第四話 サムライブルーの魂
千葉県美浜。
JFA施設での戦術担当者の会議に出席した後、チームスタッフから呼び止められ、面談を希望する人物がいると伝えられた。
指定された小さな会議室に向かうと、その男はひとり椅子に座り、長机に肘をついて俯いていた。
サッカー日本代表キャプテン、朝倉陸。
いつもの自信に満ち溢れた野生味のある姿とはほど遠く、ひどく衰弱して見えた。
朝倉は、私のようなサッカー界隈には場違いな素人にも、日本代表チームの一員なのだからと分け隔てなく接する人格者だ。
私が入室すると、椅子の音を立てて立ち上がり「有働さん、すみません」と頭を下げた。
私は朝倉に座るように促し、長机の短辺に椅子を置き「お疲れさん」と声をかけながら腰掛けた。
「有働さん、俺ね、子供の頃ルクセンブルクに住んでたんですよ。
親父の仕事の都合で。」
朝倉は私が口を開く前に切り出した。
「そうなんだな」私はなんとも間抜けな相槌を打つ。
朝倉は続けて身の上を話し始めた。
「親父はね、サッカー好きで、週末たまに試合を見に連れて行ってくれたんです。
2時間くらい車を走らせて。
ヘンクっていうチーム、知ってます?
有働さんは知らないか。」
朝倉が顔を私に向ける。
私は黙ったまま少し微笑んで見せた。
「そのチームのエースはね、日本人だったんですよ。
水色のユニフォームに背番号10番をつけて、稲妻のように敵陣を切り裂く。
俺は客席で観ててもう、こう、釘付けになっちゃって。
かっこよかったなぁ…」
ため息のようにそう漏らすと、少し間を置いて朝倉は続けた。
「帰りにどうしても欲しいって親父に頼んでユニフォームを買ってもらった。
思い出のスタジアムなんすよ。
いつか選手になってあそこを駆け巡りたい、それが夢だったんです。
ケヘルアレナ。
今はもう燃えて見る影もなくなっちゃったけど。」
ケヘルアレナスタジアム。今は誰もがその名を知っている。
一発の銃声を引き金にベネルクス紛争が勃発したベルギーのサッカー場だ。
サッカーグラウンド上で観客22名と審判1名が死亡した悲惨な事件は、全世界に中継されていた。
あそこが朝倉の思い出の場所だったとは。
サッカーに興味を持たない私ですら深い悲しみを感じるあの光景。
朝倉は幼少期の思い出の地が燃えるあの惨状を、どんな気持ちで見ていたのか。
「サッカー、なんのためにやるのかわからなくなりそうだったんです。
だけどサスペンデッドが始まって。
次のワールドカップもやることになって。
サッカーがまだ残るのなら…
子供の頃に見たあの胸のすくような感動を、痺れるような興奮を、もしかしたら俺も誰かに与えられるかもしれない、そう思って。
それで一生懸命。
俺にはこれしかないって、バカみたいに一生懸命。
それなのに…」
詰まりそうになる声を振るわせ、朝倉は続ける。
「それなのに領海を…俺の国の大事な場所を…俺のせいで…」
そう言うと朝倉は口をつぐんでしまった。
アジア地区予選に敗れて我が国の領海南限の砦は中国へ渡った。
その事実が朝倉を、選手を押し潰しそうになっている。
「朝倉、それはお前が気にかけることではないよ」
それくらいしか言えなかった。
その次の言葉を口に出せなかった。
朝倉は分かっているのだ。
我が国にとってこの沖ノ鳥島が地政学的にいかに重要な領土であったのかを。
少し沈黙して、朝倉はぽつりと言った。
「バールレ・ナッサウって花火が有名なんですよ。」
同盟時代にオランダとベルギーの国境付近には複雑な飛び地が存在した。
そのオランダ側、バールレ・ナッサウ。
ケヘルアレナから程近い。
「新年とかお祝いの時はよく爆竹が鳴ってた。
あれ、きっと爆竹だったんですよ。
誰も銃なんか撃ってないんだ。
素晴らしい試合を観て、ただお祝いしたかっただけなんですよ。
爆竹を鳴らした奴はきっと悔やんでいる。
こんなつもりじゃなかったって。
俺も同じ気持ちです。
こんなことになるなんて。」
胸が締め付けられる。
中国戦に向け政府やサッカー協会の上層からどう言われていたのか。
一度の敗戦が取り返しのつかないことになったと自分を責めているのだろう。
うまく言葉をかけてやれない自分をもどかしく感じる。
その沈黙に水を差すように私の携帯が鳴った。
「朝倉、すまないが少し席を外すよ。」
私は部屋に彼を残し、廊下の隅に出て外務省の担当者からの電話を受ける。
「ええ、はい、わかりました。」
静かな廊下に私の相槌を打つ声だけが響く。
短い連絡のやり取りを終え、私は朝倉の元に戻った。
「朝倉、さっきも言ったが、CPのことはお前たちが気にかけることではない。」
朝倉は俯いたままだ。
「いま連絡が入ったんだ。
ついさっき沖ノ鳥島は大陸棚限界委員会により、岩礁であると正式に認定されたよ。」
俯いていた朝倉がきょとんとして顔をあげる。
「え?…それはどういうことですか?」
我が国の領土南限、沖ノ鳥島は絶海の孤島である。
近年、その現状は海面上昇と風雨による侵食のため「島」と呼ぶに疑わしいような状況にあった。
我が国は排他的経済水域の要であるこの場所を、防護工事を行うなどして、長年守り続けてきた。
中国政府は、領海の紛争を裁定する国際機関である大陸棚限界委員会に宛てて、毎年のように「沖ノ鳥島は岩礁であり、これにより領海を主張するのは不当である」との申立てを行なっていた。
それに対し、日本は逐一弁解書を提出し、沖ノ鳥島及びそれに伴う広大な排他的経済水域を守っていたのだ。
外務省の担当者が「年中行事」と呼ぶほど、このやりとりは常態化していた。
今年もまた中国側から同様の申し立てが行われており、例年どおり我が国が弁解書を提出していたところに、私は外務省を説得して弁解書の撤回を申請していた。
つまり日本は「中国の主張に異議はありません」と宣言していたのだ。
大陸棚限界委員会も毎年のこの手続きを面倒に思っていたのだろう。
日本が弁解をしないと知るやその決定は早かった。
国際関係上の保秘事項に該当するので、裁定が確定するまでは朝倉には言えなかったが、ちょうど良いタイミングで外務省が連絡をくれたのだ。
朝倉は呆気に取られた様子だ。
「でも沖ノ鳥島が領土でなくなったことは変わりませんよね。
やっぱり俺たちの試合のせいで…」
私はゆっくり説明した。
「沖ノ鳥島は、そこに行くのも大変な場所だ。
実際の侵食や海面上昇の状況は見るに耐えない状態ではあったが、我が国の領海だから誰も入れないし誰も行って様子を見ることなんてできないだろう?
