壱
目覚まし時計によって私はいつも朝の七時に起こされる。それは毎日のことであり、これからも変わらない日常である。朝、目覚めると歯を磨いて学校に行く支度をする。それが終わり、リビングに行くと既に朝食が用意されている。母は朝から忙しそうにして「早くご飯食べちゃって」と急かしてくる。父は既に席について新聞を読みながらご飯を食べているのはいつものこと。その姿を母が見ればお決まりの一言がかけられる。
「あなた、ご飯食べながら新聞読まないの」
「……うん」
返事をした割に父は読むのを辞めようとしない。それもいつもの日常だ。父は気難しい性格で言葉数は少ない。母との会話はうん。あぁ。といった受け答えばかりで会話としては成立しない。対して母はお喋りでマシンガンのようにひたすら喋るタイプで父とは真逆である。何故二人は結婚したのか、子供である私はいつも疑問を抱く。
「真白、今日お母さん仕事が遅番で帰りが遅くなるからご飯、先に食べちゃって。冷蔵庫に入れておくからチンするのよ」
「うん。わかった」
母は宅配会社の工場で荷物の仕分け作業をしている。かなりしんどいと言っているが週三でこなしているから大人って凄い。普段はあまり遅番をしないが、上司から頼まれた時は進んでシフトを入れている。その度に寡黙な父と一晩過ごすことになるので私としてはあまりやらないでもらいたいというのが本音だ。
「あなたは今日から出張よね?」
「あぁ。三日ほどで帰る」
母の問いかけに父は短く答えた。
父は石油関係の会社に勤めているが、私は父の仕事姿はあまり知らない。父は家では仕事の話はしようともしないし私も聞こうとしないから何をしているか想像がつかない。いずれどんな仕事内容なのか聞いてみようと思う。機会があれば……の話だが。おそらくないだろう。父のことは嫌いではないが、何を考えているのか分からないので苦手だ。
「じゃ、今夜は一人だけど大丈夫よね? 真白はもう中学生だもんね」
「大丈夫よ。いつまでも子供扱いしないでよ」
私は不貞腐れたような顔をする。このような仕草に母は弱いのは計算のうちだ。
「ごめん、ごめん。じゃ、お留守番よろしくね」
「はい、はい。じゃ、行ってきます」
私は朝食を食べた後、玄関を飛び出す。
「真白!」
母は出ていく私を呼び止める。振り返ると母は私の弁当箱を掲げて手を振っていた。
「あっ!」
私は忘れ物に気づいて母の元に駆け寄る。弁当を持った私は母に手を振った。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。車に気を付けるのよ」
母に送られた私は学校に向かう。
私の名前は茅ヶ崎真白。O型。十三歳。中学二年生。
テニスラケットを毎日、肩に背負って通学している私はその外見から分かる通りソフトテニス部所属である。中学の部活から始めた訳だが、ソフトテニスをしていると心が安らぐ。毎日していないと生活リズムが崩れるほどだ。つい食べ過ぎてしまう私にとっては良い運動になる。
「真白! おはよう!」
「あ! 知夏、おはよう!」
私に声をかけてきたのは一番の友達である鈴森知夏。小学生からの付き合いでいつも学校に行くときは場所を決めて一緒に通学する。
「ねぇ、聞いた? 数学で小テストがあるんだって。真白のクラスにもあると思うよ」
「え? マジ? 不意討ちにも程があるよ」
私は頭を抱えた。
「そういえば真白は数学苦手だったものね」
「うん。読んで答えが分かるならいいけど、数学は答えがないから苦手なのよね」
社会や国語は答えがあるので覚えればいいだけの話だが、数学は覚えたところでその都度答えが変わってくるので苦手だ。こればかりはどうしようもない。
「私のクラスは先にやったから問題教えてあげようか?」
と、知夏は優しい言葉をかけてくれる。
「おぉ! 神よ! 女神様、お願いします!」
「大袈裟だな、もう」
知夏は仕方がないといった感じで和やかに言ってくれた。
