第11話 潮の香り
アリシアたちの旅も十日を過ぎようとしていた。彼女たちはゴルテンファル王国とヴィンタークローネ王国の国境を流れる川、そこに渡された大きな橋の前にいた。ゴルテンファル王国側の関所では、鎧を着込んだ衛兵たちが警戒した眼差しをエドガーに向けていた。アリシアは手荷物の中から一通の封筒を取り出し、衛兵に近づいていく。
「ご苦労様。私たちはローゼンガルテン公爵の使いでヴィンタークローネに行きたいの。通してもらえるかしら」
「公爵の?」
差し出された手紙を受け取った衛兵の一人が、怪訝な顔で封筒の中身を改めていく。公爵の署名と封蝋を確認したあと、衛兵は仲間たちに振り向いて頷いた。
「通ってよし! ――しかし、なぜ公爵がヴィンタークローネに?」
「ヴィンタークローネの様子を見てきて欲しいというご命令なの。理由まではわからないわ」
「そうか、気を付けて旅を続けるといい」
「ええ、ありがとう」
アリシアは衛兵たちに微笑むと、関所の門を潜って橋を渡り始めた。背後に続くエドガーが小声で告げる。
「あんた、案外嘘が巧いんだな」
「そうかしら? これでもドキドキしてたのよ?」
笑みをこぼしたエドガーが、顔を引き締めてヴィンタークローネ側の関所に視線を向けた。
「あんたは橋の中央で待っていてくれ。俺が話をつけてくる」
きょとんとしたアリシアがエドガーの顔を見つめた。
「……お父様の通行証ではダメなのかしら」
「俺が怪しすぎるからな。顔を隠した人間を国内に入れるのは慎重になる。あんたじゃ無理だろう。俺が何とかしてくる――通行証を貸せ」
エドガーが差し出した手に、アリシアが通行証を乗せた。それを掴んだエドガーが、ニッと笑って告げる。
「それじゃあ、いい子で待ってな」
「まぁ! レディに向かって失礼ね! そのくらいできるわ!」
楽しげな笑い声を上げながら、エドガーはヴィンタークローネの関所へと足を向けた。
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ヴィンタークローネ側の関所では、兵士たちがエドガーを睨み付け、槍を構えていた。顔を隠し、大剣を背負った男。友好国から入ってくるとはいえ、素通しというわけにはいかない。エドガーが衛兵の前に辿り着くと、衛兵たちが槍を突き付けて告げる。
「何者だ! 身分と目的を名乗れ!」
エドガーはローゼンガルテン公爵の通行証を見せながら答える。
「ローゼンガルテン公爵の使者だ。ワイエンマイアー伯爵領に行きたい。緑風草の苗を分けてもらえないかと、交渉に行くところだ」
衛兵たちは警戒しながら通行証を受け取り、中身を確認していく。
「……そんなこと、書状には何も書かれていないぞ。どういうことだ」
エドガーが肩をすくめて答える。
「そんなことを言われても、俺たちは言われたことをするだけだ。手紙は公爵が書き忘れたんだろう」
衛兵たちが顔を見合わせ、声を落として意見を交換し始める。
「おい、どうする?」
「偽の書状には見えないが……怪しすぎる」
衛兵たちが結論を出せないまま固まっているのを見て、エドガーがため息をついた。
「やはりダメか」
エドガーが懐に手を入れると、衛兵たちが弾けるように反応してエドガーに槍を向け直す。
「止まれ! 何をする気だ!」
エドガーはその言葉を意にも介さず、懐から一本の短剣を取り出した。上品な白金の装飾が施された宝剣だ。それを見た兵士たちが大きく口を開けた。衛兵の一人が「でん――」と叫んだところで、エドガーが衛兵の口を素早く手で封じる。
「……騒がないでくれ。今はまだ、秘匿しておきたい。だが父上には使者を出して欲しい。この手紙をなるべく早く、内密で父上にだけ。他の者には知らせないように」
エドガーが懐から一通の封筒を取り出し、戸惑う衛兵に手渡した。衛兵が声を落とし、エドガーの背後にいるアリシアを視界に納めながら尋ねる。
「殿下は、ワイエンマイアー伯爵領に? 王都には戻られないのですか」
「……やり残したことがある。王都に帰還するのは、その後だ」
エドガーが衛兵たちから距離を取ると、彼らは姿勢を正して敬礼した。それを見て苦笑を浮かべたエドガーが、アリシアに振り返って声を上げる。
「もういいぞ! こっちに来い!」
アリシアは微笑みながら頷いて、エドガーの元へ歩いていった。
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ヴィンタークローネの関所を抜けたアリシアたちは、街道を北に向かって進んでいた。東風に乗って香ってくる潮の香りに、アリシアが眉をひそめる。
「不思議な匂い……何かしら、これ」
