第八話 サイドフリーズ
「それにしてもあのオフサイドというのは腑に落ちない。」
私が日本代表スタッフになってから一年ほど経った頃、強化合宿の遠征先で私はこう切り出した。
これを聞いていた朝倉は、聞き飽きたと言わんばかりに面倒臭そうなそぶりで答えた。
「だから何度も言うじゃないですか。そういうルールなんですから、それを受け入れるしかない。こんなのサッカーを知る人なら世界中誰に聞いても同じ答えですよ。」
「ああ、そうみたいだな。この一年ほど、各国のチーム関係者に機会があるごとに聞いてみたのだが、どの国も一様にお前と同じ反応をしたよ。」
「え、聞いたんすか?」
少し驚いた顔だ。私を嗜めるようにも聞こえた。
「ああ、おかげで私のことは『サッカーのことを何も知らない素人だ』という評価が固まったよ。」
「まあ、そうでしょうね。」
「それで確信した。これは世界の常識だ。」
「だからそう言ってるじゃないですか。」
私は予想の通り彼がそう答えるのを待って続けた。
「ディフェンスの最終ラインを上げ下げして相手アタッカーの飛び出しを引っ掛ける。成功すればオフサイド。引っ掛からなければキーパーとの一対一だ。ここで駆け引きが生まれる。」
朝倉はぽかんとした顔で私を見ている。
「最終ライン統率の動きには各チームにパターンがある。アタッカーがそれを破るにはそのパターンを研究するか、嗅覚、センスか、もしくは圧倒的なスピードか。」
「へぇー、なんだ、有働さんも分かってきたじゃないですか。」
朝倉は嬉しそうに目を丸くして、心から感心したと言わんばかりの表情を見せた。
「そうだろ?私は朝倉が思ってるよりも分かってるんだぞ。それで、だ。」
私はカバンから紙の資料をバサバサと出して広げた。
「これは日本代表の試合の分析資料だ。」
資料には主に日本のディフェンスラインとオフサイドに関するデータが集められている。
相手チームのアタッカーが突破を試み、成功した確率。
その時の位置関係を示した図。
「ちょっと、待って。これ全部有働さんが集めたんですか?」
「まあな、1年間かけたんだ。説明するからちゃんと聞いてくれよ?」
ぽかんとする朝倉に私は続ける。
相手アタッカーが突破に成功した場合のマークマンの体勢。
アタッカーと同時に同方向へ走り出せば高確率でディフェンスに成功している事実。
最終ラインが停滞している場合と動いている場合ではアタックの成功率に差がないこと。
その他多数のデータを説明する私を朝倉は驚きと少しの興奮を帯びた表情で見ていた。
説明の最後に私はこう付け加えた。
「どのデータも『最終ラインが動いたからアタッカーの突破を阻止できた』という証拠にはならないんだ。」
朝倉は息を飲んで私を見据える。
「結論を言うぞ。最終ラインを動かすな。」
私も朝倉を見つめて続けた。
「選手は動いても、最終ラインを固定して動かさないんだ。アタッカーがそこを通過するなら行かせろ。アタッカーと競争するならスタートが肝心だ。止まってヨーイ、パスの蹴り出しでドン、だ。」
私は新システムの目的や実運用についてざっくりと要領を説明した。
「どうだ、朝倉。これは非常識か?」
「いやいや、非常識というか馬鹿げてるよ。こんなの誰も考えないですよ。」
「そうか。それなら試す価値がありそうだな。」
朝倉はデータのびっしりと書かれた紙を何枚か手に持って見比べ、「なるほどなぁ、でも、うん、そうか。」などと唸っていた。
この男の聡明さは、思考の柔軟性を併せ持つところに特徴がある。
小さな頃から人生を賭けて向き合ってきたサッカーというスポーツ。
プライド、敬意。常識はずれの新しいアイデアを受け入れるのに存在するはずの様々な障害を、彼は軽々と越えて理解を示す。
その日の夕方までには朝倉なりの実行パターンとトレーニングメニューを作成し、監督に意見を上申した。
私も同席したが、その内容はもはや発案者である私にも理解できないほどの具体的なシステムに昇華していた。
監督は当初この突飛な作戦に難色を示していたが、その日のチームミーティングで選手スタッフ全体に説明することを承認し、その上で実行の可否を判断することとなった。
全選手スタッフを集めたチームミーティングで朝倉は新システムについて説明したあと、最後に力強くこう言った。
「優勝したい。これまでもそう言って全力で戦ったよな。それで負けても国民は慰めてくれた。今度もそれでいいのか?」
息をつく間もなく続ける。
「いいや、だめだ。」
朝倉は語気を強めた。
「これまで俺たちは足りないものを痛感して、それを補って、また足りないものを突きつけられる。その繰り返しだったよな。今もその足りないことを埋めるのに必死だ。」
日本代表チームはこの20年間ほど、ワールドカップ優勝を目標として掲げていた。
しかし予選リーグ突破か決勝トーナメントで一勝する程度の結果に終わり、その目標には届いていない。
朝倉は全体を見回す。
「なあ、みんな。今説明したシステムは有働さんが俺たちの試合を分析して発案してくれたものだ。有働さんがチームに来たこと、その理由は何でもいい。でも、有働さんが来て、このシステムをもたらした。これは何だ?」
日本代表の選手やスタッフはみな、サッカーにその身を捧げている。
その輪の中に、CPが決定した直後から、門外漢の私がスタッフとして参加した。その上およそサッカーとは関係のない動きをしていることは皆知っている。
この私の動きだけをみても、彼らはただならぬ雰囲気を感じ取っていたに違いない。
朝倉は力を込めて言った。