困ったらいつでも助けてくれる知夏は私にとってはかけがえのない友人の一人である。勿論、知夏が困れば私は飛んで助ける。お互いが信頼し合っているのでこの関係は一生のものであると私は強く思っている。
初めて喋りかけたのは今でも新鮮に覚えている。あれは小学校六年生の頃だった。当時、同じクラスで同じ班で近い存在であった私たちはそれなりの距離があったが、私の中である事件が起きた。女子なら誰もが始まる生理現象についてだ。初めて違和感に気付いたのは、学校での体育の授業の時であった。激しい腹痛に私は立っていられないほど苦しかった。しかし、言葉に出すのが恥ずかしかったので、なかなか言えずに痛みと格闘するしか乗り切る手段はないと思っていた時だった。
「大丈夫?」と気にかけてくれたのは知夏だった。大丈夫と答えるも、言葉とは裏腹に私の顔はとても苦しそうにしていたかもしれない。それを察した知夏はもしかして生理? と、小声で私の耳元に囁いた。頷くと知夏は先生に体調が悪いということを伝えて保健室に連れ出してくれたのだ。それが私と知夏が仲良くなったきっかけだった。
それからというもの、私と知夏は一緒にいることが多くなった。仲良くなるきっかけはホント、些細なことから始まるものだ。
「今夜さ、私の家誰もいないんだ。お父さんは出張でお母さんは仕事で遅くなるらしい」
と、私は自慢げに言ってみる。中学生で夜、一人で過ごすということは結構、稀なことなので誰かの言いたくなるのだ。滅多にない経験なので興奮が抑えられない。
「そうなんだ。確か、真白の家って共働きだったよね。一人で何するの?」
「あっ! えっと……」
知夏に質問され、一人の留守番に何をするのか考えていないことに気付く。何しようか。
遅くまで漫画を読み漁る? 撮り溜めしていた録画を見尽くす? 普段禁止にされている深夜に食べるお菓子を堪能する? うわ! やりたいことがありすぎて困っちゃう!
「何も考えていないんだね。確かに急に一人になると何をすればいいのかわからないよね。で、結局やりたいことを実行できないまま終わっちゃう。でしょ?」
「はい。当たりです」
見事、知夏に私のいつものパターンを当てられて落ち込むのである。
「ところでさ、聞いてよ。私のクラスの……がさぁ」
と、知夏が話題を変えて最近の出来事について語り始めた時だった。私はなんとなく聞き流すように聞いていた。知夏が口を開くと校長先生の話みたいに終わる気配がないのだ。
視線を前方に向ける。横断歩道が赤になり、立ち止まる。当たり前の動作をしている時、私は気がかりなモノを発見する。反対の歩道に歩いている男性。髪は長髪でシルバーに染まっており、服装は紺色のタキシードを着ている。見た目からしてタダでさえ派手なのに私は奇妙な光景を目の当たりにした。
その男性の歩く道には花が生い茂っていくのだ。まるでその男性が通る道に生気が込み上げるかのように瞬時に花が咲くのだ。花が一瞬で咲くなんてことは常識的には考えにくい。
「ねぇ知夏、あれ見てよ」と、私は隣にいる知夏に同意を求めるかのように言う。
「ん? あれ? この道ってこんなに綺麗な花が咲いていたっけ?」
と、知夏は男性の周りから花が咲いている様子を見ていなかった。知っているのは私だけ。横断歩道を渡りきった私は気になったので例の男性を追いかけてみることにした。
「ごめん。知夏、面白いモノ見つけたからちょっと行ってくるわ」
「行くってどこへ? 学校は?」
「なんとか誤魔化しておいて」
私は足踏みをしながら知夏に向かって手を振った。知夏は何か言っているが、私の耳にはもう入ってこなかった。
幼稚園児の親子連れとのすれ違い様に幼稚園児は男性が通った後の花を見ながら「綺麗な花!」と指を差しながら言う。私は花畑の道筋を闇雲に追う。
男性は住宅地に続く階段を下りて細い路地の方に入っていく。見失うと思った私は早足から駆け足へ切り替える。
