逃げた男
廊下は暗い。
だが火の匂いだけが、道を示している。
鍛冶場の扉は半分開いていた。
中では、炉の赤が揺れている。
イルネスは背を向けたまま、槌を振っていた。
カン。
カン。
一定の音。
だが、ほんの僅かに荒い。
ラガルは入り口で立ち止まる。
帰る理由もない。
入る理由もない。
「……寝ねぇのか。」
振り向かずに、イルネスが言った。
ラガルは瞬きをする。
「眠れぬ。」
「そうかい。なんか面白い話でもしてやろうか?」
ラガルはそう言われて、少し扉を押した。
足がゆっくりと動き出す。
そして工房の椅子をひくと、イルネスの側に座った。
「……昔の話だ。俺はなんでもできるって信じてた。
剣士の生まれだったんだが、自分でもべらぼうに強かったって自負してたよ。」
火が二人を照らす。
イルネスの背に黒い影が落ちていた。
「それで調子に乗って色んなところを旅したもんだ。
あるときは竜なんかも相手にしたな。
あれは手強かった。」
「竜……記憶にある。」
ラガルはそう言うとイルネスの手元に、目線を落とした。
分厚い手の皮に豆だらけの手が、彼の人生を物語る。
「お前も竜にあったことがあるか。
俺はノクオドアルの大蛇なんかじゃなくて、銀の大地の翼竜にあったぞ。」
「我もだ。」
「なんだお前もか。
ま、とにかく色々やってたんだ。」
イルネスは鼻を啜ると、酒を口に含んだ。
そしてラガルの視線が、自らの眉の傷にあることに気づくと手で隠すように覆って苦笑いする。
「これは首が三本あって、
火を吹く鷹みたいな魔獣との激戦の痕だ。
いやぁ……あいつは硬かった。
石頭で、頑固でクソ真面目な。」
そこまで言ってイルネスは動きを止める。
ラガルは黙って聞いていたが、彼の金槌を振るう腕が落ちていっていることに気づいていた。
紫の瞳がじっと男を見つめる。
その瞳に男は弱かった。
酒で朧げな記憶の向こうに、女の笑みが霞む。
気づけば自然と口を開いていた。
「……この傷はな。
女の前で格好つけようとしたんだ。
けどよ、思ったより相手が強くて。
一撃貰っちまった。」
イルネスは頬を掻いて、誤魔化すように言う。
一定のリズムで金槌は振るわれていく。
ラガルもそれに合わせてゆらゆらと揺れていた。
「いい女だった。お前は似てるんだよ。」
「……誰にだ。」
ラガルは静かに問う。
イルネスは一瞬だけ槌を止めた。
炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
「さあな。」
軽く言って、また振り下ろす。
カン。
音がわずかに乱れた。
「病弱で色の白い女だったよ。
でも不思議な雰囲気を纏ってて、
一度話せば忘れられない女だった。」
鉄を返す。
火花が散る。
「お互いに通じ合ってた、初めて見た日からだ。」
ラガルは何も言わない。
だが視線は逸らさない。
紫の瞳が、炎を映して揺れている。
「……逃げたのか。」
その声はいつもより低い。
ラガルもまた、目の前の男を重ねつつあった。
「いや……ああ、逃げたさ。
子どもができたって聞いて、怖くなっちまったんだ。」
「捨てられた女は、子どもは……どうなる。」
「さあな……考えたくもねぇや。」
鉄を水に浸す。
じゅう、と蒸気が立つ。
白い煙が二人の間を曇らせる。
「……後悔しているのか?」
珍しくラガルの声に感情が灯る。
それはまるで何か答えを望んでいるようであった。
イルネスは答えない。
代わりに、ゆっくりと鉄を持ち上げる。
「後悔なんざ、今さらしてもどうにもならねぇ。」
だが、その手は僅かに震えていた。
「だからよ。」
振り向かないまま言う。
「同じ顔で同じ目して、同じ火を見てる奴が前に立つと――。」
言葉が止まる。
イルネスは酒をあおる。
「余計なこと思い出すんだ。」
静かに、ラガルは立ち上がる。
彼自身どうしてそんな行動に出たのかわからなかった。
ただ勢いのまま立って、行き場を失ったまま立ち尽くす。
「お前はろくでなしだ。」
短く言い捨てたはずだったが、踵を返した足が止まる。
「……だが。」
続きが出ない。
喉がわずかに詰まる。
炉の熱が、背を焼いた。
イルネスは振り向かない。
「ろくでなしは、そうやって開き直る。」
低く、掠れた声で言う。
「まともな奴は、もっと見苦しい。」
槌が落ちて、カン、と澄んだ音が響いた。
ラガルの拳が無意識に握られる。
「ならば、今からでも探せばよい。」
それは命令でも叱責でもない。
まるで――自分に言い聞かせるようだった。
イルネスの肩が、ほんの僅かに震える。
「今さら会ったって、向こうが迷惑だ。」
「決めるのは相手だ。」
沈黙が場を包み、火が爆ぜる。
ラガルは背を向けたまま言う。
「逃げた理由が怖さなら、今も怖いままだ。」
その言葉は、どこか自分自身へ向けられていた。
イルネスはようやく振り向く。
だが、ラガルはもう歩き出していた。
空になった酒の容器が叩きつけられる。
火花が散る。
イルネスはしばらく振り向いたまま、閉じた扉を見つめていた。
やがて、ゆっくりと鉄を炉に戻す。
カン。
その音は、さきほどよりもまっすぐだった。




