第9話
夢の余韻が、まだ胸の奥に疼くように残る。
あれから数日が経った。
夢魔との対峙。
戦闘のおかげもあってか、夢魔の被害は徐々に減り始めていた。
男子たちの疲労は薄れ、教室の空気は少しずつ、昨日より軽やかになっていた。
「弁当バトルしよーぜ! お前の唐揚げをリリースして、こっちの卵焼きを召喚!」
「なんだよ、弁当バトルって!」
笑い声が自然に弾む。
ルルが隣の席から肘で突き、銀髪を揺らして囁く。
「見て見て、ヒビキ! みんな日に日に元気になっていくね!」
「ああ……だが、油断はできないな。あの女の気配は、まだ消えていないんだろ?」
「えー、せっかくの平穏なんだから、楽しもうよ!」
「夢の中とはいえ、殺されかけたからな」
「ほらでも、今日の朝礼で発表されたでしょ? 来週から体育祭よっ! 私、応援団やりたいなぁ~」
体育祭。
学園の風物詩。
汗と歓声に満ちた、運命の舞台。
だが、少年の胸に、微かなざわめきが広がる。
夢魔の影が、祭りの喧騒に紛れて忍び寄る予感。
担任の先生が黒板を叩き、教室のざわめきを静める。
「みんな、体育祭の準備が本格化するぞ! クラス対抗リレー、玉入れ、騎馬戦……今年は優勝狙える布陣だ。転校生の二人も、積極的に参加してくれよな!」
注目が二人に集まった。
女子たちが声をかけ始めた。
「ヒビキくん、リレー出ない?」
「ルルちゃん、チアやろ!」
教室が一気に沸いた。
サラが微笑む。
「ヒビキ、ルル。準備委員を手伝ってくれる? 私、今年の実行委員長なんだ」
少年が口を開きかけた。
「そういうのは……」
その時、隣のルルが勢いよく手を挙げた。
「もちろんやるよぉ! 私たちでバッチリ手伝っちゃう!」
ルルが飛び跳ねた。
ヒビキの目がルルに向いた。
「おい、待て……」
「ヒビキ、絶対楽しいよ! ポスター描いたり、横断幕作ったりさ!」
サラが目を細めて頷く。
「うん、ルルのセンス、楽しみにしてるわ」
ヒビキがため息をつく。
「……俺は裏方専門で頼むぞ」
「え、よかった……! 頼りにしてるわよ!」
サラが頷いた。
ルルが少年の袖を引っ張り、にこにこしながら耳元で囁いた。
「ヒビキ、一緒に楽しもうよ! 絶対面白いって!」
チャイムが鳴る中、彼の視線が窓の外の校庭に注がれる。
青空の下、グラウンドが広がる。
一時の平穏。
体育祭の幕開けが、新たな運命を紡ぎ出す。
昼休みのチャイムが鳴り響くと、教室は一瞬で空っぽになった。
ヒビキは鞄から水筒を取り出す。
ルルはすでに女子たちの輪に混じり、銀髪をポニーテールにまとめ直しながら笑い声を上げていた。
「じゃあ、ヒビキ! 私、女子とチアの振り付け練習するね! 後で合流してよ!」
彼女が手を振り、軽やかな足取りで教室を出ていく。
彼は小さく頷き、男子たちのグループに近づく。
廊下で待っていたのは、クラスメイトの数人。
リレーのエースを自負するユウトが、肩を叩いて声をかけた。
「よし、ヒビキ! お前も来いよ。グラウンドで練習しようぜ!」
彼は無言でついていく。
校庭に出ると、陽光が芝生を照らし、風が汗の匂いを運んでくる。
男子たちはすでにバトンを手に、スタートラインに並んでいた。
玉入れのバスケットが脇に置かれ、騎馬戦用の縄も転がっている。
「まずはリレーからな! ヒビキ、お前アンカーだ。俺らが繋いだら、ぶっ飛ばせよ!」
ユウトがバトンを握り、スタートの合図で走り出す。
砂埃が舞い、息が上がる中、二走目の男子がバトンを受け取る。
少年は最後の位置で膝を軽く曲げる。
風の流れを肌で感じ、地面の振動を足裏で捉える。
バトンが彼の手元に渡る。
指がストックのようにバトンを握り、足が大地を蹴る。
加速は爆発的だった。
筋肉の繊維が一斉に鋼線のように張り詰め、風を切り裂く脚が空気を鞭打つ。
一瞬で先頭集団を抜き、残り五十メートルを影のように駆け抜ける。
ゴールテープを切った時、男子たちの歓声がグラウンドを震わせた。
彼はただ静かに息を整える。
「すげえ! ヒビキ、何だよその脚力! プロ級じゃねえか!」
ユウトが駆け寄り、ヒビキの肩を叩く。
次の男子が玉入れの輪を指さし、笑いながら提案した。
「次、玉入れだ! 俺らで壁作るから、投げてみろよ!」
少年は頷き、玉を手に取る。
男子たちが即席の壁を作り、隙間からバスケットを守る。
少年の腕がしなる。
玉は弧を描き、風を切って飛ぶ。
一発目、二発目――すべてが輪の中心に吸い込まれるように落ちる。
壁の隙間を縫う精度は、まるで狙撃のよう。
「マジかよ! 百発百中じゃん!」