今日に限ってラケットや教科書で荷物が多いのが辛い。一層、捨てたくなるがそういう訳にもいかない。私は懸命に走った。幸い、私の視界は男性の背中を捉えていた。男性は普通に歩いているはずなのに全く追いつく気配がない。まるで磁石の同じ極同士で反発し合っているかのようである。
「…………あれ?」
曲がり角を曲がった瞬間、私が追いかけていた男性の姿がなかった。見失ったようだ。
しかし、男性は見失ったが追いかける道筋はまだ断たれていない。そう、男性が通ると咲く花の後を辿れば良いのだ。幸い、花の道は示されている。私は花が咲いている方向にゆっくりと辿る。
花の道は住宅街を抜け、工場の跡地まで伸びていた。恐らく男性はここを通ったに違いない。
元々、雑草で生い茂っているはずが綺麗な花に変えられている。まぁ、私はこの場所は知らないので何とも言えないが……。そもそも、この花はなんという花なのだろうか。名前が出てこない。出てこない以前に知らない。
花の道を辿ると区切れているところまで辿り着く。その先はあるものが壁となって私に立ち塞がった。その壁の正体は。
「なにこれ……鏡?」
目の前には私より高くて大きな鏡が置いてあった。私の身長は百六十センチ。それよりも断然高い。恐らく二メートルはあるだろうか。鏡の淵は古びた石造に古代文字のような文字が掘られていた。解読することは不可能であろう。それに淵の中心部には骸骨が飛び出していて気味が悪い。悪趣味にも程がある。
何よりも不思議なのは周りにはその鏡以外何もない。まるでその鏡を避けているかのようである。何故こんな何もない空間に鏡があるのか、何のためにあるのかと様々な疑問が飛び交う中、私は興味本位で鏡に近づく。
「ただの鏡……よね?」
私は不用意に鏡を覗いていた。淵や大きさを気にしなければただの鏡である。古そうな鏡であると思っていたが、鏡としては透き通ったように私を映した。その姿はハッキリと私を照らしてくれている。
ジッと鏡を覗くと不可解な現象が起こった。
笑っている……? 不敵な笑みを浮かべて私は笑っていた。無意識のうちに笑っていたのだろうか。手を直接、顔に当てて確かめる。ちょっと走ったので熱くなっている程度であり、顔はニヤけていない。
目の前の鏡に夢中になっていたが、本来の目的である男性を追いかけるということを忘れていた私は不意に思い出す。花の道しるべはこの鏡の前で途絶えている。と、いうことはここで消えたのか? いやいや、そんなはずはない。そもそも、歩く度に花を咲かせるという方が不思議なくらいだ。何かトリックでもあるのだろうか。しかし、あの花の量を懐に持っていたとは考えにくい。あの人の正体が無性に気になる。彼は何者なのだろうか。突然、花を咲かせ。突然、私の前から消えた。そんな幽霊でもあるまし。
「……幽霊?」
自分で考えながら急に寒気がした。まだ春なのに身体をさすってしまう。
そんなはずはないと私は強く言い聞かせる。こんな見渡しの良い場所で人が一人いなくなるはずもない。と、なればやはり怪しいのは私の目の前にポツンとあるこの鏡である。鏡の反対側に回ったが、淵と同じような石造で人は隠れていない。変な鏡という以外は至って普通である。私は再び正面に回って再度、鏡を睨むように見た。そして、扉をノックするかのように軽く叩いてみる。
次の瞬間、太陽の光が鏡に反射した。猛烈な光に私は目を開けられなくなり、瞼を閉じてしまった。真っ白に視界を奪われた私は手で顔を覆った。
キーンコーンカーンコーン
聞き覚えのある音色に私は疑問を感じながらゆっくりと閉じていた瞼を開ける。視界がハッキリした私の目が捉えたのは学校の門であった。そう、ここは私が通う中学校の門である。先程まで私は工場の跡地にいたはずなのに目を開けたら中学校に飛ばされていた。先程の悪趣味の鏡は私の周囲にはない。夢でも見ていたのだろうか? 疑問はいくつか残るが目の前の時計塔に目がいった私は絶句した。
