第5話
次の日の放課後、校舎の喧騒が徐々に収まり、廊下に夕陽の長い影が伸びていた。
ヒビキとルルは並んで靴箱の前に立ち、鞄を肩にかけ直す。
彼女が上履きを脱ぎながら、ふと隣の靴箱に視線を移す。
そこに、赤い髪の少女が本を一冊抱えて佇んでいた。
サラだ。
彼女は上履きを丁寧に揃え、こちらに気づいて軽く手を挙げる。
「二人とも、まだ帰らないの?」
サラの声は穏やかだが、どこか探るような響きがある。
少年は無言で靴を履き替え、ルルの鞄を軽く持ち上げて手渡す。
「いや、すぐ帰るよ」
短く答えて、靴箱の扉を閉める。
サラが一歩近づき、腕を軽く組む。
制服の袖口がわずかにずれ、細い手首が露わになる。
「部活とかはやらないの? 転校してきてすぐだけど、みんなあなたのこと気にしてるわよ。特に男子たち」
少年は靴紐を結びながら、顔を上げない。
指先が紐を素早く巻き、固く結ぶ。
「俺は課外活動があるから、部活は入らないな」
サラの眉がわずかに上がり、唇を軽く噛む。
「そうなのね……あなた、運動得意そうだから、みんな期待してたんだけどな。サッカー部とか、ぴったりだと思うわ」
ルルがぱっと顔を輝かせ、サラの腕に軽く触れる。
その指先が、サラの袖を優しくつまむ。
「そうよね! ヒビキ、こんなにカッコ良くて運動神経いいのに、部活しないなんてもったいないよね! サラもそう思うよね!」
彼女はルルの手を優しく払う。
赤い髪が揺れ、耳朶が熱を帯びたように見える。
「いや、そこまでは言ってないけど……でも、そうね。部活とかやってると、かっこいいかも、ね」
言葉の端が、照れ隠しのように上ずる。
「ねー、絶対かっこいいよ! 想像しちゃう。ヒビキがゴール決めて、みんなが拍手喝采! 私もマネージャーになろうかなっ」
ルルが手を振って興奮気味に言う。
サラは靴箱に寄りかかり、足を軽く組み替える。
少年は立ち上がり、ルルの肩に手を置いて引き戻した。
ルルの体がふわりと揺れた。
「きゃっ」
「ルル、サラさんが困ってるだろ。すまない、サラさん」
少年の声は低く、謝罪の響きを抑えめに。
サラは一瞬、息を詰まらせる。
彼女の指が鞄の縁を強く握り、爪が布地に食い込む。
「……しなくていいわよ」
小さな声。
ほとんど囁きに近い。
少年が耳を澄ます。
廊下の遠くで、部活の生徒たちの笑い声が響く中、彼は首を傾げる。
「……え? すまないなんて言ったか、聞き取れなかった」
サラは深く息を吸い、顔を上げて少年を睨むように見つめる。
だが、その瞳には苛立ちより、柔らかな揺らぎがある。
彼女は赤い髪を強くかき上げ、言葉を吐き出す。
「別に……さん付けしなくていいから。クラスメイトだし」
足音を響かせて一歩下がり、鞄を肩にかけ直す。
頰の赤みが、夕陽のせいか、それとも別の理由か。
少年は小さく頷く。
「あぁ、そうか。すまない……サラ」
名を呼ぶ声は、砂漠の風のように乾いていて、しかしどこか温かみを帯びる。
ルルが手を叩き、二人を交互に見て笑う。
彼女はサラの隣に寄り、腕を絡めようとする。
「そうそう! クラスメイトだもんね! これでみんな友達!」
少年はルルの頭を軽く小突き、彼女の体を優しく押し返す。
「いたっ」
ルルが笑いながら後ずさった。
「お前はもっと人との距離感を、だな」
言葉に苦笑を混ぜ、靴箱から離れる。
サラは二人を交互に見つめる。
その唇が、わずかに弧を描く。
