第17話
夏の陽射しが校舎の窓ガラスをきらめかせ、蝉の声が遠くに響く中、聖エルミア学園は文化祭の準備で活気づいていた。
廊下では生徒たちが重い段ボールを運び、笑い声と足音が交錯した。
男子生徒の声が飛び出した。
「おい、重いよこれ! ちょっと持ってくれっ!」
「わかったわかった!」
教室の扉が開閉するたび、紙の擦れる音やハンマーの叩く響きが漏れ出る。
校庭ではテントの骨組みが次々と立ち上がった。
「よし、こっちのポール固定するぞ! みんな、押さえてくれ!」
「了解! いけるぞ! やれっ!」
空気中には、塗料の匂いと新鮮な木材の香りが混じり、誰もが肩を叩き合った。
「お疲れ! これで完璧だろ?」
「うん、最高の文化祭になりそうだな!」
まるで学園全体が一つの巨大な生き物のように、脈動していた。
そんな賑わいの渦中、ヒビキとルルは隣のクラスの「お化け屋敷」ブースに潜り込んでいた。
暗幕で覆われた通路は、薄暗く湿った空気が肌を撫で、壁から突き出る偽物の触手が不意に揺れた。
低く抑えた悲鳴と足音が響き、ターゲットの二人――美術部の男子と演劇部の女子――が、肩を寄せ合いながら慎重に進んだ。
女子が囁いた。
「ねえ、怖くない? なんか本物の幽霊出そう……」
男子が照れくさそうに返した。
「大丈夫だって、ただの飾りだよ」 ルルはメイド服の裾を軽く持ち上げ、少年の袖を引っ張って囁く。
「ヒビキ、あそこよ。男子が女子の腕に触れた瞬間、撃って!」
彼は壁の影に身を寄せ、鞄の隠しスイッチを指で確かめる。
視界の端で二人のシルエットを捉える。
男子が呟いた。
「でもなんだか、少しだけ怖いな……」
女子も呟く。
「……ぎゅってしていい?」
その瞬間――ボシュッ!
消音のくぐもった音が、通路のざわめきに溶け込む。
弾丸が弧を描き、女子の胸に沈む。
女子が男子の腕を強く掴む。
「……ずっと、こうしていたいかも」
二人は壁に寄りかかり、唇を重ねる。
柔らかなキスが、闇の中で静かに広がる。
ルルが少年の肩を軽く叩く。
「完璧! 怖いお化け屋敷が、恋の巣窟になっちゃったね!」
少年は鞄を閉じ、彼女の手を引いて出口へ向かう。
「クラスに戻るぞ。まだ準備が山積みだ」
二人は暗幕をくぐり抜け、廊下の明るさに目を細める。
外では生徒たちが列を作り、笑い声が弾けた。
生徒たちが叫んだ。
「次、俺の番!」
ヒビキのクラスのブースは、校舎の中央に位置し、すでにテーブルが並び、黒板に手書きのメニューが貼られていた。
メイド&執事喫茶。
多数決で決まった出し物だ。
初めはシンプルなやきそば屋台が有力だった。
生徒たちの半数が手を挙げた。
「簡単で儲かる!」
賛成の声が飛び交った。
サラがホワイトボードに票を書き込んだ。
男子の一人が冗談めかして呟いた。
「でもさ、女の子たちのコスプレ衣装が見たいよな」
その途端、女子側からコールが爆発した。
「それならメイド喫茶!」
票が一気に傾き、気づけば決定事項となっていた。
少年はあの時、ルルの瞳がキラリと光ったのを覚えていた。
天使の小さな「不思議な力」――おそらく、彼女がそっと生徒の心をくすぐったのだろう。
サラが机を叩いた。
「これで決まりね!」
その瞬間、ルルが隣でくすくす笑っていたのを、少年は見逃さなかった。
だが、ルルが目を輝かせて飛び跳ねた。
「わーい、メイド服着れる!」
その姿を見たら、少年は何も言えなくなった。
ただ、楽しそうだから。
それでいい。
クラスに戻ると、すでに衣装の山が机に積まれ、女子たちが鏡の前でフリルを整えていた。
一人が笑いながら鏡に映る自分を回した。
「わあ、このリボン可愛い!」
別の子が声を上げた。
「すごーい! 本格的じゃん!」
女子たちが盛り上がった。
サラは黒いエプロンを腰に巻き、赤い髪をツインテールにまとめ、トレイを手に指示を飛ばした。
「みんな、テーブル配置はこっち! メニュー表、フォント大きくして!」
少年は男子たちの輪から執事服を受け取った。
友人が背中を叩いた。
「おい、これ着てみろよ。絶対似合うって!」
少年が苦笑しながら袖を通した。
「えっ俺も?」
黒い燕尾服に白い手袋、ネクタイをきっちり締め上げると、鏡に映る自分の姿が、まるで別人だった。
「……これが俺か」
少年が軽くポーズを取ってみた。
肩を軽く回し、袖口を整える。
ルルは隣でメイド服に袖を通し、黒いドレスに白いエプロン、頭にはフリルのカチューシャ。
「きゃあああ! ヒビキ! 似合ってる! いい!」
「そっそうか」
「うん! うん! 最高だよぉ!」
「まぁ……ルルが言うんなら……うん」
「私も……どう?」
「悪くな……いや、似合ってるよルル」
「……かわいい?」
「……すごく」
彼は短く答え、予行演習のテーブルへ向かう。
クラスメイトの女子が客役を買って出、椅子を引いて座る。