朝礼が始まるのは八時三五分。そして、現在時刻は九時十五分を示していた。既に一限目の授業は始まっている時間である。つまりは大遅刻である。そして、何よりもまずいのは一限目の授業が数学であるということ。担当の先生は頑固ババアである古場だ。問題が分からなさそうな人をあえて当ててくる嫌味な先生である。数学が苦手な私はいつも当てられる。その度に私は恥を掻くので嫌いな先生の中でもトップレベルである。よりによってこんなタイミングで遅刻とは不幸にも程がある。
私は誰にも見つからないように下駄箱に向かい靴を履き替える。そして、忍び足で自分の教室に向かう。後ろの扉に着いた私はガラス窓から授業の状況を確認する。案の定、古場は教団に立って数学の授業をしていた。クラスメイトは真面目に授業を聞いている。私の机は後ろの扉からすぐの一番後ろの机である。こっそり入ってこっそり席に着けばなんとかなるかもしれない。
古場は黒板に問題を書き始めたことを見計らってゆっくりと扉を開けて忍び足で席に着こうとした。
「茅ヶ崎さん!」
「はい!」
古場は黒板を正面にチョークで書く動作を一時停止した状態で言った。私は名前呼ばれたことに驚き、背筋を伸ばして返事をしてしまう。この人は後ろに目があるのだろうか。
「何をしているの?」
古場は尚も振り向かない。
「えっと。その、朝は通常通りに家を出たんですが、色々あって真逆の方向に行ってしまってそこから道に迷ったと思ったら学校に居てですね……偶然が積み重なって今に至ると言いますか……」
「先生は何をしているの? って、聞いているのよ」と、古場は静かに言う。
「あ、はい。その、遅刻してすいませんでした」
私は素直に頭を下げる。
「遅刻したことを謝ってほしい訳ではありません。勿論、遅刻も悪いけど、それを誤魔化そうとする心構えが感心できないわね」
と、古場のいつもの癖が始まった。相手を困らせるような言葉の返しはいつものパターンだ。おまけにハッキリ言えばいいのに遠回しで答えさせようとするのも回りくどく周りの生徒たちは嫌気が差しているのが正直なところである。
「あ、はい。遅刻を誤魔化そうとしてすいませんでした」
ここは反抗せずに素直になることが先決と私は判断した。
「じゃ、この問題を解いてみて」
古場は黒板を差した。数字がいっぱい並んでいる。途中から参戦した私には意味不明過ぎる。最も最初から授業を受けていたとしても私には解けないだろうが。
「……わかりません」
「廊下に立ってなさい」
廊下に立たされた。最近の学生ではこれは体罰と言える世の中になっているが、私の学校では普通にされている。学校というよりも古場自身の考え方も古いせいもあるだろう。今は平成だ。そんなことをするのは昭和までにしていただきたい。全く意味のない反省の仕方だ。私は授業が終わるまで廊下に取り残された。時間にして十五分である。今回ばかりは私が悪いので仕方がないことである。そこは認めよう。だが、私は今後も改善するつもりは毛頭ない。
「真白、今朝の一見聞いたよ。何していたのよ」
昼休み、隣のクラスにいる知夏はわざわざ私のクラスまで来てくれて心配そうに聞いてきた。朝、別れた後のことが気になっている様子である。私は今朝の出来事を事細かに知夏に説明してあげる。
「あんた、頭でも打った?」
真顔で言われた。こいつは何を言っているんだろうかと言った感じの顔である。流石に花を咲かせる男性の後を追ってその先にあった鏡を覗いたら学校に戻っていたと言えば普通の人であれば素直に受け入れられない。しかし、事実なのだからそのように言うしかない。
「本当だって、私見たんだもん。その人が歩いたら通った後は花が咲いていたの。それも綺麗な花。鏡は薄気味悪いけど大きくて見たこともない形をしていたの」
「ふーん」
最早、知夏はこれ以上話を聞いても無駄だと言わんばかりに目を細めて私を睨んだ。完全に信じていない様子だ。
「わかった。じゃ、今日帰りにその鏡の場所まで案内してあげる。それならいいでしょ?」
と、私は提案してみる。
