第8話
夜のマンションは、静かな余韻に包まれていた。
キッチンのシンクで皿を磨く水音が、かすかに響く中、ヒビキは食卓の椅子に腰を下ろし、グラスを回すように指でなぞっていた。
カレーの辛い香りがまだ部屋に残り、ルルの作った料理の温もりが、胸の奥にじんわりと広がる。
だが、少年の視線は窓辺の羊皮紙の山に注がれていた。
黄色い紙束が、月光に青白く照らされ、微かに震えているように見える。
ルルがエプロンを外し、天界の通信デバイスを耳に当ててキッチンから出てくる。
「うん、了解。ありがとう!」
明るい声で通信を切る。
「神界の事務局から、明日には詳しい返事来るはずよ! きっと、解決の糸口が見つかるわ!」
彼女はテーブルに駆け寄り、少年の隣にぴたりと座る。
肩が触れ合い、ルルの体温が伝わる。
「ほら、笑って? 私がついてるんだから、一緒に乗り越えようよ。ね?」
ルルは少年の頰に手を伸ばし、親指で軽く撫でる。
柔らかな感触が、ヒビキの緊張を少し解す。
少年はルルの手を優しく握り返す。
「ああ……そうだな。少し考えすぎてたみたいだ」
「考えすぎはヒビキの悪い癖よ、もう。私もいるんだから、もっと頼って! ね? サラも巻き込んで、三人で悪夢退治しよ?」
ルルが悪戯っぽく目を細める。
少年が苦笑し、肩をすくめる。
「サラか……あいつを巻き込むと、事態が複雑になりそうだな。だが、そうだな。頼りにしてるよルル」
「えへへぇ」
二人はそのままベッドの方へ移動する。
少年はベッドの端に腰を下ろし、ルルが隣に座る。
肩を寄せ合い、ルルの頭が自然と少年の肩に預けられる。
「今日はもう休む。明日情報を集めて、犯人の正体を突き止める」
少年はルルの髪を軽く撫で、目を閉じる。
ルルが少年の腕を引き寄せる。
「うん、いい夢見てね。おやすみなさい、ヒビキ」
二人の息が重なり、部屋の灯りがゆっくりと消える。
静かな夜が訪れる。
だが、眠りに落ちる直前、少年の耳元で微かな囁きが響く。
「ヒビキ……こっちに。こい」
それは風の音か、それとも――。
少年の瞼が重くなり、意識が霧の中に沈む。
視界がぼやけ、果てしない霧の大地に立つヒビキ。
足元は柔らかく、空は灰色に淀み、甘い香りが鼻をくすぐる。
遠くから、金色の影がゆっくりと近づいてくる。
顔は不明瞭――ただ、金色の髪が霧を切り裂き、妖艶な笑いが反響する。
「ようこそ、夢の世界へ……」
声は蜜のように甘く、少年の胸をざわつかせる。
「誰だ、お前は!」
少年は反射的に腰に手をやる。
いつもの拳銃のホルスターを探すが――何もない。
指が空を掻くだけ。
次にナイフの柄に触れようとするが、腰は空っぽだ。
夢の中だ。
武器など、持てるはずがない。
現実の戦場で鍛えた筋肉が、ただの肉体として疼く。
少年は構えを取る。
「武器がない……なら、素手でいくしかねぇか……!」
足を肩幅に開き、重心を低く落とす。
金髪の影が迫り、霧が渦を巻いて女の姿を形作る。
顔はまだぼやけているが、豊かな胸元と細い腰が、妖しく揺れる。
「ほう……抵抗するんだな。付き合ってやるよ」
女の声が響き、彼女の右足が鞭のように少年の脇腹を狙う。
「やらせるか!」
少年は体を捻り、キックをかわす。
足を滑らせ、相手の勢いを利用してカウンターの膝蹴りを放つ。
膝が女の太腿に食い込み、影をわずかに後退させる。
「へぇ、思ったよりやるな。でも効かないぜ?」
女の左拳が即座に追撃。
少年のガードを貫き、肩に直撃する。
「ぐうっ!」
衝撃が骨まで響き、少年は体を反らして受け流す。
腕で拳を逸らし、相手のバランスを崩すカウンターを狙う。
女の腕を掴み、引き寄せて肘打ちを叩き込む。
肘が女の肩に当たり、黒い粒子が散る。
だが、女の力は異常だった。
女が笑い、一瞬で間合いを詰める。
拳が少年の胸を直撃。
「かはっ!」
衝撃が骨まで響き、少年は後方へ吹き飛ばされる。
地面に転がり、すぐに起き上がるが、肺が焼けるように痛む。
