第6話 月影が見守る中で
夜闇の中で公爵邸の前に留まる一台の馬車、そこにアリシアとエドガーの姿があった。ランタンで照らされる玄関から出てきた二人が、馬車の前に向かう。近づいてきた従僕が革袋を取り出し、アリシアに差し出した。
「奥様から餞別とのことです。『決して無駄遣いはしないように』と」
アリシアは眩い笑顔で従僕から革袋を受け取った。
「あら、ありがとう。今夜の馬車は、あなたが案内してくれるのかしら」
「はい、最後のお勤め、精一杯頑張らせていただきます」
アリシアはくすくすと笑いながら開け放たれた馬車のドアに向かう。
「そんなに大事じゃないわ。令嬢が家を出ていくだけよ?」
従僕が手を貸し、アリシアが馬車に乗り込んでいく。それを見守っていたエドガーも、身軽に馬車に乗り込んだ。二人が乗り込むのを見届けた従僕がドアを閉めると、間もなく馬車が走り出した。
揺れる馬車の中、アリシアは革袋の口を解いて中を覗き込んでいた。
「わぁ、これは話に聞くお金、というものかしら。金貨以外を見たのは初めてよ! これは……たぶん銀貨ね。こっちは銅貨? ねぇエドガー、これってどのくらいの価値があるの?」
エドガーは疲れたようにため息をついて答える。
「あんた、硬貨も見たことがないのか」
「だって、自分でお金を払うことがなかったんですもの。金貨だけは勉強で見たことがあるけど、もっと大きな手のひら大のものだったわね」
「……それはゴルテンファルの大金貨だろう。もう見ることはないと思うぞ。そしてその財布の中身は、せいぜい金貨二枚分程度の価値しかない。無駄遣いするなよ」
アリシアが笑顔で頷いて革ひもを縛り、手鞄の中にしまい込む。
「なぜ金貨が入ってないのかしら」
「金貨なぞ、大きな町の大きな店でなければ釣りを出すのも難しい。旅をするのに邪魔なんだ。公爵夫人は、その辺の教養もあるようだな――あんたと違って」
アリシアが不満げに頬を膨らませて顔を背けた。
「どうせ世間知らずですわよーだ! 大丈夫よ、これから覚えればいいのだし」
エドガーは含み笑いで応えたあと、ふと笑いを止めてアリシアを見つめた。
「……あんた、出会ったばかりの男と二人旅なんて、よく頷けたな」
今度はアリシアがクスクスと笑みをこぼして答える。
「信用できる人間とそうでない人間の区別くらい、つきますわよ? あなたは魔王城から『子供用のイヤリング』を拾って、わざわざ届けてくれるような人。そんなエドガーが悪人のわけ、ありませんもの」
笑顔のアリシアの手が耳に伸び、銀のイヤリングに指先が触れた。磨き直された一対のイヤリングは、どこか嬉しそうにランタンの明かりを跳ね返している。エドガーは目を細めてその様子を見守っていた。
「あんた、公爵令嬢だったんだろう。平民に身を落として、生きて行けるのか」
アリシアは自信に満ちた笑顔で答える。
「公爵家の娘として、覚えることは覚えて来たわ。魔法だって、宮廷魔導士に負けない実力があるのよ? 働き口ならいくらでも見つかるはずよ」
エドガーが頭をフードの上から乱雑に掻いた。
「そうじゃなくてだな……平民は、自分のことは自分でやるんだ。食う物も、貴族の食事とは比べ物にならん。寝床にだってノミが出る。そんな底辺の暮らしに、あんたは耐えられるのか?」
「マティアス殿下に嫁ぐ未来に比べたら、何億倍もマシね。私が至らないところは、エドガーが教えてくださるのでしょう? 頼りにしてますわよ?」
アリシアがウィンクを飛ばすと、エドガーは力が抜けたようにうなだれた。
「……できる限り教えてやるが、手伝ってはやらんからな。女物の衣服など、俺が洗っていい物でもない。洗濯も自分でやるんだぞ」
「ええ、わかってますわ」
微笑むアリシアの視線が、エドガーが抱える大剣に注がれた。
「その剣、どうなさったの? 人間が持つようなものではありませんわよね?」
エドガーが剣に視線を落とし、ニッと凶悪な笑みを作った。
「魔物が持っていた剣だ。普通の人間が触れば、呪われて身体が腐り落ちる。あんたは決してこれに触れるなよ」
アリシアの視線が、今度はエドガーのフートの奥へと向けられた。
「……その顔の痣、それも魔物の呪いですわよね? とても強くて禍々しい呪い……どこでそのようなものをお受けになったの?」
エドガーはスッと顔を背け、窓の外を見て答える。
「あんたが気にすることじゃない。それと、なるだけ顔は見ないでくれ。これでも気にしてるんだ」
「そう……ごめんなさいね、気になってしまって。でも、言いたくないなら構わないわ。あなたはエドガー・トラントフ、旅の剣士。それだけわかっていれば、私には充分ですもの」