「あんたたちって、やっぱり変わってるわね。じゃあ、私は帰るわ。気が向いたら、サッカー部でも見学行ってあげて。あそこのキャプテンが、あんたのこと気にしてたわよ」
サラは踵を返し、廊下を歩き出す。
赤い髪が揺れ、足音が軽やかに遠ざかる。
少年は無言で見送った。
ルルが少年の袖を引っ張り、目を輝かせる。
「サラ、いい子だね!」
彼は肩を竦め、校門へ向かう。
「そうだな。……行こう」
そして、一時間後。
街の喧騒を抜け、二人は高層ビルの屋上にいた。
夕暮れの空が茜色に染まり、遠くのグラウンドからサッカー部の掛け声が微かに聞こえてくる。
ヒビキはコンクリートの縁にライフルケースを置き、膝を折って展開を始める。
ストックを肩に押し当て、スコープを調整する。
風の流れを肌で感じ、視界の端で敵の影を探る。
ルルは隣で羊皮紙を広げる。
だが、すぐに紙を畳み、双眼鏡を構える。
その瞳が、グラウンドを鋭く捉え、風向きを確かめるように首を傾げる。
「今日のターゲットは……サッカー部のキャプテンとマネージャーよ。キャプテンは背番号七、名前はユウト。身長一七八センチ、体重七〇キロ前後。マネージャーはサヤカ、身長一六〇センチ。グラウンドの東側ベンチ周辺で合流予定。距離、約四五〇メートル。標高差、十五メートル。風速、時速四キロ、方向は南西から微かに右旋回。湿度六十五パーセント、気温十八度。調整は?」
彼女は小型の風速計をポケットから取り出し、数字を素早く読み取る。
銀髪を耳にかけ、双眼鏡を少年のスコープ位置に合わせるように微調整する。
少年はスコープ越しにグラウンドを睨む。
ルルの報告を即座に反映し、照準をずらす。
「了解……修正完了」
声は低く、任務の重みを帯びる。
その指がストックを握りしめ、ルルの報告を基に引き金の感触を確かめる。
ルルが拳を軽く握り、にこりと笑う。
「その意気よ! 例のモノはマネージャーに渡してあるわ」
「キャプテンの位置は?」
彼女がグラウンドの東側を注視。
「キャプテンはピッチ外、ベンチの後ろ五メートル。チームのフォーメーションをチェック中。予測ルート――マネージャー接近で、ベンチへ直進の可能性八十パーセント。干渉要因なし、周囲の部員は西側に集中。風の変動、安定。続報を待て」
「了解。状況を待つ。干渉要因が出たら即報告」
彼女の目が細まり、双眼鏡を微かに動かす。
「あっ、マネージャーが接近中。グラウンド東端、ベンチから二十メートル。ビニール袋二つを抱えて、歩行速度時速四キロ。重みで肩が傾き、バランス崩れ気味。キャプテンが気づく……今。キャプテンの反応――袋に目がいってるわ。移動開始、ベンチへ直進。距離縮小中、五メートル……三メートル。完璧なアングルよ」
少年の視界に、少女のシルエットが入る。
制服のスカートが揺れ、袋の重みで肩がわずかに傾く。
キャプテンが駆け寄り、声を上げる。
「重そうだな、俺が持つよ」
キャプテンの手が袋を受け取り、マネージャーの腕に触れる。
「状況、完璧。ターゲット心臓部、クリア。距離四百四十二メートル、風速維持。干渉なし、部員はピッチ中央。スナイプの準備に入って!」
少年が、マネージャーの胸元を捉える。
ルルの声が、耳元で響く。
「了解。ルル、合図を」
彼女が手を挙げ、指を鋭く振る。
彼女が、グラウンドと少年を交互に確認。
「今よ! 引き金、クリア!」
少年の指が、引き金を引く。
ブシュッ!
