第14話
電車の窓から見える景色が、徐々に都市の喧騒を脱ぎ捨て、青い空と緑の山影に変わっていく。
マンションを出てから一時間ほど、ヒビキとルルは特急のシートに並んで座っていた。
ルルは膝の上に水着の入ったカバンを抱え、窓ガラスに頰を寄せて外を眺めている。
興奮で頰がピンクに染まっていた。
「見て見て、ヒビキ! もう海の匂いがするよぉ。波の音、聞こえる気がする!」
彼女の指がガラスを叩き、子供のような笑顔が弾ける。
少年は隣で新聞を広げ、ちらりとルルを見る。
「まだ山の中だぞ。落ち着け」
「落ち着けないよぉ! 夏休み初日だもん! ヒビキと海に飛び込んで、砂まみれになって、夕陽見ながらアイス食べるんだぁ! 想像しただけでもワクワクが止まらないよぉ!」
「ったく。はしゃいでるなぁ」
夏休み初日。
学校の喧騒から解放され、二人きりの一泊二日旅行。
電車が駅に滑り込み、扉が開く。
潮風が車内に吹き込み、塩の香りが鼻をくすぐる。
彼女が少年の手を掴み、ホームへ飛び出す。
「着いたー! 夏だ海だー!」
「待て待て、こけるぞ!」
「どっちが先にビーチ着くか、勝負しよ!」
駅からビーチまでは徒歩十分。
熱いアスファルトを抜け、坂道を下ると、広がるのは果てしない青。
波の音が低く響き、白い泡が砂浜を優しく撫でる。
青い空の下、熱い砂が足裏を焼くように熱く、遠くで子供たちの笑い声が混じる。
パラソルが色とりどりに並び、サーファーのシルエットが波間に揺れる。
彼女が砂を軽く踏みしめながらビーチの更衣室を指差す。
「わーい! ヒビキ、早く着替えて行こ!」
「俺、先に着替えて外で待ってるよ」
「じゃ、着替えてくるね!」
二人はビーチの簡易更衣室へ向かう。
木製の小屋が並ぶ中、男女別の扉をくぐり、それぞれのスペースで着替える。
少年は先に外へ出る。
黒い水着姿で、傷だらけで筋肉質の体躯が、戦場の名残を思わせる。
砂の熱さが足裏に伝わり、潮風が肌を撫でる。
少年は鞄を肩にかけ、ルルを待つ。
やがて、扉が開く音が響き、彼女が出てくる。
銀髪をポニーテールにまとめ直し、淡い青のビキニが白い肌に映える。
ルルはぱっと顔を輝かせる。
「ヒビキ……カッコ良すぎるよぉ! ドキドキしちゃうっ」
彼女は少年の前に回って軽く回る。
ビキニの紐が揺れ、陽光が肌をキラキラと照らす。
彼女は胸を張ってポーズを取る。
「どう? 私の水着! 夏仕様のルルだよぉ。ヒビキの好みかな?」
上目遣いに見上げ、指でビキニの紐を軽く直す仕草が、愛らしくアピールする。
少年の視線が一瞬、ルルの姿に止まる。
心臓がわずかに速まるのを感じ、慌てて目を逸らす。
「かわいい……よ。……似合ってる」
言葉が少し詰まり、照れ隠しに砂を軽く蹴る。
彼女が目を輝かせ、少年の腕に飛びつく。
「えへへ、ほんとぉ? やったー! じゃあ、海行っちゃおう! 夏だ海だぁー!」
ルルは少年の手を引っ張り、砂浜を駆け出す。
その指が絡み、温かく柔らかい。
二人は波の端に立ち、冷たい水しぶきが足首を濡らす。
彼女がキャッと声を上げ、少年の腰に飛びつく。
「えーい! 捕まえたぁー!」
「おい、急に飛びつくなよ!」
ルルが少年の首に腕を回し、波しぶきを浴びながら笑う。
「ほら、もっと奥までいこっ!」
少年は最初、ぎこちなく体を固くする。
砂漠の記憶がよぎる――乾いた大地、銃声の残響、汗がただの苦痛だった日々。
水など、ただの幻だった。
だが、彼女の笑顔が、それを溶かす。
「ほら、もっともっと! 逃げて逃げてー!」
彼女が少年の背中を押し、波の奥へ誘う。
少年は足を滑らせ、水に沈む。
冷たい海水が体を包み、肺に新鮮な空気が入る。
「うおっ……冷てぇっ」
ルルが浮き輪を広げ、少年の腕を引っ張る。
