第20話
ヒビキは即座に前に出た。
銃を構え、声を張り上げる。
「サラ! 聞こえるか? おい、サラ!」
だが、サラの反応はない。
その唇がわずかに動くだけだ。
空虚な息が漏れ、トレイの縁がカチリと音を立てる。
ルルが少年の袖を強く掴み、青い瞳を細めて囁く。
「あれは……悪魔の依り代になってるわ。サラの体を、乗っ取ってるのよ」
少年の指が引き金に食い込み、銃口がサラの胸元を捉える。
「……じゃあ、あの体はサラってことか。本物のサラは、まだ中にいるのか?」
彼女は首を振り、銀髪を闇に溶かすように揺らす。
「恐らく……ヒビキの夢の中にいたあの悪魔よ。もしかしたら、上級悪魔かもしれない」
サラの唇が、ゆっくりと弧を描く。
虚ろだった瞳に、妖しい光が宿る。
「へぇ、天使の癖に勘がいいな。この世界に毒され過ぎてるんじゃないか? ルル……お前、随分と人間臭くなったなぁ」
声はサラのものだが、響きが違う。
低く、蜜のように甘く、しかし棘のように鋭い。
サラの体が一歩、踏み出す。
その瞬間、地面が轟音を立てて抉れ、土塊が噴き上がり、周囲の地面を隆起させる。
「意外と脆いな」
メイド服の裾が土埃にまみれ、トレイが空を切り裂くように振り上げられる。
空気が震え、少年の足元がわずかに沈み込む。
ルルが息を飲み、翼の影を背中で広げかける。
「あの時とは比較にならないほどの力……学園中の人間の精気を吸って回ったわね!」
サラの笑いが、闇のヴェールに反響する。
「ははっ、ご名答。あの時は力が完全じゃなかったからな。でも今は違う。受肉しているとはいえ、今のお前を倒すくらいならできるだろうな。神界に送り返してやるよ」
屋上のエナが、風を切るように手を振る。
金色の髪が闇に舞い、琥珀の瞳が冷たく輝く。
「サラ、あとは任せたわよ」
「あぁ。任された」
サラの体が、ゆっくりと頷く。
トレイを捨て、両手を広げる。
「じゃあ、死ぬ気で守れよ?」
次の瞬間、サラの体が爆発的に動く。
メイド服のスカートが風を裂き、地面を蹴る衝撃で空気が爆ぜる。
彼女の指先が爪のように鋭く伸び、ルルの喉元を狙って閃く。
空気が引き裂かれる音が響き、闇の粒子が尾を引きながら直進する。
「はやいっ」
ルルが咄嗟に翼を広げるが、少年が先に割って入ろうとする。
「ルル、下がれ! 俺が……!」
だが、彼女は少年の肩を強く押し、銀髪を翻して前に出る。
「ヒビキ、待って!」
ルルの手がサラの腕を掴み、衝撃を受け止める。
「くっ……重いっ」
「やるなぁ、さすが大天使!」
二人の体がぶつかり、地面に亀裂が走る。
「でも、負けないっ!」
ルルの膝が折れそうになるが、翼の力で体を反らし、サラの体を逆方向に投げ飛ばす。
「ぐはっ」
サラの背中が十メートル先の芝生に叩きつけられる。
メイド服のエプロンが裂け、土塊が雨のように降り注ぐ。
ルルが息を荒げ、少年を振り返る。
「悪魔は私がやるわ! ヒビキは他をお願い!」
少年の目が周囲を素早く走査する。
グラウンドの端から、黒装束の集団が静かに輪を作り、短剣を構えて迫っていた。
十数人、いや、二十人以上。
「……あぁ、憂鬱だな」
ルルがサラの体を睨み、唇を噛む。
「また一緒に海にい……」
少年の指が、ルルの唇にそっと触れる。
柔らかな感触を塞ぎ、静かに首を振る。
「それは戦場じゃ禁句だぜ」
少年は拳銃を抜く。
ルルから集団を引き離すように、体を低くして走り出す。
銃口が闇を切り裂き、牽制の弾が空気を裂く。
「来いよ、雑魚ども!」
サラの体がゆっくり立ち上がり、土を払う。
「やっと二人っきりになれたな、大天使。ヒビキの精気は、特別に美味しかったぜ」
ルルの翼が力強く広がり、光の粒子が掌に渦巻く。
「文化祭を邪魔して……みんなの笑顔を、夢を、全部壊して……絶対に許さないんだから! あと、ヒビキの精気はまだ吸ってないでしょ!」
ヒビキの足音がグラウンドを響かせ、集団が一斉に追った。
追う男の一人が息を切らしながら吐き捨てた。
「逃がさんぜ、ガキ!」
短剣の刃が月明かりに閃き、砂埃が舞った。
「よし……だいぶ引きつけれているな」
少年は走りながら、銃の消音器を素早く外した。
金属の冷たい感触を掌に感じ、即座に後方へ投げつけた。
「ぐあっ……!」
消音器が弧を描き、追う集団の先頭の男の額に直撃した。
鈍い音が響き、男の体がよろめき、フードがずれ落ちて倒れた。
「みんな、散開しろ!」
後方の男が叫び、集団が一瞬乱れる。
「このガキ、ただじゃおかねえ……!」
周囲の敵が一瞬足を止め、短剣を構え直す隙を生んだ。
だが、前方を塞ぐように新たな影が現れた。
三人、短剣を低く構え、少年の進路を遮った。
フードの下から、低い笑いが漏れた。
リーダー格の男が嘲るように囁いた。
「ふふ……ここまでだ。逃がさん」
少年の唇が、冷たく弧を描く。
「舐めるなよ」
少年が低く吐き捨てるように呟いた。
走りながら、少年の銃口が閃いた。
左の男の肩を正確に撃ち抜いた。
「がっ」
男の短剣が地面に落ちた。
男が痛みに叫び、肩を押さえて後退した。
「うぅ……!」
同時に、膝を狙った二発目が右の男の関節を砕き、体が崩れ落ちた。
男が地面に転がりながらうめいた。
「がはっ……!」
中央の男が隙を突いて飛びかかってきたが、少年は体を低く沈め、倒れた男の体を踏み台に跳び上がった。
空中で体を回転させ、振り向きざまに肩越しに心臓を狙い、引き金を引いた。
バンッ!
乾いた音が響き、弾丸が男の胸に沈んだ。
「ぐぅっ」
男の目が見開き、砂に崩れ落ちた。
男が最期の言葉を絞り出し、気絶した。
「くそ……神よ……」
倒れた体が、追手の足をわずかに阻んだ。
少年は着地と同時に、後ろを牽制で撃った。
銃口が連射し、走り続けた。
弾丸が追手の足元を削り、一人が膝を撃たれて転倒した。
後方の男が怒鳴り声を上げ、集団を煽った。
「追いつけ! 奴を逃がすな!」
別の男の短剣が空を切り、少年の背中を掠めたが、即座に体を捻ってかわした。
燕尾服の裾が翻った。
しかし、敵の数は減らなかった。
後方から新たな影が湧き出し、短剣の群れが闇を埋め尽くした。
少年が独り言のように呟き、息を吐いた。
「いったい何人いるんだ……くそっ」
少年の目が、校舎の影を捉えた。
ある場所を目指していた――音楽室。
息を荒げ、足を速めた。
校舎の扉が迫り、集団の足音が背後に迫る中、少年の指が引き金を握りしめた。
少年が自分を鼓舞するように囁いた。
「もう少しだ……耐えろ、俺の銃」
闇の旋律が、静かに高まりを告げていた。