「この女……速すぎる。しかも、見た目以上に重い……」
「誰が、デブだって!? ごらぁ!」
女が近づき、連続の掌底を連打。
サッ、サッと空気を裂く音が響き、少年はガードを固めて受け流す。
「言ってねぇよ!」
腕で掌底を逸らし、相手の肘を狙ってカウンターの膝蹴りを放つ。
女の腕が跳ね上がる。
少年は距離を取ろうとするが、次の瞬間、女の両足が少年の腰を狙って跳び蹴りを放つ。
「がぁっ」
キックが少年の脇腹を抉り、息を詰まらせる。
「ははっ、死にはしないだろ。折れるのは体じゃなくて心だからな」
少年は歯を食いしばり、体を回転させて受け身を取る。
女の両手が少年の首を狙い、体重が少年を地面に押し倒す。
女の力は、無限に感じられ、少年の筋肉をねじ曲げるように締め上げる。
少年は背中を反らして起き上がり、地面を蹴って女の体を押し返す。
女の膝が少年の腹を抉り、両手で首を絞め上げる。
「無駄だ。夢では、お前はただの獲物だ」
「ぐがっ……ぐっ」
少年の視界が暗転しかける。
指先が痺れ、抵抗が止まる。
女が覆いかぶさり、冷たい指が少年の顎を掴む。
金色の髪が顔に落ち、甘い香りが濃くなる。
「さあ、眠れ……永遠の愛を捧げろ……」
少年は拳を振り上げようとするが、女のパンチが顎を捉え、地面に叩きつけられる。
「ぐあっ」
その瞬間――空間を、光が包む。
輝きが霧を裂き、巨大な翼が広がる。
大天使の姿。
青い瞳に怒りが宿る。
「ヒビキに触れるな!」
ルルの声が雷鳴のように響き、手から光の弾を連射する。
詠唱が始まる。
「銀の糸、虚空の帳、露の雫、穢れを溶かし、ここに玉座を降ろせ!『セイクリッド・レルム』」
「ルル……来てくれたのか!」
少年が弱々しく叫ぶ。
ルルが光の弾を連射しながら、目を合わせる。
「当たり前よ! ヒビキの心の叫び、聞こえたわ。私の領域で、この夢魔を浄化する! もう少し耐えて!」
光の空間が霧を焼き払い、金髪の影ごと世界を包み込む。
「ちいっ! 領域の上書きだとおおおおおお」
女の悲鳴がこだまし、影の体が溶けるように崩れ落ちる。
ルルは翼を広げて飛び上がり、少年の前に降り立つ。
ルルが少年の頰を撫でる。
「ヒビキ、大丈夫? 絶対守るから……ずっと」
彼女の唇が優しく触れ、温かな感触が少年の胸に広がる。
キスは深く、夢の枷を溶かすように甘い。
ルルの指が少年の背中を優しく引き寄せ、二人の息が重なる。
「……さあ、帰ろう。ヒビキ」
霧の平原が白く染まる。
パチッ。
ヒビキの目が開く。
柔らかな膝の上、銀髪の匂いが鼻をくすぐる。
ルルの顔がすぐそこにあった。
「ヒビキ、起きた? よかった……」
ルルの手が少年の額を拭う。
少年は体を起こし、ベッドに座り直す。
「俺は……何があった……あれは夢だったのか?」
ルルが隣に寄り添い、肩を軽く叩く。
「あれは……悪魔だったわ……それもかなり力を蓄えていたわ」
少年はルルの手を握り、引き寄せる。
「悪魔……そうか……ルル……お前が俺を助けてくれたのか。ありがとう。あのままだと俺はやられていただろうな……」
その声は低いが、握る手に力がこもる。
ルルが少年の肩に頭を預ける。
「いいのよヒビキ。それに実際に接触して、感じたわ。あの女の気配……。堕ちた天使の残渣かもしれないわ。学園を狩場にして、精気を吸い取ってるみたいね。この事件は間違いなく、あれが原因ね。神界にも連絡しておくわ」
ルルの指が少年の掌をなぞり、二人はベッドで体を寄せ合う。
少年の目が鋭くなり、ルルの肩を抱く。
「……俺もやれることはする。一人で頑張らなくてもいいからな」
ルルが顔を上げ、青い瞳を輝かせて頷く。
「うん! 二人なら、最強無敵よ!」
二人は笑い合い、ルルが少年の胸に手を置く。
心臓の鼓動が重なり、部屋の空気が温かくなる。
桜の幻が窓ガラスに映り、学園の影は深みを増す。
だが、二人の絆は、確かだった。