それっきり黙り込んだエドガーを、アリシアは微笑ましそうに見つめていた。
****
宿場町に馬車が着くと、アリシアとエドガーは馬車を降りた。目立たないようにヴィンタークローネへ抜けるのに、公爵家の馬車など使えない。ここからは徒歩の旅になる。
アリシアが従僕に笑顔で告げる。
「ここまでありがとう。元気でね」
従僕が顔を隠すように、帽子を目深に被り、震える声で答える。
「お嬢様も、どうぞご健勝で」
従僕が操る馬車が宿場町から引き返していく。その様子を見送ったエドガーが口を開く。
「早速で悪いが、夜通し歩くぞ。遅かれ早かれ、あんたに追手がかかる。今のうちに距離を稼げるだけ稼ぐ」
「そうね、マティアス殿下なら、それぐらいするわね――そうと決まれば! 歩きましょうか!」
アリシアが威勢よく東に延びる道に足を踏み出した途端、その襟首をエドガーが引き戻した。
「……そっちじゃない。ヴィンタークローネはあっちだ」
ため息をついたエドガーが北に続く道へ歩き出すと、アリシアは顔を真っ赤に染めてその背中を追った。
夜闇でランタンを手にしながら歩くエドガーに、アリシアは黙ってついて行く。大きな手荷物でふらふらとしながらも、エドガーの背中にぴったりくっついて歩いていた。
――急ぐという割に、私に合わせて歩いてくださるのね。
アリシアがクスリと笑みをこぼす。その声を聞いて、エドガーが振り向いた。
「なんだ? 何がおかしい」
「なんでもありませんわ。お気になさらないで」
小さく首を傾げたエドガーが、前に向き直った。ランタンから伸びた二人の影は、明け方になるまで離れることなく歩き続けた。
****
空が白ばむ時間になると、エドガーは街道から外れるように脇道へ入っていった。森の中を見回し、茂みの中にある木の根元を指さす。
「そこで木の根を枕にして寝るんだ。荷物は決して身体から離すなよ」
アリシアは微笑んで頷くと、言われるままに横になった。エドガーは少し離れた木の根元に腰を下ろすと、大剣を抱えて膝を立てて座った。
疲れていたアリシアがうつらうつらとし始める。その様子を見ていたエドガーが、ポツリと呟く。
「あんた、十五歳だろう。俺と二人旅なんかして、不安にならないのか?」
微睡むアリシアが微笑んで答える。
「あら、私を襲いたくなってしまったの? それなら先に言ってくれるかしら? 結界魔法を発動しておかないといけないわ」
「ククク……しっかりしてるな。オーケイ、わかっているならそれでいい。自分の身は極力、自分で守ってくれ。あんたが守りを固めていれば、その間に俺が賊を潰して回れる」
楽しそうに答えたエドガーを見て、アリシアがぼんやりと尋ねる。
「……エドガーって、十八歳くらいよね、たぶん。ラインハルト殿下も、生きておられたら十八歳だったの。殿下もあなたくらい、背がお高くおなりだったのかしら」
エドガーが笑みを止め、言いづらそうに答える。
「……死んだ人間のことなど、もう忘れてしまえ。おまえも死に引きずり込まれるぞ」
アリシアはニコリと微笑んで答える。
「あら、ラインハルト殿下のことを覚えている人間は、一人でも多い方がいいわ。たった一人、魔王城で裏切られて息絶えられた殿下の冥福を祈るくらい、するべきだと思うの。クラウス殿下たちには、いつか報いを与えたいところよね。やられっぱなしじゃ、ラインハルト殿下も浮かばれないわ」
エドガーはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「フン……報いなど、どうやって与えるというんだ」
「ラインハルト殿下と同じ目に遭わせるのが一番よね。でも、信じる仲間がいないクラウス殿下たちに、仲間から裏切られる思いを味わわせるのは不可能……何か、他にないかしら」
エドガーはうつむいて地面の一点を見つめていた。
「……くだらないことなど考えてないで、今のうちに寝ておけ。日が高くなったら、また歩く。それまできちんと休んでおけ」
「はいはい、わかったわよ」
エドガーが見守る中、アリシアはゆっくりと目を閉じ、眠りに落ちていった。
その寝顔をしばらく見つめていたエドガーが、ポツリとつぶやく。
「出会ったばかりの男の前で、熟睡するなど……なんて危なっかしい人だ」
ため息をついたエドガーも、大剣に寄りかかって目を閉じた。
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