三走目の男子が飛びついてくる。
次は騎馬戦の練習。
ユウトが下になり、少年が上に跨る。
縄を握った手が固く、相手役の男子たちが輪になって突進してくる。
少年の瞳は氷のように冷静に敵の隙を抉る。
相手の先頭のわずかな傾き、縄を握る手の僅かな緩み、微かな揺らぎ――すべてが彼の視界に焼きつく。
次の瞬時、ユウトの肩を踏み台に、少年の体が弓のようにしなり、爆発的な跳躍で虚空を切り裂く。
彼の指先が閃光のように縄に絡みつき、敵のそれを一瞬で引きちぎる。
奪われた縄が揺れ、相手の悲鳴が遅れて響く。
勢いのままに、少年は相手の背を踏みつけ、崩れゆくその上体を蹴散らして反転。
空中で体を捻り、ユウトの元へ舞い戻る。
着地は猫の如く、音もなく沈み込む。
息一つ乱れず、少年は縄をユウトに手渡し、静かに構え直す。
周囲の男子たちは口をあんぐりと開け、息を飲んだまま凍りつき、グラウンドに沈黙の渦が広がる。
「おいおい、ヒビキ! お前天才過ぎるだろ!」
男子たちが一斉に拳を突き上げ、ハイタッチの嵐。
笑い声がグラウンドに響く。
ユウトが少年の背中を叩き、息を弾ませて叫ぶ。
「今年のクラス、優勝確定だわ! 俺達も負けてらんねーわ!」
少年は汗を拭い、水筒を傾ける。
男子たちの興奮が、胸のざわめきを少しだけ和らげた。
グラウンドの端、木陰のベンチでルルは女子たちと輪を作っていた。
スカートを軽く押さえ、ステップを踏む。
チアの振り付け練習だ。
リーダーの女子が手を叩き、声を上げる。
「よし、次はジャンプ! ルルちゃん、腰を落として――はい、アップ!」
ルルが膝を曲げ、ぴょんと跳ぶ。
ポンポンを振り、笑顔を輝かせる。
着地は軽やか。
隣の女子が手を叩き、輪が広がる。
「ルルちゃん、動きキレッキレ!」
「えへへへっ!」
ルルが輪の中心に回り、女子たちを引っ張る。
ステップを揃え、掛け声を重ねる。
遠くで男子たちの歓声が聞こえ、ルルは視線を移す。
少年がバトンを握り、疾走する姿。
玉を投げ、縄を奪う姿。
男子たちが拳を突き上げ、彼を囲む。
あのクールな少年が、小さく笑う。
彼女はポンポンを握りしめ、胸が温かくなる。
女子の一人がルルの肩を突き、笑う。
「ルルちゃん、どうしたの? ニヤニヤして!」
「えへぇ、なんでもないよ!」
「本当? あっちの男子たちばっかり見てぇ、ヒビキくんに夢中なんじゃないのぉ~?」
ルルが頰を赤らめて手を振る。
「はうあうっ……!」
女子たちが一斉に頷き、声を合わせる。
「じゃあ男子たちを、チアで全力サポートしよ!」
女子たちの笑いが重なる。
グラウンドの風が、ほっこりとした空気を運ぶ。
チアのステップが続き、ルルの瞳に、少年の姿が優しく映った。
放課後のチャイムが鳴り、校舎の廊下に生徒たちの足音が響く。
ヒビキとルルは、実行委員室へ向かう。
実行委員室の扉をノックすると、サラの声が響く。
「どうぞ!」
中に入ると、机の上にポスターの原稿が広がり、赤い髪のサラがペンを握っていた。
彼女は顔を上げ、二人に微笑む。
頰にインクの跡が少しついている。
「来てくれたのね。ありがとう。今日は横断幕のデザインを手伝って!」
少年は机に近づき、原稿を広げる。
ルルが隣に座り、色鉛筆を手に取る。
サラがコーヒーを淹れ、三人に手渡す。
湯気が立ち上り、部屋に温かな香りが広がる。
「それで……今日の様子、どうだった?」
その声に、わずかな期待が混じる。
ヒビキはペンを走らせながら、淡々と答える。
「リレーでアンカーを任された。みんな、元気に走り回っていたよ」
ルルが色を塗りながら、付け加える。
「ヒビキ、超カッコよかったよ! 玉入れも騎馬戦も、みんな大興奮! サラも見に行けばよかったのに~」
サラの目が輝き、ペンを置く。
胸を撫でおろす仕草。
「そう……よかった。昨日まで、みんなぼんやりしてて心配だったの。でも今日、顔色が少しスッキリしてる子が増えたわ」
彼女の肩から力が抜け、笑顔が柔らかくなる。
ルルが手を叩き、頷く。
「ねっ! 明日はきっともっと良くなるよ!」
少年はペンを止め、サラの目を見る。
「だが、まだ油断はできないな」
サラの表情が一瞬曇るが、すぐに明るく頷く。
「ええ、そうね。でも、少し良くなっただけでも嬉しいわ」
部屋の空気が少し軽くなる。
「あぁ……そうだな」
少年は胸を撫でおろす。
ルルが原稿に花のイラストを加え、三人で笑い合う。
横断幕の線が、体育祭の期待を紡ぎ出す。
だが、窓の外の夕陽が、校庭の影を長く伸ばしていた。
夢魔の気配は、静かに息を潜め、次の宴を待つ。




