第三話 JFA特別戦略顧問 有働一真
「FIFAは狂っている。これでは我が国が世界の覇権を取れてしまう。」
文京区、ビルの一室で私は自ら漏らした声を塞ぐように口を手で押さえた。
新しいプロジェクトのために用意されたがらんとした部屋にひとり。
表紙に大きく「CP(Copenhagen Protocol)」と印字された、コペンハーゲン議定書の原文を眺めている。
何度も読み返した薄っぺらなこの書類を、また最初から最後まで目を通してページを閉じると、ため息がこぼれる。
「正気か?」
手で覆った口からまた独り言が漏れた。
私の名は有働一真。
どういう因果か、このたびJFA日本サッカー協会の役員に就任した。
コペンハーゲン国際会議で決定したあの狂気のルール、通称CPが私の経歴をも狂わせた、ということなのだろう。
それにしてもこの私がサッカー日本代表の戦略顧問とは…
子供の頃は周囲からガリ勉と揶揄され、運動の経験といえば防衛省入省後にはじめた体づくりくらいのものである。
球技は全く経験がない、だがそんな私でも、サッカーのルールくらいは理解できる。
あの「オフサイド」と呼ばれるルールを除いては。
防衛側のエンドラインから2人目の守備選手がいる地点までが不可侵領域だという。
であれば選手の動きにより領地が流動的に変化するということになる。
防衛すべき領地が変動するのにどうやって防衛戦略を組み立てるというのか。
「オフサイド」、このワードには以前から聞き覚えがあることを思えば、ことサッカーにおいてこの可変不可侵防衛領域とでもいうべきルールは一般的なのであろう。
何かの参考になればと思い選手に「実際の現場ではどのように統率を取るのか」と説明を求めたが、彼らは誰もぽかんとした表情で「感覚っす」などとケムに撒く。
これを選手同士の阿吽の呼吸で日常的に実践しているのだという。
理解に苦しむ。
しかし実際のところサッカーのルールや作戦などについては私はズブの素人だ。
私に求められる役目は、まず持ってこのCPと呼ばれる国際条約への理解を深めることである。
こちらもまた、まともとは思えないルールだ。
「サッカーワールドカップ本戦決勝トーナメントにおいて、勝利した国に相手国の領地1平方メートルの割譲を受ける権利が与えられる。」
何度読み返してもそう書いてある。
つまり勝てば相手国から領地を奪うことができるのだ。
割譲を受けるにあたっては、以下の条件が付加されている。
・割譲する領地の形状は1メートル四方の正方形とする
・割譲を受ける領地の位置は勝利国が指定できる
・指定した地点から直線距離半径五キロメートル以内に個人が居住する事実がある場合に限り、敗戦国は場所の変更を申し立てることができる
・勝利国が指定した時点から直線距離半径五キロメートル以内に個人の居住がない場合及び敗戦国の申し立てがない場合に正式に割譲が発効する
・割譲にあたってはCPが平和創出維持を目的にしている以上、国際司法裁判所等への提訴は認められない
・割譲を受けた領地には、勝利国により平和のモニュメントを設置する義務を負う
また、このCPが適用されるのは、2046年に開催予定のサッカーワールドカップ本戦決勝トーナメントの試合とされている。
さらに、私が持つ書類には、適用試合の条項に、もう一文が付け加えられている。
「CPの発案者である中国は、本制度の試行として地区予選最終戦にCPを適用できる」
中国。20年ほど前にピークを過ぎたとは言え、経済大国としての地位は揺るがない。
サッカーチームとしては下位のカテゴリーにあるものの、軽視できない相手だと聞いている。
その中国がコペンハーゲン会議におけるCPの発案者だ。
その狙いは一体何なのか。
ワールドカップの決勝トーナメントまで勝ち進んで世界に威光を示すつもりなのか、或いは自らは無関係な場所で高みの見物のように振る舞うつもりなのか、本心は窺い知れない。
どちらにしてもたった1平方メートルではあるが領土が絡む問題である。
サッカーについて無知な私も、必要な範囲で意見を言わせてもらわなければならない。
計画を実現するこの絶好の機会に。
この一見まともには見えない人事異動に端を発し、私は国家戦略とサッカーの融合という前代未聞の職務に奔走することとなった。
