駄かもしれないがメフェルの口から懇願がついて出る。
思った通り、イルネスはそれでも動かない。
何かを口籠るイルネスに、痺れを切らしたイーヴァがラガルの方を向く。
「ラガル、来い。」
手招きすると、ラガルの意思とは無関係に体が動いた。
イーヴァのすぐ側に彼は立つ。
並んだラガルの服の裾をイーヴァは持ち上げると、おもむろに捲りあげて、イルネスに見せた。
イルネスは突然の行動に困惑していたが、ラガルの胸に走る銀紋を見ると動きを止める。
「これは?」
「呪紋だ。契約者に逆らえなくなる呪いの紋様だ。」
イルネスは目の前の男を見上げる。
何故そんなものを刻んだのかという、非難の目だ。
「俺じゃない、ウォリケがやったんだ。
これを解くのにアルダの力がいる。」
「それは……。」
難しい、と小さくイルネスは呟いた。
「ラガル、座れ。」
命令を言い終えるや否や、ラガルの体が動く。
あまり綺麗とは言えない工房の床に、ラガルは膝を揃えて座った。
床が冷たいのに何も感じない。
「もし、俺がお前を殺せと言えばコイツは従うだろう。
命を自ら絶てと言ってもだ。
お前はこれをどう思う。」
イーヴァの瞳が真っ直ぐイルネスを見つめる。
対照的にラガルの瞳はイルネスも何も見ていなかった。
逃げられないと悟ったイルネスは、言葉を探すように口を開いた。




