第19話
ヒビキの耳に、鋭い叫び声が突き刺さる。
後ろから追ってくる足音――いや、複数の影が迫る気配だ。
「ルル、走れ!」
「わ、わかった! 後から追ってきてるっ……!」
彼女が息を切らし、振り返りかけるが、少年が即座に腕を伸ばす。
「俺が何とかする! 今は逃げるぞ、ルル!」
少年の声が低く鋭く響く。
彼女は息を弾ませ、必死に足を動かすが、周囲の生徒たちが道を塞ぐ。
少年はルルの腰に腕を回す。
軽い体を一瞬で持ち上げ、お姫様抱っこの姿勢に変える。
倒れた生徒たちの間を飛び越えるように進む。
「ここでは被害者が出る! グラウンドに出るぞ!」
少年の声が響き、ルルの体をさらに強く抱き締める。
「ひえええ! あのっ、飛べるから、私……!」
彼女が慌てて抗議し、スカートを押さえる。
「今は飛ぶな! 奴らに狙われる可能性がある!」
少年は彼女の言葉を遮り走る。
ルルの指が少年の肩を掴み、互いの息が混ざる。
追手の足音が近づき、短剣の金属音が微かに聞こえる。
燕尾服の袖が重くなるが、彼女の安全だけが頭を占める。
そのまま、二人はグラウンドへ抜け出す。
そこに広がる光景は、予想外だった。
グラウンドに描かれた白線――文化祭の準備で引かれたはずのラインが、太陽の日差しを浴びてもなお、異様な輝きを放っている。
六芒星で囲まれた銀の翼の紋章が、脈打つように光り、空気を震わせる。
「なんだ、これは……」
少年が彼女を地面に下ろす。
ルルは足を着地させ、メイド服の裾を直しながら周囲を見回す。
その瞳が、紋章の光に映えて揺れる。
「この神力……もしかして……」
彼女の言葉が途切れる。
「この紋章、神の印よ。もしかして……これは」
少年が彼女を後ろに庇い、目を細める。
「どうした、ルル? なにか分かったのか?」
その瞬間、天が徐々に暗くなっていく。
青空が灰色に染まり、太陽が飲み込まれるように弱まる。
二人は思わず見上げる。
広大な学校を覆うように、黒い影が空を包み込んでいく。
雲ではなく、まるで布のような闇のヴェールが、校舎の屋根から降り注ぎ、グラウンドの端を這うように広がる。
風が止まり、空気が重く淀む。
同時に、屋上の存在が目に入る。
エナだった。
琥珀色の瞳が、二人の方を冷たく射抜く。
その唇が動き、声が風を切るように響く。
彼女の両手が空を掻き、指先から黒い粒子が舞い上がる。
屋根の端に立ち、ゆっくりと腕を広げ、呪文を紡ぎ始める。
声は低く、しかし校舎全体に反響するように広がる。
「影の織り手、星屑の残滓、光の欺瞞、黒き胎動す母なる夜よ、汝の翼を広げよ。日輪の嘲笑、我が意志は汝の糸、死者の記憶を宿す無限の衣なり。――展開せよ『ヴォイド・スレッショルド』」
一瞬にして、学校全体が闇で覆われる。
グラウンドの紋章が爆発的に輝き、黒いヴェールが空から降り注ぎ、校舎の窓を覆う。
少年は彼女の肩を掴み、身構える。
「あれは……エナ先輩?」
少年の声が低く響く。
彼女はエナの姿を凝視し、息を飲む。
「この力……やはり……」
「何か知っているのか?」
少年がルルの腕を強く握り、銃を構えながら問う。
彼女は唇を噛み、言葉を絞り出す。
「恐らくあれは……あの方はシ……」
だが、言葉を遮る声が空から降る。
「ルル、おしゃべりはそこまでよ」
エナの声が、闇のヴェールを通り抜けて響く。
その指がルルを指し、屋根からゆっくりと身を乗り出す。
「なぜ、あなたほどの人がこちらに……」
ルルがメイド服の袖を握りしめる。
「分からないとは言わせないわよ、ルル」
エナの唇が弧を描き、嘲りの笑みが浮かぶ。
「あれは敵か、味方か」
少年の指が引き金に掛かる。
ルルはエナを睨んだ。
「それは……置かれている状況によるかな?」
「今は?」
少年の声が鋭く、エナの瞳を射抜く。
エナは笑い、闇のヴェールを操るように手を振る。
「敵よ」
その言葉と同時に、空から何かが舞い降りる。
黒い粒子が渦を巻き、グラウンドに描かれた紋章の真ん中に落ちる。
ドンという重い衝撃音が響き、土煙が爆発的に上がる。
地面が抉れ、砂埃が二人の視界を覆う。
「ルルっ! 下がれっ!」
少年はルルを引き寄せ、体を盾にする。
煙がゆっくりと晴れていく中、エナの声が再び響く。
その指が紋章を指し、闇の粒子が渦を巻いて集中する。
何かが蠢く気配がする。
少年の銃口が煙を貫き、引き金に指を添える。
ルルの手が少年の腕を掴み、息を潜める。
二人は互いの体温を感じながら、煙の動きを追う。
風が煙を払い、徐々にシルエットが浮かび上がる。
「愛を示しなさい、ルル」
エナの声が、冷たく甘く響く。
少年がさらに構えを固める。
そこには一人の少女がいた。
メイド服を身に纏ったその姿――サラが、そこに立っていた。
赤い髪が揺れ、瞳が虚ろに輝く。
そのエプロンが翻り、手に握ったトレイが、微かに震えている。