「泳ぎ方教えてあげる! ほら、浮かんで浮かんで!」
二人は浮き輪にしがみつき、波に揺られる。
海の広さが、少年の胸を広げる。
「ふふ、ヒビキ、笑ってる! 可愛いよぉ」
「しょうがないだろ……初めてなんだから」
二人は波に揺られ、笑い合う。
太陽が頂点に近づき、砂浜の熱気が増す。
彼女が浮き輪から降り、砂浜に戻る。
「次、貝殻拾いしよ!」
ルルは砂を掘り返す。
小さな貝殻が転がり、ルルが一つを掌に載せる。
「見て、このピンクのやつ! 小さくてかわいいねっ! 瓶に詰めちゃおうっ」
貝殻を少年の手に乗せる。
少年はそれを眺め、鞄から瓶を取り出し、しまう。
「そうだな……いい思い出になるな」
「次に来た時、また新しいの集めて……毎年、二人で持って帰るんだぁ」
「毎年か……じゃあ俺はもっと大きい貝、探すか」
「うん! いっぱい詰めて帰ろうっ!」
二人は砂浜を歩き、貝殻を拾い集める。
波の音が、優しく響く。
二人は笑い合い、貝殻の入った瓶を振って歩く。
太陽が傾き、ビーチの熱気が夕暮れの柔らかさに変わる。
小さな旅館の部屋でシャワーを浴び、浴衣に着替える。
夜、花火大会。
ビーチの端で、線香花火を灯す。
ルルが花火を差し出し、ヒビキに渡す。
「はい、ヒビキの番!」
小さな火花がパチパチと散り、夜空に溶ける。
ルルが浴衣の裾を直し、少年の隣に座る。
銀髪が月明かりに輝き、青い瞳が火花を映す。
「綺麗……なんだか温かいね」
火花が最後の輝きを放ち、消える。
二人は灰を眺め、静かな沈黙を共有する。
彼女がそっと少年の肩に頭を預ける。
「ねえ、ヒビキ……出会ってから、色々あったねぇ」
「そうだな……あっという間に時間は過ぎていくな」
「私が撃ち抜かれたあの日から……ミッション、学園生活、体育祭、……全部、ヒビキと一緒でよかったよ。怖い時も、笑える時も、ヒビキがいると、全部が宝物みたい」
ルルの声は柔らかく、過去の記憶が優しい風のように蘇る。
少年は彼女の髪を軽く撫で、夜空を見上げる。
「ああ……俺もだ。お前がいなきゃ、ただの殺し屋だった。ルル、お前が俺の運命を変えてくれたんだ。ありがとう、本当に感謝している」
言葉に本音が滲む。
「私こそだよ、ヒビキ。出会えた奇跡に、いつも神様に感謝してる。……これからも、ずっと一緒にいようね?」
少年がルルの手を握り、火花の残り光を共有するように頷く。
「ああ、ずっとだ。約束する」
彼女が少年の顔を覗き込む。
青い瞳に、月明かりと火の残り香が映る。
「ヒビキ……好き」
ルルの唇がゆっくり近づく。
少年の心臓が速まる。
柔肌が囁くように寄り添う瞬間。
ドンッ。
遠くで本物の花火が爆ぜ、夜空を赤く染める。
彼女がハッとして体を引く。
「わっ、花火大会始まった! 見て見て、でっかいね!」
少年はルルの手を握り、火の残り香を掌に感じる。
「そうだな。でっかいな」
彼女が指を強く絡める。
「また……一緒に来ようね」
「あぁ……必ず」
線香花火の灰が、風に舞う。
夜のビーチは静かで、二人は肩を寄せ合い、花火の音に耳を傾ける。
だが、その時――。
砂浜の闇から、影が忍び寄る。
黒いマントのようなものをまとった集団。
フードが深く顔を覆い、月明かりにぼんやりと浮かぶシルエット。
十数人、静かに輪を作り、二人の周りを囲む。
マントの裾が揺れ、手に握られたのは、短剣。
リーダーのような男が、低く呟く。
「神の名のもとに……消えてもらおう」
「……誰だお前ら」
少年は即座に立ち上がり、ルルの前に体を滑らせる。
鞄から拳銃を抜く。
「下がっていろ、ルル。俺が片付ける」
声は低く、戦場の冷徹さが戻る。
彼女が後ずさる。
「でも、ヒビキ! 危ないよぉ!」
集団が一斉に動く。
短剣が月明かりに閃き、砂を蹴って迫る――。