政府へCPについての概要説明とこれを利用した外交戦略を起案。
関係各省庁、研究機関、関連企業への協力要請とプロジェクトチームの形成。
様々なケースを想定したシミュレーション。
国内外の主要拠点の視察と根回し。
計画は多少の遅れも生じたものの、一年半ほど経った時点で大まかな準備は整いつつあった。
一方でサッカー日本代表チームは順当にアジア地区予選を勝ち進め、早々に本戦出場を決めていた。
選手に過度な責任を負わせるわけにはいかないが、今回のワールドカップが特別な意味を持つ、ということは感じてもらわなければならない。
なにしろ計画の実現にはサッカーでの勝利が前提なのだから。
その観点からも選手スタッフとの信頼関係を築くための心配りは厭わない。
残す問題は政府の内部において消極的な態度を示す勢力に対する説得である。
幸い早々に桐原総理大臣の深い理解を取り付け、その他の政府要人からもある程度の賛同を得ることに成功した。
シミュレーションや試験運用も実施して一定の成果が得られた一方で、多少の不安要素も残されている。
それでもいざとなれば強行的に計画の実行に踏み切れるほどの見込みが立ったその頃だった。
FIFAから一本の通知が届く。
「中国はアジア地区予選最終戦でCPの試行規定を行使する。」
アジア地区予選の最終戦、中国の相手は我が国日本である。
つまり今週末の上海における対中国アウェー戦は、我が国と中国との間で1平方メートルの領地を奪い合う試合になる。
領土の争奪戦と考えれば国防上においては重要この上ない案件となるはずだが、我が国は政府もJFAも実にあっけらかんとしている。
大前提として、今回のアジア地区予選はすでに大勢が決していて、日本は本戦一位通過が確定、中国は敗退が決定している。
中国には二次予選以降も可能性は残されているが、実力から見て本戦への出場は難しいと予測されている。
しかし分析したデータの中には、この試合に関する一連のネガティブな結果を示すものも存在する。
加えてこのところ日中両国の政府やサッカー関係者はかなり交流を密にしており、一部の幹部は事前に中国側からCPの適用を打診されていたとのこと。
私の耳にも、我が国の上層部にはCPが平和の創出維持を目的としているとの意義に鑑み、今回のアウェー戦で中国に花を持たせても構わない、その場合は領土の割譲第一号として世界へ向けて平和のアピールとしたい考えがあることが聞こえてくる。
いや、関係者がどう考えていようとも、私が現在の役職を拝してからこの2年間、日本代表選手を見るにわざと負けることを受け入れるような人物は誰ひとりとしていない。
まあ、チームはすでに上海入りしているし、ここに来て選手に政治的な事がらを背負わせるわけにもいかない。
そもそも中国は、このCPという制度の重みがわかっているのだろうか。
社会主義国家である中国は、その領地の全てが国有であるはずである。
資本主義国のように、不動産取引の規定などないはずであり、人民自体にそもそも土地取引という概念があるのかも疑問だ。
どちらにしても私は私の役目を果たすまでのことだ。
それから数日後、上海紅口足球場におけるアジア地区予選最終戦の中国日本戦が実施された。
この試合で日本代表チームは精彩を欠く。
中国選手の奮闘、中国サポーターの大声援もあったが、控え中心のメンバーとは言え日本チームにいつもの連携が見られないことは、素人の私の目にも明らかであった。
試合は1対1の引き分けの上PK戦にもつれ込み、中国の勝利となった。
地区予選は本来、引き分けの場合はそこで試合は終了となるが、この試合については事前に中国側からCP試行を理由にPK戦まで行い勝敗を決する旨の要請があり、日本側はこれを了承していたのだそうだ。
歓喜する中国、笑顔で相手を讃え拍手する日本政府関係者。
テレビの中継で観る日本代表選手たちは、思わぬ敗戦にいつも見る姿とは別人のように表情を曇らせていた。
中国政府はこの試合結果を受け、劉国家主席名義で声明を発表、我が国に対し世界初となるCP通知を行った。
北緯20度25分、東経136度04分。
周囲に個人の居住などあり得ない場所である。
この時点で我が国から中国へと割譲が発効され、中国領となった場所、それは沖ノ鳥島であった。