「特別なんだよ。今度のワールドカップは特別なんだ。何が特別か、そんなことは何だっていい。特別なんだ。これまでとは違うんだ。」
領土の割譲を利用して核廃絶を画策する私の職務は、国家の機密に抵触する部分がある。
機密保持のため、私は他の選手スタッフと距離を取ることを心掛けていた。
しかし朝倉をはじめとして、彼らはみなそんな私を普段から受け入れてくれている。
「有働さんは、きっとこれまでの人生でやったことのないことをやってる。おそらくそれは世界中の誰もやったことのないことだ。それでもやってるんだよ。この人はサッカーだって全然知らない。それでも手探りで、体当たりでやって、それで俺たちがびっくりするようなすげえ作戦を考えたんだ。」
人のことをよく観察しているな、と私は感心した。
気恥ずかしさもあり、同時に胸が熱くなる感覚もある。
「有働さんも、他で動いている人たちも、特別なことをやってる。俺たちはどうだ?やろうぜ。違いを作るんだ。俺たちも。俺たちがこの大会を特別にしなきゃだめだろ。」
全員が言葉に打たれるようにして朝倉に聞き入る。
「有働さんに賭けよう。みんな互いを信じよう。このワールドカップが特別なものになると信じろ。」
朝倉が私の方に顔を向けた。
「俺は信じる。みんな、やろう。」
「おう!」
それからというもの、チームはこれまでにも増して強固な結束を見せた。それはまるで渦を巻いて立ち上がる炎のように。
私はこの日からチームの一員であることを実感するようになった。
不思議だ。頭の中が急に明瞭になった。不安が薄れていく。
やれる。
為すべきことが明確になり、さらにその先の道筋が見えるような感覚。
彼ら選手は自ら動きを始め、スタッフも含めて自ずと果たすべき役割を果たし、私も自然とその輪に入った。
単独で発揮できる能力、複数で協力して発揮する能力。
組織力、チームワーク。その本当の意味を初めて体感した気がした。
そのときの遠征はワールドカップ予選にはまだ日程的に遠い単なる親善試合のためだったが、次の日から練習を非公開にした。
雑誌社の記者などは訝しむ者もいたが、練習が非公開になること自体がとりわけ話題に上がることはなかった。
トレーニングには熱が入る。
しかし彼らトップレベルのプレイヤーでも、素人考えの非常識な作戦をチームの戦術に落とし込むのは困難を極めた。
特に「最終ラインを固定する」というタスクは私の予想に反して神業ともいえる練度の連携が必要となったが、日本代表チームの選手たちにはその素養が十二分にあった。
動きを試しては意見を出し合い、違いを補完してそのイメージを共有する。
失敗してはやり直す。何度も何度も。
こうして試行錯誤の上で新ディフェンスシステム、名付けて「サイドフリーズ」が誕生した。
この戦術は驚くべき効果を発揮した。
予選から決勝トーナメント準々決勝まで無失点の快挙をもたらし、日本代表はベスト4進出を実現した。
これだけの快進撃だ。各国はシステムを分析しようとしたはずだが、どのチームにもこれと言って効果的な対策は見られなかった。
日本チームが何をしているのかすら理解できていないのかもしれない。
だが準決勝の対戦相手であるモロッコ王国のタリク事務総長は「副審の動き」でこのシステムを見破ったと言った。
盲点だった。
確かにサイドをフリーズすればオフサイドラインは固定されるので、それを見ている副審は足を止めることになる。
選手は動いているのに副審が立ち止まっている様子から気づいた、ということか。
そうであればこのシステムを看破し対策を施したというのは嘘ではなさそうだ。
そして彼はそれを私に分かるように伝えた。
私たちのシステムを正面から堂々と攻略するという宣言なのだろう。
しかし我々はこのシステムを、自分を、仲間を信じて試合に臨むだけだ。
いよいよ準決勝モロッコ戦の当日となった。
私はその日の午前、試合前にロビーに顔を出した。
そこにいたタリク事務総長が私を待っていたかのようにして歩み寄って来た。
「おはようございます、タリク事務総長。よくおやすみになられましたか?」
「寝ている間に蛇に噛まれたような気分だよ、ウドー。どういうことか説明しろ。」
そう言うとタリク事務総長は私の腕を掴みロビーの隅に引き込む。
「ジャパンがCP各地点に敷設工事を始めたとの情報が入った。本当か?君は知っていたのか?」
彼の言うとおり、桐原総理を筆頭に、交渉チームがCP各国へ説明を行い、一昨日から一斉に敷設工事を開始した。
工事が順調である旨も経過報告が入っている。
「はい、タリク事務総長。私が立てた計画の通りです。」
それにしても、もうその情報を掴んだというのか。モロッコの情報収集能力に驚く。
「何故か、と聞いても答えはしないだろうな。」
タリク事務総長は私の目を見たままだ。
「やはり外交なのだな、ジャパンは試合の最中でもそうだ。」
昨日、彼は我が国の試合を「サッカーではなく外交だ」と言った。そのことに確信を得た様子だ。
「いいえ、我が国はサッカーをしています。言うなれば私も、桐原総理も一つのチームです。」
「警告するぞ、サッカーを甘く見るな。下手なことをすると世界を敵に回す事になるぞ。」
「私も、選手も誰もサッカーを甘く見る者は我が国にはおりません。」
5秒ほどだろうか、私の顔を見つめてからタリク事務総長はくるりと背を向け自国の集団に混ざった。
ちょうどその時、私の政府通信端末に『全てのCPにおいて、敷設型デバイス「センチアール」の運用が開始された』との通知が入った。