「お嬢様、心よりお待ち申し上げておりました。弊店のオススメは、特製スコーンセットでございます。新鮮なクロテッドクリームと自家製ジャムを添え、香り高いダージリンの紅茶と絶妙に調和いたします。お好みのミルクティーも、ご用意いたしますよ」
少年が軽く頭を下げた。
手袋の指でメニューを差し出した。
声は低く抑え、視線を優しく落とした。
女子が呟いた。
「わ、ヒビキくん、完璧……!」
周囲の男子たちが口笛を吹いた。
「すげぇ、ヒビキ! 本物の執事じゃん!」
女子たちが手を叩いて笑った。
サラがトレイを運びながら呟いた。
「ほんと、何でもできるわね」
ルルはテーブルに寄りかかり、目をハートに輝かせて少年の袖を引っ張る。
「ひえぇ……ヒビキ、こんなの反則! 紳士すぎて、ドキドキしちゃうよぉ! ……私も、客役で注文したくなっちゃう!」
男子の一人が肩を叩いた。
「ヒビキ、もっとやってくれよ!」
女子たちが輪になって囃し立てた。
「カッコいいー!」
「執事ヒビキ、最高!」
教室が一気に沸いた。
少年はネクタイを軽く直し、苦笑を浮かべる。
「大げさだな。ただの予行演習だろ?」
ルルは興奮冷めやらぬ様子で、少年の周りをくるくる回る。
「ねえねえ、ヒビキ! どうしてそんなに完璧なの? 秘密のトレーニングとか!?」
彼は椅子を引いてルルを座らせ、トレイを置く仕草で応じる。
「こういう所作もできてた方が、便利だったんだよ。……ま、昔話だ」
「じゃあ、私も、メイド頑張っちゃうね!」
ルルは立ち上がり、キッチンコーナーへ向かう。
ポットに湯を注ぎ、茶葉を丁寧に計る。
やがて、ルルがトレイにカップを乗せ、少年の前に運んできた。
「ルル特製愛情込め込めブレンドぉ! ミルクと砂糖は、好みでね」
湯気が立ち上り、教室の空気に甘い香りが広がった。
周囲の生徒たちが集まってきた。
「いい匂い!」
「私も飲みたくなってきた!」
「ルルちゃん、俺の分も! 砂糖多めで!」
ルルが笑顔で頷く。
「はーい! みんなでシェアしよっか!」
少年はカップを受け取り、軽く頭を下げた。
「ありがとう、ルル」
カップを口に近づけ、息を吹きかける。
その瞬間――鼻腔を、微かな異臭が刺す。
甘い紅茶の奥に、腐敗したような、化学薬品の鋭い匂い。
少年の目が見開き、カップをテーブルに叩きつけるように置き、即座に立ち上がる。
「待て! みんな、飲むな!」
声が鋭く響き、教室が凍りつく。
生徒たちがトレイに手を伸ばしかけ、互いの顔を見合わせる。
「え、何?」
「どうしたの、ヒビキくん?」
サラがキッチンから駆け寄る。
「ヒビキ、どうしたの!?」
彼は茶葉の缶を素早く開け、鼻を近づける。
指で葉を摘み、粉末を掌に広げる。
「この茶葉、いつのだ? 腐ってる匂いがするぞ。湿気か何かで変質してる。俺が新しいのを買ってくるから、これは全部廃棄しろ。飲んだら腹壊すぞ」
少年が言葉を急ぎ、缶をシンクに放り込んだ。
クラスメイトたちが呟いた。
「えー、せっかく淹れたのに」
「ヒビキ、ナイッスー!」
ルルが肩を落とし、皆に頭を下げる。
「うう、ごめんねぇみんな……」
クラスメイトたちがカップを片付け始めた。
サラが頷いた。
「……ありがとう。忙しくて気が付かなかったわ」
ルルが心配げに少年を見つめた。
「ヒビキ、大丈夫? 腐ってただなんて……」
少年は彼女を引き寄せ、耳元で囁く。
「静かに聞いてくれ。ルル、このお茶……ただの腐敗じゃない。幻覚誘発剤が混ざってる。戦場で見たことがある類のものだ」
「えっ……幻覚? そんなの、どうして……誰が?」
彼はキッチンの棚を探り、低く続ける。
「この手の薬は、簡単に入手できない。闇市場の特殊品だ。もしかしたら、この間のビーチの集団が絡んでる。俺たちだけじゃなく、クラス全体を狙ってるのかもしれない。文化祭のどさくさで、混乱を起こす気か……。ルル、俺が調べる。お前は茶葉の出所を洗い出せ」
彼女が小さく頷き、唇を噛む。
「うん……わかった。ヒビキ、気をつけてね」
彼女はトレイを胸に抱え、サラの元へ駆け寄る。
「サラ、ちょっと話があるの! みんなに伝えて!」
少年は執事服の袖をまくり、窓辺に立つ。
外の校庭を睨む。
文化祭のテントが風に揺れ、準備の喧騒が続く。
だが、少年の鼻には、まだあの異臭が残っていた。
一方、学校の屋上では、風が強く吹き抜けていた。
フェンスに寄りかかる金色の影――エナだ。
長い髪をなびかせ、琥珀色の瞳を細めて下界を見下ろす。
校庭の白線が、陽光にきらめく。
そこに、奇妙な模様が描かれていた。
銀の翼を広げた鳥のシルエット、その周りを六芒星が囲む。
不気味な白い線が、グラウンドの芝生に刻まれ、テントの影を避けるように広がる。
エナの唇が、ゆっくりと弧を描く。
「始まったわね……」
学園の空気が、静かにざわめき始める。




