突然の悲劇
その年の夏は平地では猛暑が続き、異常気象と呼ばれてはいたが、日本全国で毎年気温上昇が続いており、暑い夏が当たり前になっていた。
ただ、沢渡夫婦が住む高井沢は標高の高さもあり、夏でも30度を大きく越えることはなく、夕方には心地好い風が吹くので、彼らのような移住者が増えていた。
そして真夏の季節を越えた頃には、彼らの住む家の周りを取り囲む、緑の樹木の葉を揺すりながら吹いてくる風が“サラサラ”と優しい音をさせて吹いてくるのが日常だった。
そんなある日、李祐が夕飯の支度をほぼ終えた頃、スマホの着信音が鳴った。
彼女の好きな静かで優しいピアノ曲「Love in the Moonlight」の最初の五秒ほどでスマホの画面を見ると、予想はしていたが夫拓真のスマホからの着信だった。
李祐は夫の声がするものと思いつつ通話ボタンを押した。
「はい、もしもし・・・・えっ、どなたですか?」
「研究所総務の山形です。沢渡さんの奥様の李祐さんですか?」李祐はドキッとした。
「はい、そうですが・・」
「実はご主人の拓真さんが研究室で倒れていて、今、救急の人に診てもらっていますが、良くないようです。これから病院に向かいますので、至急!病院に来てもらうことは出来ますか?」
「ええっ、主人がどうかしたんですか?」
「いや、私には・・詳しくは分からないのですが・・研究室で・・一人で作業をしていて・・守衛が・・見回りに行った時に・・倒れているのを・・発見したようです」と山形も気が動転しているのか、とぎれとぎれに説明した。
「えっ・・そうですか・・病院はどちらですか?」李祐は胸騒ぎ以上の不安に、呼吸が早くなり、意識が遠くなりそうになりながら尋ねた。
「高井沢中央病院です。こちらはもう、出発しますので、奥様、すぐ来れますか?」
「はい、そこでしたら、三十分ぐらいで行けます」
「では、現地で」と言って通話は切れた。
李祐は通話の後の静寂の中で、事態を理解しようと短い通話を頭の中で繰り返す。
「拓真が倒れた 研究室で 救急の人が来て 看ているが 良くない? 一人で作業 守衛が倒れているのを発見 拓真は病院に向かう」・・・
「とにかく、病院に行こう。そこで、拓真に会おう」と思い準備を始めた。
夜の闇が訪れた野外は穏やかな季節には珍しく強い風が吹き始めている。
室内でもその音は聞こえ、李祐には先ほどまでとは違う音に聞こえ、“ザワザワ” “ゾワゾワ”とした感じで、不気味な感じさえする。
ふと気づけば、昼間の暖かさが嘘のように気温が下がってきている。
彼女は長袖のカジュアルな服を着ていたので、手元にあった濃いグレーのフード付きのトレーナーを手に持ち、夫も寒いとかわいそうなので同じようなものをクローゼットで見つけ、肘から下げた。
手持ち品は財布と携帯を入れたポシェットのみ。
李祐は玄関の鍵を閉めて、すぐ近くにある駐車スペース側を振り向いた瞬間に、猛烈な冷たい風が“ビュー”と鋭い音をさせて顔に吹き付けてきた。
この季節には感じたことのない悪寒を李祐は感じる。
李祐は首をすくめたまま、グレーの自家用車のドアを開け、運転席に座る。
スタートボタンを押すと、いつものように“ブーン”と軽快にエンジンはかかった。
暗い夜道がしばらく続くので、彼女はナビで登録されているはずの「高井沢中央病院」を検索し、行き先にセットしてから運転を始める。
「大丈夫、拓真も無事だし、私も冷静だ」と自分に言い聞かせて、ナビに従い病院に向かう。
いつも涼しげで、穏やかな彼女の横顔には、悲壮感が滲んでいる。
カーオーディオから自動的に流れてくる音楽の音にも、彼女は全く気がつかなかった。
樹木に囲まれた車一台がやっと通れるような小道を通り抜け、片側1車線の下りカーブの続く山道を慎重に運転し、幹線と言える県道に右折して入った。
そこからは普段なら観光客が押し寄せて渋滞になることもある道だが、ピークの時間をとっくに過ぎていて、車の往来も少なくて彼女は少しホッとしながら運転を続ける。
程なく幹線道路に隣接する「高井沢中央病院」の駐車場に着いた。
彼女は夫の服を手提げ袋に入れて車を降りると、病院寄りの駐車場の端には警察車両が停車していることに気がついた。
いつもは安心するイメージを持つ警察車両が、今の彼女には不吉な対象と感じてしまう。
玄関の自動ドアを抜けて、真っ直ぐ受付に向かうと、そこにも警官の姿があったが、彼女は周りには目もくれずに受付担当の女性に名前を告げた。
女性の顔つきが一瞬で緊張し、自ら立って先導してくれるので、後ろについて歩きながら「ああ、やっぱり・・」と思わずにはいられない。
『救急』と記載された部屋のドアで、IDカードをタッチすると数人の白衣の医師と看護師と、やはり警官の姿があった。
受付の女性が先に進み、一人の看護師に声をかけると、そこにいた全員が李祐を振り返った。
そのリアクションに李祐は恐怖を感じて肩がこわばった。
「沢渡李祐さんですね?」と中年女性の看護師が尋ねてきた。
「はい、そうです」
「沢渡拓真さんの奥様で間違いないですね?」とさらに聞かれ
「はい、間違いありませんが」と緊張して答えた。
