第11話
彼女はベンチの端にそっと腰を下ろし、ヒビキの隣に自然と寄り添うように座る。
距離は近く、しかし威圧感はない。
ただ、甘い花のような香りが、彼の鼻をくすぐる。
「ヒビキくん……汗だくね」
声は低く、蜜のように甘く響く。
だが、その奥に、静かな湖のような深みがあった。
少年の背筋がわずかに固くなる。
少年は体を起こす。
「……誰だ。お前」
彼女は首を優しく傾げ、指で金色の髪を耳にかける仕草をする。
その動きは優雅で、まるで古い絵画の女神のように。
「エナよ。三年の……ふふ、急に話しかけてごめんね。でも、あなたの目を見てたら、声をかけたくなっちゃったの。汗、拭いてあげましょうね」
彼女はポケットからハンカチを取り出し、少年の額にそっと押し当てる。
「えっ……いや、自分で……」
少年は一瞬、身を引こうとするが、その温かな指先が肩に触れ、抵抗を溶かすように優しい。
「あの銀髪の……ルル。あなたのそばで輝く彼女の笑顔が、時々寂しげに見えるの。あなたは、そんな彼女を支えてるのね。優しい手で、そっと」
エナの指が、少年の肩を軽く撫でる。
母のような優しさで、ルルの状況を優しく匂わせる。
彼の眉がわずかに寄る。
「ルルが……寂しげ? お前、何を知ってる……」
エナは小さく笑い、膝の上に手を重ねる。
指先が、互いに絡むように優しく触れ合う。
「知ってる……ふふ、ただの勘よ。でも、風が囁くの。ルルの翼は、広い空を恋しがってるみたい。あなたが彼女の側として選ばれたのは、きっと美しい縁。でも、それが彼女の空を少し狭めてるかもね。愛するなら、時にはそっと手を緩めて、彼女が広い風を感じられるように……影が彼女の羽を曇らせる前に、そんな優しさを考えてみて」
言葉は知っているような深みがありつつ、声は優しく包み込む。
「翼って……どういう」
エナの琥珀色の瞳が、遠くのグラウンドを眺める。
ルルが、チアの輪で舞う姿が、微かに見える。
「見て。あの笑顔……輝いてるけど、翼の先が少し震えてるみたい。あなたなら、分かるはずよ。守る愛は、時には離す勇気も必要だって」
「さっきから、何の話をしているのか、俺にはわからないのですが……」
少年の胸が、ざわつく。
彼女の言葉は、核心を突く。
ルルの毎日の笑顔、料理の温かさ、ミッションの支え――それが、ルルのためのものか、それとも神の鎖か。
エナの指が、そっと少年の頰に触れる。
「ふふ、真面目になっちゃったわね」
ヒビキはハンカチを押し返し、立ち上がろうとする。
「俺達の事は……放っておいてください」
だが、エナは微笑んだまま、立ち上がる。
ルルの笑い声が、近づいてくる。
「あなたなら、きっとできるわ。また、どこかでね」
金色の髪を翻し、木陰の向こうへ消える。
足音は風のように軽く、残るのは温かな余韻と、少年のざわつく心だけ。
ルルが息を弾ませ、現れる。
「ヒビキ! ごめんね、遅くなっちゃった!」
軽やかな声が、木陰を駆け抜ける。
体操服の裾が翻り、ポンポンを握った手が少年の腕を掴む。
「チアの練習、みんな熱くてさ! ほら、後半戦始まるよ!」
無邪気な笑顔が、エナの影を吹き飛ばすように明るい。
少年はエナの暗示を胸にしまい、ルルの手を取る。
ルルの翼の気配が、背中でチラリと揺れるのを感じ、支えたい想いが強まる。
「ああ……行こう。お前も、がんばれよ」
二人は肩を並べ、グラウンドへ駆け出す。
後半戦は、嵐のような熱狂だった。
綱引き。
クラスメイトたちが輪になり、少年をアンカー役に据える。
「よし、俺達もヒビキに続け! 力の見せ所だぞ!」
縄を握りしめ、土を蹴る。
相手のクラスが吼えた。
綱が軋んだ。
筋肉が悲鳴を上げている中、クラスメイトたちが叫んだ。
「がんばれ! 引けー!」
少年の体が前傾し、戦場のような低く構えた姿勢で綱を引いた。
ゆっくり、しかし確実に相手を崩す。
勝利の瞬間、綱が倒れ、グラウンドに砂埃が舞う。
「勝ったー!」
クラス全体がハイタッチの嵐に包まれた。
合間にルルと擦れ違った。
少年は鞄から銃を素早く受け取った。
ルルが囁いた。
「ターゲット、観客席の二人組よ」
彼は影に身を寄せ、風を調整して引き金を引いた。
プシュッ!
