第2話
東京の夜景が、眼下を無数の灯火で埋め尽くしていた。
高層ビルの屋上は、風が鋭く切り裂くように吹き抜け、ネオンサインの反射がヒビキの頰を赤く染める。
スナイパーライフルを肩に担いだ少年の背中は、わずかに緊張で固く、指先がストックの溝を無意識に撫でる。
一年が経った今も、彼の目はあの砂漠のスコープ越しと同じく、冷徹に夜の闇を睨む。
だが、傍らに立つ女の存在が、すべてを変えていた。
銀髪を夜風に揺らし、白いコートを微かに震わせている。
彼女はスポッターとして、少年の隣に立つ。
双眼鏡を握り、囁くように指示を出す。
「ヒビキ、ターゲット確認。下の公園、東側ベンチ。女の子、赤いマフラー。距離三百メートル。風、軽く左から」
彼は無言で頷き、ライフルを展開する。
三脚を固定し、ストックを肩に押し当てる。
スコープの十字線が、公園のベンチを捉える。
女の子は男の肩に寄りかかり、笑い声を上げている。
無垢な恋の瞬間。
「いつでも撃てる」
短い言葉。
彼女が頷く。
「今よ。心臓を狙って」
少年の指が、引き金に掛かる。
ブシュッ!
消音器のくぐもった音が、夜風に溶ける。
弾丸は弧を描き、背後から女の子の心臓を貫く。
女の子が、突然体を震わせ、倒れ込む。
男が慌てて駆け寄る。
「え、ちょっと! どうしたの? ユイ!」
男の声が、公園に響く。
女の子――ユイ――は胸を押さえ、息を荒げて立ち上がる。
彼女の視線が、男に絡みつくように固定される。
体が自然と寄り添い、手が男の袖を掴む。
心臓の鼓動が、弾丸の力で加速し、運命の糸を紡ぎ出す。
男は戸惑いつつ、ユイを抱き寄せる。
「ユイ、大丈夫か!? 救急車呼ぶ!?」
彼女は首を振り、男の顔を上目遣いに見つめる。
唇が震え、ゆっくりと近づく。
「違うの……急に、胸が熱くなって……」
男の目が見開く。
だが、抵抗などない。
彼女の唇が、男の唇に触れる。
柔らかなキス。
公園の街灯が、二人の影を長く伸ばす。
周囲の喧騒が、遠のく。
彼女が、双眼鏡を下ろし、にこりと笑う。
「ミッション、コンプリート! さすがヒビキねっ。完璧なショットよ。見て、あの二人はもう離れられないわ」
「戦場に比べりゃ、わけないさ……」
彼女が、ぷくっと頰を膨らませる。
翼の先が、コートの裾からチラリと覗く。
「もう、そんな怖い話しないでよぉ。あなたはもう、傭兵じゃないんだから。今はキューピッドさんなんだからね!」
少年は屋上の柵に寄りかかる。
東京の夜景が、眼下に広がる。
無数の窓から漏れる灯りが、恋の予感のように瞬く。
だが、彼の胸には、まだ砂漠の砂が残るような重さ。
あの戦場での出会いが、すべてを変えた。
あの後、所属組織は謎の襲撃を受け壊滅。
彼女の力か、組織の内紛か。
いずれにせよ、ヒビキは運よく日本に帰還した。
そして、謎の女性から「保護者」と名乗り、東京の高層マンションに部屋を与えられた。
あの女だと分かったのは、ほどなくして隣室に引っ越してきたからだ。
毎夜、壁を貫通するように現れ、料理を置いていく。
ビーフシチュー、唐揚げ、手作りケーキ。
天使の味は、戦場のレーションとは別世界だった。
体が回復してきた頃、女が本格的に現れ、告げた。
「あなたには、使命があるの。この国で、神の代行者になって」
少年はベッドに腰掛け、腕を眺めていた。
窓から差し込む夕陽が、部屋を橙に染める。
彼女はキッチンでエプロンを付け、羊皮紙を広げている。
「あの時言ってたやつか。俺に、何をしろってんだ?」
女が、羊皮紙を振って笑う。
「あなたは、私がやってた仕事を引き継いでもらうのよ。そう、恋のキューピッドを!」
少年の眉がピクリと動く。
「は?」
彼女が、くるりと振り返る。
銀髪が舞い、エプロンの裾が翻る。
「そう、恋のキューピッド! 運命の恋人たちを、繋ぐお手伝い。あなたの腕なら、ぴったりでしょ?」
少年は立ち上がり、壁に拳を軽く当てる。
振動が、隣室の皿に響き、カチャリと音がする。
怒りか、呆れか。
「聞こえてるよ! なんで俺が、そんなことしなきゃならねえんだ! 仲人とか、もっと他に適任者がいるだろ! 俺は恋すら、させてもらえなかったんだぞ! 拉致されて、銃握らされて……そんな俺が、恋の神様の使いかよ!」
彼女が、羊皮紙を畳み、目を伏せる。
彼女はカウンターに寄りかかり、指を絡めてもじもじする。