消音器のくぐもった音が、屋上の風に溶ける。
弾丸は弧を描き、虚空を裂いて飛ぶ。
光の尾を引き、マネージャーの心臓を貫く。
ルルが即座に双眼鏡で追尾し、効果を監視。
少女が膝から崩れ落ちる。
袋が地面に転がり、水筒が転がる音が響く。
キャプテンが慌てて袋を投げ捨て、彼女の体を腕に抱き起こす。
「大丈夫か!? おい、サヤカ!」
彼の声に焦りが混じる。
少女の目が潤み、息が荒くなる。
だが、痛みはない。
ただ、胸に温かな鼓動が広がる。
ルルが双眼鏡越しに囁く。
「命中確認。効果発現中――。心拍加速、予測通り。キスまであと十秒……完璧よ」
少女――サヤカ――はキャプテンの腕の中で、体を寄せる。
手が自然とシャツの裾を掴む。
「ユウトくん……ずっと好きだったの……」
唇が、ゆっくりと近づく。
キャプテンの目が見開くが、抵抗はない。
二人の息が重なる。
柔らかなキス。
グラウンドの芝生が、二人の影を優しく包む。
周囲の部員たちが気づき、ざわめきが広がるが、二人はもう、世界に二人きり。
キャプテンの腕が少女の腰を引き寄せ、キスが深まる。
恋の炎が、瞬時に燃え上がる。
ルルが双眼鏡をゆっくり下ろす。
彼女の肩から力が抜け、プロフェッショナルな表情が、いつもの笑顔に戻る。
「やったわ! 成功よ! 完璧なラブショット!」
ルルが飛び上がるように手を叩く。
翼の影が屋上のコンクリートに揺れる。
少年はライフルを畳み、ケースにしまう。
「任務完了。撤収する」
彼はルルの肩を軽く叩き、屋上の階段へ向かう。
ルルが後を追い、腕を絡めて笑う。
「次もこの調子で、恋の戦場を制覇しちゃおう!」
夜、ヒビキの部屋。
マンションのキッチンに、肉の焼ける香ばしい匂いが広がる。
ルルはエプロンを付け、フライパンを振る。
銀髪をポニーテールにまとめ、頰に小麦粉がついている。
「できたよー! ハンバーグ! ソースもルル特製よ!」
彼女は皿に盛り、テーブルに運ぶ。
ハンバーグの表面がこんがり焼け、付け合わせのポテトが湯気を立てる。
少年はソファから立ち上がり、テーブルに着く。
フォークを手に取り、ナイフで切り分ける。
肉汁が皿に広がり、ルルの笑顔がそれを映す。
「美味そうだな。いつもありがとう」
一口頬張る。
柔らかな食感が、口いっぱいに広がる。
彼女が向かいに座り、フォークをくるくる回す。
彼女の足がテーブルの下で、少年の膝に軽く触れる。
「ふふ、喜んでくれてよかった。今日のミッションも完璧だったわね!」
ハンバーグを切り、ソースを絡めて口に運ぶ。
頰が膨らみ、満足げに頷く。
少年はグラスに水を注ぎ、飲む。
「あぁ、そうだな」
「あのキスシーン、思い出すだけでニヤニヤしちゃう。サッカー部の二人、きっと明日からラブラブよ!」
ルルがフォークを置き、肘をテーブルに乗せて身を乗り出す。
「高校生同士の甘酸っぱい恋愛は、見ていてたまんないわねぇ。……羨ましいかも」
彼女は頰杖をつき、からかうように少年を覗き込む。
彼はハンバーグをもう一口、ゆっくり噛む。
視線を皿に落とし、フォークを回す。
「そうか。だが、これでまだ一件だ。あの量の指令……一体、いつ終わることやら」
言葉に、わずかな疲労が滲む。
彼は窓の外の夜景を眺め、グラスの縁を指でなぞる。
ルルが羊皮紙の束をテーブルの隅に広げ、指でパラパラとめくる。
紙の端が、灯りに照らされる。
「そうよねぇ。一応、全部目は通してみたんだけど……ほとんどがターゲット不明になっていて、実名があるものはそこまで多くなかったのよねぇ。私もこんなこと初めてで、神界恋愛成就事務局に確認を取ってるんだけど、まだ音沙汰がないのよねぇ」
彼女はため息をつき、紙を畳む。
だが、すぐに笑顔に戻り、ハンバーグを頰張る。
少年はグラスを置き、ルルの顔を見る。
彼女の頰に、ソースが少しついているのに気づき、ナプキンを差し出す。
「まぁ、こなしていけば自ずとターゲットにぶち当たるんだろうが……とにかく、数をこなすしかないんだろうな」
ナプキンを受け取ったルルが、頰を拭く。
ルルが椅子を引いて立ち上がり、少年の隣に移動する。
彼女の肩が彼に寄り添い、温もりが伝わる。
「そうね。今日はいっぱい食べて、いっぱい寝て、明日からも頑張ろう! 今日も一緒に添い寝してあげようかなぁ」
少年はフォークを置き、ルルの頭を軽く撫でる。
「一度もしたことないだろ!」
声に笑いが混じり、部屋に柔らかな空気が広がった。
ルルが笑った。
「えー、いつかね!」
彼女が皿を片付け始めた。
少年は立ち上がり、手伝うためにシンクへ向かった。
二人の影が、キッチンの灯りに長く伸びる。
夜の部屋に、食器の音と小さな笑い声が響いた。