だから書面上の弁解で守られていたのだが、本来は島としての機能が無くなったことを認めるべきだったんだよ。
CPによる割譲が確定した時点ではまだ「島」だったのだから、あそこは中国領だが、今となっては島ではなくなった。
あそこに中国が旗を立てても問題はないよ。
でもまあ、近づくのも大変な場所だからなあ、中国もあそこにモニュメントを建てるとなると骨が折れるだろうがな。」
朝倉はまだ机に視線を落としたまま考え込んでいる。
「それに、沖ノ鳥島により守られていた領海の主要な資源は、幸いなことにおおよそ採取権の確保が終わっている。
大丈夫だよ、朝倉。
お前たちが気にかけることではないんだ。
お前が背負うものではない。
それは私の仕事なのだから。」
朝倉は、鋭い国際感覚と明晰な頭脳を併せ持つ人物だ。
彼は少し考えてこう切り出した。
「つまり有働さんは俺たちが中国に負けることを予測していたと言うことですか?
まあ、実際に負けたわけですけど、周りでは誰も負けるなんて思ってなかったし…」
慎重に言葉を選んで探るような言い方をする。
正直な奴だ。直接私には言えないこともあるのだろう。
私は朝倉の目をじっと見て言った。
「朝倉、違うんだよ。
いいか、今から言うことは私個人の理想論だ。
だがもし実際にこの計画が動き始めたら、お前たち選手には私を信じて最後まで突き進んでもらわなければならない。
その代わりに私はお前たちを、お前を信じる。だから話すよ。」
私は紙を一枚広げてボールペンで簡単な図を描いた。
朝倉は紙と私の顔を交互に見て話に聞き入る。
外部に向けては誰にも話したことがない、計画の核心にまで説明が及ぶと、自然と力が入ってしまう。
熱を帯びて私らしくない情熱的な語り方になったが、朝倉はまっすぐ私を見て黙って最後まで聞いていた。
「有働さん、それは…」
「朝倉、俺はお前を信じている。
お前たちは必ずやってくれる、俺たちなら必ずできる。」
朝倉はサッカーに人生を賭けている人物である。
それはまだ少しの間しか接点を持っていない私にもわかる。
いや、「人生を賭ける目的を持った者」と言う意味で似た者同士にしかわからないことなのかもしれない。
私にも人生を賭けて成し遂げたい目的がある。朝倉がサッカーに人生を賭けているように。
その同じ匂いを感じたのか、朝倉は私が彼らにかける望みを、その思いをすぐに理解したようだ。
サッカーに生きる男がそれに明確な目的を得た瞬間。
目には光がやどり、体には生気が漲るのが見て取れるようだ。まるで野獣のようなそのオーラ。
私と朝倉は目を見合わせたまま、どちらが先にという訳でもなく立ち上がり、黙ったまま握手を交わした。
力強く握った右手を放しながら、朝倉は少し意地の悪いはにかみを浮かべて
「でも有働さん、これって俺なんかが知っていいことなんですか?」
と言った。
「あー、まあ今は俺の中の理想論だからな。
ただ、計画が実行されるなら、守秘義務が生じるか。朝倉には政府の役職についてもらわなければならないかもしれないな。」
「分かりました。有働さんのためなら喜んで。」
朝倉はニヤリと笑みを浮かべ、丁寧に礼をして先に会議室を出る。
その後ろ姿から覚悟が感じられる。
遠ざかる足音はまるで大きな決意を響かせているように、心地よく聞こえた。
会議室に一人になり、がらにもなく熱血漢のそぶりをしたことを振り返り少し恥ずかしさを感じる。
目に焼きつく朝倉のあの姿。
頼りがいがある、彼ならなんとかしてくれる、そう信じさせられる不思議な説得力を帯びていた。
国を背負うことを自ら受け入れる彼を支えたい。
気持ちが折れそうなら鼓舞して一緒に進みたい。
どんな状況でも戦う姿を見せてほしい。
そうか。日本代表戦でスタジアムに掲げられる横断幕の意味とはこのことだったのか。
いまならサポーターの気持ちが痛いほど分かる。
私は思わずそのフレーズをつぶやいた。
「見せろ、サムライブルーの魂。」




