第5話 逃避行
イザベルに案内され、エドガーが客室に足を踏み入れた。部屋の様子を見回したエドガーが呟く。
「随分と立派な部屋を用意したんだな。俺なんかのために」
「お嬢様から、丁重にもてなすようにと申し付けられております」
部屋に入ってこようとした侍女たちを見て、エドガーが彼女たちを手で制した。
「……一人でいい。部屋には入ってこないでくれ。それとあんた、アリシア嬢の旅装を用意した方がいい。平民の、長旅に耐えられる物だ。どのくらいで揃えられる?」
「お嬢様の旅装ですか。それなら屋敷にいくらでもございますが」
「逃避行になる。貴族と知られるわけにはいかん。野盗に目をつけられると厄介だ。なるだけ目立たない服装を用意しろ。旅支度の知識は?」
「……お任せください。以上ですか?」
「ああ、それだけだ。いつ出発するかは、あんたらの手腕次第だな」
イザベルはわずかにエドガーの顔を見つめ、恭しく頭を下げた。侍女たちを連れて部屋を出たイザベルがドアを閉めると、エドガーが息をついてソファに腰を下ろす。
「あのお嬢様が長旅に耐えられるのか……それだけが心配だが」
エドガーがフードを下ろそうと手を伸ばした、その瞬間にドアがノックされた。慌てて手を止めたエドガーが答える。
「誰だ! 入ってこないでくれ!」
「悪いが、失礼するよ」
ドアを開けて入ってきたのは、ローゼンガルテン公爵だった。その顔を見たエドガーがフードを目深に被り直し、顔を背ける。
「……公爵、なんの用だ」
ローゼンガルテン公爵が眉を跳ね上げ、エドガーの顔を見つめた。そのまま後ろ手にドアを閉め、部屋の中のソファに腰を下ろす。
「娘を連れていく男の顔くらい、見ておこうと思ってね」
「フン! まるで駆け落ちのように言うんだな」
「似たようなものだろう? ところで……なぜ、私が公爵だと分かった?」
エドガーの動きが硬直し、部屋の中を沈黙が支配した。ニコリと微笑む公爵が言葉を続ける。
「君の顔はどこか見覚えがある。声も聞き覚えがある。そして君も私を知っている。心当たりは一人しかいない――事情を話してもらえないかな? ラインハルト殿下」
エドガーはしばらく黙り込んだ後、ゆっくりとフードを下ろした。プラチナブロンドがフードからこぼれ落ち、中から女性のような顔つきの青年が顔を出す。その顔は広範囲にわたって紫色の痣に侵食されていた。
「……このことは、アリシア嬢には黙っていてくれませんか」
「もちろんだとも。だが、私には事情を聞く権利がある。話していただけますね?」
ふぅ、とため息をついたエドガーが、ぽつり、ぽつりと呟いていく。
「魔王を倒したとき、その死後の呪いを受けました。これは聖女が命を賭しても解けるかわからない、厄介な呪いです。私は聖女アネットに解呪を頼みましたが、彼女らは呪いで苦しむ私を見下ろしながら、笑って去っていきました。私はアリシア嬢に耳飾りを返したい一念でなんとか命を長らえ、今この場にいます。しかし呪いが消えたわけではありません。今も呪いは私を蝕み、いつ命を落とすか――ですので、アリシア嬢に知られるわけにはいかないのです」
公爵が小さく頷いて答える。
「事情は分かりました。ヴィンタークローネ王国に行くことも、娘から聞いています。殿下が一緒なら、あの国で路頭に迷うことはないと期待しても……構いませんか?」
「……努力はします。ですが、それまで私の命が長らえることができなければ、それまでだと覚悟してください。私にも、いつまでこの呪いに耐えられるか分からないのですから」
二人の間にわずかな沈黙が訪れた。公爵がソファから立ち上がり、ラインハルト王子に頭を下げる。
「くれぐれも、娘をよろしくお願いします」
「……努力、します」
公爵は満足げに頷いたあと、黙って部屋から出ていった。ドアが閉まるのを確認したラインハルトが、ソファに立てかけてある大剣に手を伸ばし、鞘から刃をわずかに引き抜いた。禍々しい赤色に染まった刃に映る自分の顔を見るラインハルト王子が、顔を憎しみで歪ませて笑った。
「死んでたまるものか。クラウスにこの剣で一太刀浴びせるまで――魔王の剣の味、必ず味わわせてやる」