「えー面倒くさい」
知夏は明らかに嫌そうな顔をする。
私は嘘を付いていると思われたくないので懸命に知夏を説得させた。そして知夏は渋々鏡の場所に行くことを承諾してくれた。渋々と……。知夏はなんだかんだ私の意見には合わせてくれる。そこは良い子である。
部活が終わった後、私は知夏を引き連れて男性が通った道に案内する。
「……あれ?」
私は異変を感じた。
「どうしたの?」と、知夏は不安そうに聞く。
男性が通った後に咲いていたはずの花が夕方の現在には一つも咲いていなかった。どこを見渡しても花はどこにもない。不安を感じつつも私は鏡があった工場の跡地まで歩を進める。草原となった場所にも同様に花は一つも咲いていなかった。同時にあの薄気味悪い鏡もその場所にはなかった。
「ねぇ、花は? 鏡は?」と、知夏は急かすように言う。
「ない」
「え?」
「どこにもないのよ。確かに花も鏡もここにあったの。丁度、私が立っているこの場所に鏡があったのよ」
私は鏡のあった中心部に立って両手を広げながらここだと言わんばかりにあったことを主張する。
「わかった。わかったよ。真白は夢を見ていたんだよ――ね?」
「……違う」
私は夢なんか見ていない。確かに私は見たんだ。男性が通った後の花道、そして古くて大きな鏡。あれは夢なんかじゃない。現実だ。それなのにここには何もない。何故だろうか。ひょっとしたら私は知夏の言うように夢だったのだろうか。証明できるモノは何もないので夢と言われればそれまでである。しかし、鏡に触れたあの感触は今でも手に残っている。
「……真白、帰ろ?」
「でも、私……」
「分かっているよ。真白が嘘を付く人じゃないってことくらい。だから――ね?」
「うん」
私は知夏に促されて帰るしかなかった。だが、私は納得いかない。あれはなんだったのだろうか?
この時、私はこの後に起こる不可解な現象には気付かなかった。きっと悪い夢でも見ていたのだと思い始めていた。
工場の跡地を後にしようと背を向けた時、後ろに光が見えた気がした。立ち止まって私は後ろを振り向く。振り向いた私の目が捉えたのは何かが消えた後の姿だった。それがなんなのか私には分からなかった。
「真白! 早く帰ろう!」
知夏は私に向かって手を振ってくる。私は返事をして知夏の元に行く。気になるが、友達を待たせることはできない。私は今の光を見て見ぬフリをしていた。
「真白はさ、悩み事とかないの?」
帰り道、不意に知夏は私に問う。
「え? 悩み事? なんで?」
「うん。意味はない。ただなんとなくどうなのかなって」
「悩み事か……そうだな」と、私は考える。数秒考えた後、私は続け様に言う。
「やっぱ成績がなかなか伸びないことかな。来年になれば受験だし、それに将来のことも考えないとダメだけどなりたい職業とかないしどうしようかなって」
「好きな人で悩んだりしないの?」
知夏の問いに理解するのに数秒かかる。
「す、好きな人? ないない。悩む以前に私に好きな人なんていないよ。やだな、知夏ったら急に何を言い出すやら」
と、私は少し取り乱したように否定的になる。冗談もいいところだ。自分の中では中学生で恋愛なんて早いと思っている。そういうものは高校に入ってからの話である。
「それは本当に?」
知夏は圧をかけるように距離を縮めながら真顔になる。その視線に私は目を逸らせなかった。
「……う、うん。本当だよ?」
言葉に詰まりながらなんとか言う。もしかしたら目が泳いでいたかもしれない。それでも私は知夏の視線を逸らさなかった。
「……そう。わかった」
知夏は自分から視線を逸らした。何がわかったのだろうか。私には理解出来なかった。
「知夏?」
「私はいるよ。好きな人」と、知夏からの突然の告白である。
「え? 誰々? 私の知っている人?」
知夏に好きな人がいることに私は驚きながら質問する。今まで恋愛についてまともに話したことがなかったから尚更気になった。
「うん。真白と同じクラスの白川志恩君」