「えー、それはその……ほら、撃たれちゃったしなー。あー、撃たれちゃったから、天使パワーなくなっちゃったのかもー。誰か代わりがいればいいんだけどなー」
少年の目が細まる。
「嘘だろ」
彼女が、首を傾げ、目を上目遣いに上げる。
唇を尖らせ、チラッと胸元を見せる。
赤い痣の印が、シャツの下に隠れていた。
「えー、どうだろー。でも、乙女の柔肌を撃たれちゃったのは事実だしなぁ。これじゃあ、結婚もできないかもー。責任取ってくれる人が、いればなぁ……」
チラッチラッ。
彼女の視線が、少年の顔を掠める。
彼はソファにドサリと座る。
クッションが沈み、背もたれに頭を預ける。
諦めの溜息が、部屋に広がる。
「分かったよ……。それで、俺が誰と誰をくっつけりゃいいんだ?」
彼女が、パッと顔を輝かせる。
羊皮紙を広げ、指でなぞる。
「それはだねー……」
そうして、現在に至る。
一年。
幾多のミッション。
公園のベンチ、路地裏のカフェ、電車内の偶然。
すべて、神の啓示が導く。
ヒビキはライフルをケースにしまい、彼女を振り返る。
「本当に、これで撃つだけでああなるんだな。毎回、信じらんねえよ」
彼女が、腰に手を当て、胸を張る。
夜景をバックにポーズを取る。
翼の影が、屋上のコンクリートに長く伸びる。
「あれー、疑ってたのぉ? 恋のキューピッドの力が、ヒビキの銃に宿ったんだから、当然効果は発揮するよぉ。神様印の、いわゆる神器だからね! もちろん、メンテナンス無し! 弾切れ無し! 永遠のラブショットよ!」
少年は首を振り、柵に肘を乗せる。
「はぁ……オカルトだな、全く」
彼女が、くすくす笑い、近づく。
肩に手を置き、囁く。
「ただし……人は殺せないからね」
少年の目が、遠くの夜景に注がれる。
「分かってるよ。もう、殺したくもねえさ」
少年の銃弾は、男性に当たると衝撃が走る、心臓に当ると気絶させる。
女性に当たると、半径二メートルの存在に恋をする力を宿す。
そして、『運命の人』が神に定められた女性に当たると、神の力とラブパワーが相乗効果を呼び、その場で必ず結ばれる。
弾丸は、虚空を裂き、心臓に溶け込む。
痛みなく、ただ温かな衝動を植え付ける。
戦場の死神から、恋の使者へ。
彼女が、手を叩く。
「それじゃあ、帰りましょうか。今日はビーフシチューですよぉ。私の特製、シナモン多めで!」
少年が、頷きかける。
その時――彼女のコートポケットから、けたたましい音が響く。
デバイスが震え、青白い光が漏れ出す。
神羊皮紙模写伝送。
普段は一枚か二枚の、静かな到着。
だが、今夜は違う。
ブチブチッと、爆発のような音が連発する。
「おっ、次のターゲットが来ましたね」
「意外と運命の相手ってのは、多いんだな。流石都会だ」
しかし、その瞬間。
伝送が暴走する。
羊皮紙の束が次々と噴出。
黄色い古紙が、舞い上がり、屋上を埋め尽くす。
数十枚、数百枚。
コンクリートの床を滑り、少年の足元に積み重なる。
彼女が、紙の山に飲み込まれそうになる。
「はわわわわわ! 一体、何が起こってるのぉ!?」
彼女が、大慌てで紙を掻き分け、デバイスを叩く。
翼が慌てて広がり、紙を払いのける。
だが、伝送は止まらない。
羊皮紙が、ビルの屋上を雪崩のように覆う。
少年は紙を蹴散らす。
「これは何だ! 何なんだよ、これ!」
羊皮紙で覆い隠されそうになる彼女を、彼が引き寄せる。
その肩を抱き、紙の波から守る。
彼女は息を切らし、一枚の紙を拾い上げる。
インクの文字が、月明かりに浮かぶ。
「これは……全部、同じ場所みたい。ターゲットは不明なものが多くて……」
「わかんない! 神様のシステムがバグってるみたい……!」
「おい、落ち着け! デバイスを止めてみろ。……くそ、何なんだよ全くっ!」
少年が、隣の紙を掴む。
同じ住所。
学校の名前。
「あぁ? どういうことだ? 全部同じ場所じゃないか?」
彼女が、紙の山を掻き分け、顔を上げる。
青い瞳に、困惑と興奮が混じる。
「私立『聖エルミア学園』……ターゲット多数。恋のシグナルが、学園中にあふれてる」
「つまり……どういうことだ?」
彼女が、羊皮紙を握りしめ、立ち上がる。
風が紙を巻き上げ、夜空に舞う。
彼女の翼が、力強く羽ばたく。
「大変ってことね」
屋上の紙の海が、静かに揺れる。
果たして、少年はこの使命を果たせるのか。
神が告げる新たな戦いの幕開けだった。