ふと、ラインハルト王子の脳裏にアリシアの幼い笑顔がよぎる。その無垢な笑みが、ラインハルトの心に春風を呼び込んだ。
「……その前に、私は彼女を送り届けなければな。三年間私を支えてくれた、彼女を」
剣を鞘に納めたラインハルト王子は、それをソファに再び立てかけると、フードを目深に被り直してベッドに倒れ込んだ。
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夕食の席では、アリシアと弟のエリック、そしてローゼンガルテン公爵夫妻が食卓を囲んでいた。エリックは目を伏せて食が進んでいない。そんな様子を見て、公爵夫人が声をかける。
「エリック、あなたは公爵家の男子なのよ? 姉の旅立ちくらい、胸を張って見送れるようになりなさい」
「ですが……なぜ姉上が亡命しなければならないのですか。マティアス殿下の求婚など、跳ね返せばいいではないですか」
アリシアがエリックの肩にそっと手を乗せた。
「ごめんなさい、エリック。あなたにこの家を背負わせてしまって。でも、このままでは私がお父様の重荷になってしまいかねないの。あなたにも寂しい思いをさせるわね」
公爵がワインを一口飲んでからエリックに告げる。
「エリック、心配する必要はない。アリシアと離れ離れになろうとも、我々が家族であることに変わりはないのだから。いつかまた、こうして顔を合わせて食事をすることもできるだろう」
「本当……でしょうか」
「私の言葉を疑うのかね? 人に信じてもらいたければ、まず自分が信じることから始めなさい」
「……はい、わかりました」
パンを手に取り、口に運び始めたエリックを見て公爵夫人が安堵の息をついた。
「ところで、お客様の姿がないようだけれど……」
侍女のイザベルが壁際から答える。
「『食事は一人で取りたい』との申し出がありました」
「そう……残念ね。少し話をしておきたかったのだけれど。でも、危険な人ではないのでしょう?」
公爵が頷いて答える。
「私が直接確認してきた。問題はないよ」
「だといいのだけれどね――アリシア、あなたも道中は気をつけなさい? 男性はみんな飢えた狼だと思っておくくらいが丁度いいのよ?」
アリシアが苦笑を浮かべて頷いた。
「はい、わかりました」
公爵家の晩餐は、静かな会話と共に過ぎていった。
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食後、公爵が懐から一通の封筒を取り出してアリシアに手渡した。
「公爵家の証文付き通行証だ。これで国境を越えられる。だが、そこから先は自力で乗り越えるんだよ」
「はい、ありがとうございます、お父様」
アリシアが深々と頭を下げると、公爵は満足したように頷いた。
「私も明朝、王都に向かう。おまえと会うのも、これが最後になるかもしれないね」
アリシアの体を優しく抱きしめる公爵に対し、アリシアもまた抱き着き返した。最後の抱擁を交換した二人が離れる。
「……お世話に、なりました」
「またいつでも世話になりにおいで」
そう言って踵を返した公爵は、ゆっくりと食堂から去っていった。その背を見送ったアリシアはエリックとも抱擁を交換したあと、自分の部屋へ戻っていった。
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翌日の夜、平民の旅装に着替えたアリシアがイザベルに告げる。
「今までありがとう、イザベル。またいつか、会える日が来ることを願っているわ」
「……はい、私も願っております。どうか、お元気で――アリシアお嬢様」
涙ぐみながら頭を下げるイザベルとも抱擁を交わし、アリシアが荷物を手に取る。
「おもたっ?! 荷物って重たいのね!」
「お嬢様、従僕に運ばせ――」
「いいのよ、これからは自分で持たなければいけないのだし」
大きな手鞄を持ったアリシアが、ゆっくりとした歩みで部屋の外に出る。廊下で待っていたエドガーが、フッと笑みをこぼした。
「どうしたへっぴり腰。俺が持ってやろうか」
「大丈夫ですわ。それより、早く馬車まで行きましょう」
頷くエドガーが先導するように歩き、その後ろをよたよたとアリシアが追った。