「海の匂いだ。あっちに海が見えるだろう。海岸線が近いこの街道だと、潮の香りがする。ヴィンタークローネでは珍しくないことだ」
「海……初めて見るわ! 湖ではなかったのね! ――ねぇエドガー、少し様子を見に行ってもいいかしら?」
エドガーが、子供のようにはしゃぐアリシアの様子を見つめた。
「……国境は越えたし、もうマティアス王子の追手はあまり心配しなくていいだろう。ヴィンタークローネ国内で無理やり捕縛するなど、許されんからな。少しくらいなら構わんと思うが……本気か? もう秋も半ばで、水は冷たいぞ」
「構わないわ! 早く行きましょう?!」
アリシアは海岸に向かって歩き出し、街道から降り始めた。それを見たエドガーも、苦笑を浮かべながら後を追った。
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海岸に着いたアリシアが、潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、吐き出した。
「すごいわ! これが海の香りなのね! ――ねぇ、水に足を浸しても大丈夫かしら?!」
「濡れても構わんのなら、好きにしろ」
アリシアは頷くと、さっそくブーツを脱いでいく。裸足になったアリシアは、白い砂浜を裸足で駆けていき、海に足首まで浸していた。
「わぁ、エドガー見て! 海って面白いのね! 波が引いていくと、私の身体も持っていかれそうになるわ! 話に聞いていた海って、こんなものなのね!」
エドガーは眩しそうに目を細め、はしゃぐアリシアを見つめながら答える。
「子供みたいにはしゃいで……十五歳だろう、あんた」
「悪いかしら? エドガーも足を浸してみたら? とても気持ちがいいわよ?」
「……水を伝って呪いがあんたに移ったらまずい。俺は遠慮しておく」
「もう! 考え過ぎよ!ここまで呪いが移る兆候はなかったわ。あなたも少しは、旅を楽しんでみたらどうかしら?」
アリシアが何度か催促すると、ついにエドガーも折れて渋々ブーツを脱ぎ始めた。彼の武骨な足首が露になり、それがアリシアから少し離れて海水に浸される。エドガーはそのまま、静かに波に身を晒していた。
「……懐かしいな。海の感触も」
「あらそう? エドガーは海の経験があるのかしら」
「子供のころは何度か、海で泳いだこともある。広くて深くて、興味深い生き物の宝庫だぞ、海は」
アリシアがクスクスと笑みをこぼして答える。
「それは是非、いつか知りたいものね。女性が海で泳ぐなんて、できるのかしら?」
「水着はあるが、淑女が着るようなもんじゃない。肌を露出させる服だからな。あんたが海を知ることはあるまい」
アリシアが不満げに頬を膨らませた。
「だから、私はもう平民よ? なんならこの場で、服をすべて脱ぎ捨てて、裸で海に飛び込んでみようかしら」
エドガーが慌ててアリシアに駆け寄り、彼女の行く手を塞いだ。
「――馬鹿、やめろ! 裸になって泳ぐなんて、平民でも子供しかやらんぞ!」
アリシアがいたずらっ子のような笑みでエドガーを見つめる。
「ふふ、冗談よ。でも止めてくれてありがとう、エドガー」
エドガーがアリシアから顔を背けて答える。
「……フン! あんたがみっともない真似をすると、俺が恥をかく。それを止めただけだ」
クスクスと笑うアリシアから離れ、エドガーが荷物から手拭いを取り出して足を拭いていく。
「そろそろあんたも上がれ。先を急ぐぞ」
「ええ、わかってるわ。わがままを聞いてくださってありがとう――目的地は、ワイエンマイアー伯爵領なのでしょう? それは近いのかしら」
海から上がるアリシアを見つめながら、エドガーの動きが止まった。
「……どこまで聞いていた?」
「ほとんど聞こえなかったわ。エドガーったら、兵士たちと小声で話すんですもの。でも私を送り届けるなら、その伯爵領は近くにあるのね、きっと」
「……いや、ここからさらに一週間前後かかる。王都に隣接する領地だからな」
驚いた様子のアリシアが、エドガーに振り返ってフードの奥を凝視した。
「なぜ? 私を送り届けるだけなら、近くの町でもよかったのではなくて? そこから先は、自力で王都に辿り着いて見せますわ」
エドガーは足を拭き終わると、手拭いを荷物にねじ込みながら答える。
「世間知らずのあんたを放っておけないだけだ。夢見が悪くなる真似は、俺にはできん――行くぞ!」
先を急ぐエドガーの背中をアリシアは見つめ、クスリと笑みを漏らす。
――本当に、お変わりないんだから。
エドガーがアリシアに振り返って尋ねる。
「なんだ? 何を笑った?」
「いいえ、なんでもありませんわ。お気になさらないで」
ブーツを履き直したアリシアが、エドガーと共に街道に戻って行く。そのまま二人は、さらに北に向けて歩きだした。