その名前に私は納得する。今年の春に転校してきた帰国子女だ。俳優のような整った顔で正真正銘のイケメンでありながらスポーツも勉強もトップクラスであり、女子たちからは憧れの的である。私は同じクラスではあるが大した関わりはないに等しい。
そのイケメン君が好きというのであれば納得せざるを得ない。
「確かに人気あるよね。好きなら好きって言えば良くない」と言った矢先に知夏の口からとてつもない大きな溜息を吐かれた。
「はー。真白は何にも分かっていないな。相談したのが間違いだったか」と、期待はずれのような反応をされてしまった。
「そんな言い方しなくても……」
私は少し落ち込む。
「嘘、嘘。伝えないと何も分からないよね。真白に言い分にも一理あるよ。ありがとう。いつかチャレンジしてみるよ」
「う、うん。ごめんね。大したこと言えなくて」
「全然大丈夫。じゃ、私こっちだからさ。また明日ね」
「うん。また明日」
私はよくわからないまま別れの挨拶をする。一体、知夏は何が言いたかったのであろうか。それにしても知夏に好きな人がいたとは知らなかった。知らない間にみんな大人になっていくものだと感じた。私も好きな人の一人や二人は作らないとやばいのではと置いてかれそうで気持ちが焦ってしまう。と、言っても好きな人なんて作ろうと思って作るものではない。その人を好きになった瞬間が大事なのだ。
「ただいま」
私はいつものように家に帰るが、人の気配がしないことに朝のやりとりを思い出す。
今日は父が出張に母が遅番だから今夜は私一人でお留守番である。部屋は真っ暗なままだ。とりあえず玄関の灯りを付ける。荷物を自分の部屋に運び込み一息付く。
部活で身体を動かした分、お腹の減りが激しいことに気づきリビングへ。冷蔵庫には母が作ってくれたハンバーグが用意されていたのでレンジで温め直して夕食の準備をする。
「いただきます」と、母に感謝を込めて好物のハンバーグを食べ始める。美味しい。母の料理は美味しかった。年頃の女子ではあるが、ご飯を三杯も平らげてしまった。身体を動かしているから大丈夫だろうと自分に言い聞かせて食器の後片付けをする。部活を辞めるまでは大食いは続けられそうだ。
それからお風呂に入り、湯船に一時間も浸かっていた。私は風呂には時間をかけて身体を休めたいタイプだ。たまに風呂の中で寝てしまうこともあるので母に怒られるのも多々あるが、今日は何時間でも大丈夫という開放感で長風呂もいいところだ。風呂を出ると髪をドライヤーで乾かしながらリモコンを手に取り適当なチャンネルをテレビに合わせる。
お笑い芸人のコント番組を見るが、そこまで笑える要素はない。面白くないが、他に見るものがなかったので仕方なく見ていた。
番組の途中に字幕で臨時のニュースが流れる。工場でガス漏れによる爆発が起こったというニュースであった。県と市は地元であったので近所で起こったようだ。なんとなく見ていたニュースであったがある文字に疑問を抱く。工場の名前を見た瞬間であった。その工場はお母さんが勤めている工場の名前に違いなかった。
嫌な予感をした私はニュース番組に変える。すると、丁度工場の爆発についてのニュースが流れていた。
『こちら、爆発が起こった工場の中継になります。ご覧下さい! 工場の中心部では火柱が立っております。現在消火活動が行われていますが、火が消える気配がなく事態は深刻な状況です。負傷者の数はハッキリしませんが、数十名の方が救急車で運ばれています。
たった今入った情報によると死亡者が出ているとのことです。警察は身元の確認を急ぐとともに……』
「……嘘」
私は直様、スマホで母に電話をする。コールは鳴るが電話には出ない。私は何度も電話をかけ続けるが繋がることはなかった。
父に電話をするも母と同様に電話に出ることはなかった。
その時、家の電話に着信が入った。リビング全体にその着信音は親密に聞こえた。膠着状態で見守るが鳴り止む気配がない。私は恐る恐る受話器を取り、耳に当てる。