「落ち着いて聞いて下さい。ご主人はおそらく一酸化炭素中毒で、心肺停止の状態で当院に救急搬送されて来ました。今、“緊急蘇生対応”、つまり“二次救命措置”を行っています」
と告げられ、言葉の意味と違いはよく分からなかったが、“蘇生”と“救命”という言葉だけで、李祐は気が遠くなりそうだったが、懸命に
「はい」とだけ答えて、看護師の次の説明を待った。
「できる限りの対応を続けますので、こちらの控え室でお待ち下さい」
看護師の説明は、闇の中からの救いの言葉ではなくて、『夫は生死を彷徨っている』というさらに暗い闇に押し戻されるような非情さを李祐は感じた。
李祐はフラフラとその場にほとんど倒れそうになっている。
それを見て、二人の看護師が彼女の脇を抱えて控え室に連れて行った。
李祐は抱えられたままソファに座らせてもらい、何とか姿勢を保っていた。
そこに、一人の男と警官が現れた。
男は研究所総務の山形だった。
李祐は彼が受付の横に居たのに気づかなかったようだ。
「奥様、総務の山形です。大変なことになってしまいましたね」李祐はその声にやっと反応し、
「ああ、山形さん。ご迷惑をおかけします」
「いいえ、とんでも無いです」と山形が答えるのを、ソファから立てずに李祐は、薄い表情を浮かべて軽く頭を下げた。
山形の横にいる警官は無言でただその様子を見ているだけだった。
控え室のガラス窓の外では、相変わらず強い風がさらに強まったようで、“ゴウゴウ”と暴力的な音を立てて吹いている。
李祐にとっては不安と恐怖を助長させる音だった。
時折、廊下側からは人の会話が断片的に聞こえてきたが、風の音に消されて、なんと言っているのかは分らない。
とてつもなく長く不安な時間が過ぎた頃に、部屋に白衣の黒縁メガネをかけた医師らしい男と、先ほどの中年女性の看護師が控え室に入ってきた。
李祐は顔を上げて彼らの表情を窺ったが、極めて深刻な表情だったので、次に出てくる不吉な言葉をある程度予想した。
白衣の男が
「救急対応を担当した医師の奥田です。大変残念なご報告ですが、懸命な蘇生対応を行いましたが、自己心拍が再開しませんでした。当院ではこれ以上のことはできません。残念ながらご主人はお亡くなりになりました」と神妙な面持ちで告げた。
李祐は、自分の周りのすべての音がなくなり、自らの全ての気力が失せたことを感じた。
真空状態にいるような時間が暫くあり、中年の看護師の
「ご主人にお会いしますよね?」との呼びかけに
「拓真に会おう」という意思だけで懸命に立ち上がり、看護師に支えられてICUに向かった。
ICUでは様々な救命器具はすでに外され、ストレッチャーの上で夫拓真は目を瞑っていた。
李祐はよろめきながら駆け寄り、眠っているような頬を両手で包むと、明らかに冷たくなり始めていたが体温はまだ感じられる。
「拓真、拓真!目を覚まして!冗談はやめて!」と大きな声をあげるが、何の反応もない。
李祐は何度も何度も声をかけるが、何の反応もないことの意味を数分後にやっと理解した。
彼女はその場でしゃがみ込み、声をあげて泣き崩れた。
看護師が背中をさすり、立ち上がるのを手伝ったが、彼女の顔や全身からは悲しみの全てが溢れている。
山形と警官も拓真の横に立ち、手を合わせていた。すでに彼は死者つまり“仏”となっていたのだ。
控え室に戻った李祐に、山形が警官から何かを催促されて
「奥様、警察の方が少しお話をしたいとおっしゃっていますが、大丈夫ですか?」と蚊の鳴くような小さな声で打診する。
李祐は表情もなく、声も出せずにほんの少し頷いた。
警官は研究所の守衛からの緊急連絡を受けて、現地に到着してからの経緯と死因を告げた。
『一酸化炭素中毒』だと思われると告げられる。
李祐はあまりその意味を理解出来ずに「そうですか」とだけ答える。
その後、看護師が近くに身寄りの方はいるのかと聞くと
「信濃市に妹がいます」と李祐は自らもそこに救いがあるように感じながら答える。
「連絡はつきますか?」と言われ、控え室から何とか気力を振り絞って妹沙流に電話をする。
沙流は李祐からの電話にすぐに出て、姉の力のない声で義兄拓真の死亡の報告を聞いて、すぐに病院に向かうと告げた。
幸い新幹線がまだ運行されている時間だったので、沙流は1時間半ほどで病院に到着した。
時刻は十一時になろうとしていた。
沙流は李祐の二歳年下の妹で、結婚して大藤沙流となっていたが、時々高井沢の姉夫婦宅を訪れていた。
彼女は処置室の担架に横たわる拓真の姿を見て、暫く慟哭した。
「なんで?お兄さん、どうしたと言うの?」
彼女もこの突然の義兄の死に、悲しみと驚き以上の反応をできなかった。
暫く声を出して泣き止むと振り返り、姉のそのまま夫の後を追いそうな様子を見て、姉を支えようと覚悟を決めた。
沙流は小さい頃から、男の子のような気の強さがあった。
まして、姉のこととなると姉と妹の立場が逆転するほどの強さを見せた。
沙流は看護師と警官に明日以降のことの相談を受けた後に、姉李祐を連れて姉の山間の家に向かった。
彼女はナビがあるので迷わずに家に行けたが、義兄が息を吹き返すのではと思わずにはいられなかった。
それほど、突然の出来事だったのだ。