「……もしもし」
『茅ヶ崎さんのお宅ですか?』
電話の向こうは渋い声の男性であった。私は「そうですけど」と答えた。
『私、警察の者です。実は茅ヶ崎真咲さんについてお尋ねしたいのですがよろしいでしょうか?』
「え……?」
茅ヶ崎真咲は母の名前である。悪い予感が的中しようとしていた瞬間だった。私はそれ以上声が出なかった。
『茅ヶ崎真咲さんの娘さんですよね? 申し上げにくいのですが……その、お母様は先程の工場のガス漏れによる爆発で死……』
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
私は叫んだ後、受話器を叩きつけていた。
そして、外出用の服に着替えて何も持たずにそのまま家を飛び出した。
私は走った。息が枯れるまで懸命に走った。走って、走って、走って走り続けた。
目的地は母が働いている工場であった。尚も火は燃え続けており、消火活動は続いている。消防士、警察、マスコミ、野次馬で人はごった返しになっていた。人の声が突き刺すように鼓膜を刺激した。
「いや、イヤ、嫌!」
私はその場にしゃがみこんで蹲っていた。現実が受け入れられない。母が死んだ? そんなはずない。だって今朝はあんなに元気そうにしていたのに死ぬはずはない。ありえない。あってはならないんだ。こんなの絶対におかしい。
ふと、慌ただしくなっていた声が聞こえなくなった。まるで誰もいなくなったかのように。それだけではない。夜のはずなのに急に周囲が明るくなった気がした。光が差し込んでいるかのように。
私はゆっくりと身体を起こし立ち上がる。すると、私は別の場所にいた。
燃え盛る工場はなく、周囲には人は誰一人いない。それに空は真昼のように太陽が眩しかった。先程の光景は夢だったのだろうか。そうだ! 夢に違いない。あれは悪い夢だったのだ。良かった。これで安心して眠れる。しかし、ここはどこだろうか。見覚えがあるようで思い出せない。いや、思い出したくないと言った方が正しいだろうか。だって、後方にとてつもない冷気を感じのだから。
後ろを振り向いた瞬間、私は衝撃の光景を目の当たりにする。私が目にしたのは鏡であった。そう、あの古くて淵に文字が掘っていて中心部には骸骨があるあの趣味の悪い鏡である。何故、こんなところにあの鏡があるのであろうか。
周囲をよく見渡すと朝、私がたどり着いた場所そのものであった。何故、私はまたこの場所にいるのだろうか。それに今は夜のはずなのに何故こんなにも明るいのだろうか。全くもって理解不能だ。
――助けて
私の耳に確かにそう聞こえた。周囲を見渡すが人なんてどこにもいない。どこから聞こえるのだろうか。
――助けて
また聞こえた。間違いなく誰かが私を呼んでいるのだ。その声は私が聞く限りある方向からであった。私の視線の先にはそう、あの存在感が強い鏡からであった。
私は鏡の方に歩み寄る。確かに私を呼ぶ声はこの鏡から聞こえたのだ。だが、人が隠れている様子はない。
「一体この鏡は何?」
私は鏡を覗き込む。しかし私の姿は映らなかった。反射してまっさらなガラスになっていた。水面みたいに透き通っており、奥に入り込めるみたいに。私は恐る恐る鏡に手を触れていた。すると、手は鏡の中に入ってしまった。まるで水の中に手を入れているかのようである。このまま別の世界に行けるかもしれない。そう思った時、手に強い力がかかった。まるで誰かが私を鏡の中に引き込むみたいに。私はもう片方の手で抑えようとするが引っ張られる力は凄まじかった。掃除機で吸われているような、はたまた誰かに手を引っ張られているような、そんな強い力が私を引き込もうとする。抵抗をするもどんどんと私の身体は鏡の中へ引き寄せられる。力が入らない。
「……っ! もう、ダメ」
私は力尽きてそのまま鏡の中へ引き込まれてしまった。
鏡の中に入った瞬間、私の視界は真っ白に広がり、そのまま意識が遠のいた。