女子が男子の腕に寄りかかる。
「……一緒に座ろ?」
歓声に紛れ、恋が芽生える。
彼女のサポートが、少年の心を軽くする。
「次、行こう!」
騎馬戦最終戦。
ユウトが下になり、少年が上に跨がる。
「来いよ、ヒビキ! 縄取ってくれ!」
相手の騎馬が突進してくる。
縄が迫る瞬間、彼は再びユウトの肩を蹴って跳び上がり、空中で回転して縄を奪い、着地と同時に相手を転ばせた。
対策できるわけもなく、圧勝だった。
みんなが一斉に叫んだ。
「ヒビキー! ナイッスー!」
ハイタッチの波が広がった。
サラが遠くから赤い髪を揺らし、駆け寄ってきてルルの肩を叩いた。
「ルルも輝いてたわよ! ヒビキ、ありがとう! カッコよかったわよ!」
ルルがサラの腕に絡みついた。
ルルが笑った。
「えへへ、サラも一緒にチアやろ?」
少年はユウトの背中を叩いた。
「ナイッスー。だっけか」
「おぉヒビキ! ナイッスー!」
みんなが輪になり、少年を胴上げした。
クラスメイトたちがコールした。
「ヒビキ! ヒビキ!」
ルルが飛びついてハグした。
「やったー! ヒビキ、かっこよかったよ! みんなのおかげだね! 私、こんなに興奮したの初めて!」
「おいっ! みんなが見てるからっ」
「えへへぇ~。見せてんのっ」
体育祭はヒビキのクラスの優勝となった。
クラスメイトたちが輪を広げ、ユウトがスポーツドリンクを回す。
「乾杯だ! 優勝おめでとう!」
みんなでグラスを合わせ、笑い声が夕陽に溶けた。
サラがヒビキの隣に立った。
「次は文化祭でまたね」
サラがウィンクした。
ルルがサラの手を握った。
「めちゃくちゃ楽しかったよ!」
ルルが弾んだ。
彼は輪の中心で、みんなの肩に手を置いた。
夜の校庭に、キャンプファイヤーの炎が揺らめく。
後夜祭の灯りが、周囲を橙色に染め、薪の爆ぜる音が響く。
生徒たちは輪になって座り、ギターの音色と歌声が夜空に溶けていく。
星が瞬き、風が涼やかに頰を撫でる。
優勝クラスの特等席で、ヒビキとルルは並んで座る。
ルルが双眼鏡を構える。
「ヒビキ、準備いい? 今夜は闇に乗じて一気に片付けちゃおう! ラストスパートよ!」
彼は頷き、鞄から拳銃を滑り出す。
「ああ、任せろ。何組でも成就させてやる」
闇の帳を活かした連続ミッションが始まる。
影から影へ移動し、炎の向こうでターゲットを狙う。
まず、ギターを弾く男子と隣の女子。
少年が木陰からルルの囁きを待つ。
「距離二十メートル。今よ!」
プシュッ!
女子が男子の腕に寄りかかる。
「……一緒に歌わない?」
男子の目が見開き、手が自然と彼女の肩を抱く。
柔らかな風が唇を撫でる。
少年は銃をしまい、ルルの背中を軽く押す。
「一つ目、クリア。次だ」
二組目は輪の外れで話す二人組。
ルルが少年の袖を引っ張り、影に身を寄せる。
「あそこ、男子が花火の話してるわ。合図で撃って!」
彼の指が引き金に掛かる。
プシュッ!
弾丸が弧を描き、女子の胸に沈む。
互いの手が自然と繋がる。
「……今度、二人で花火見にいこ?」
二人は芝生に座り込み、肩を寄せ合う。
三組目は炎の近く、女子と隣の歌っている男子。
炎の揺らめきが視界を乱すが、少年は風を肌で感じ、照準を調整。
「風速、二メートル。右旋回……今!」
彼女の合図で引き金。
プシュッ!
女子が男子に倒れ込む。
「……君の歌声、好きかも」
男子が慌てて抱きとめる。
四組目はベンチの影、休憩中の二人。
彼女が少年の耳元で囁く。
「距離十五メートル。撃って!」
プシュッ!
互いの手が絡み、キスが交わされる。
五組目は輪の端、ギターを回す男子と女子。
炎の熱波が干渉する中、少年の息が上がる。
プシュッ!
恋の炎が瞬時に燃え上がり、キャンプファイヤーの光に溶け込む。
十組目を終えたところで、ミッション終了。
生徒たちの輪でキスやハグが次々起き、キャンプファイヤーが「愛の炎」の象徴に変わる。
少年は汗だくでグラウンドの芝生に寝転がる。
体が重く、銃の重みが心に残る。
ルルの足音が近づき、冷たいペットボトルの感触が頰に触れる。
「お疲れ様、ヒビキ! 今日も完璧だったよ。ほら、飲んで。レモンソーダ、冷たくて最高だよぉ?」
タオルで優しく汗を拭き、隣に寝転がって肩を寄せる。
「こんなドタバタした一日だったけど、楽しかったなぁ。見てヒビキ、星きれい……一緒に数えよ?」
少年は飲み物を飲み、ルルの手を取る。
冷たいソーダの泡が喉を滑り、彼女の指が温かい。
「そうだな……楽しかった」
二人は星空の下、遠くの歌声に包まれる。
ルルの頭が少年の肩に預けられる。
「ヒビキ、またハグしていい?」
「みんなが見てない所ならな」
「もう……誰も見てないよ」
ルルが少年の耳元でささやいた。
少年はルルをそっと抱き寄せる。
ルルが少年の胸に顔を埋め、静かに言う。
「……私、幸せだなぁ」
少年が彼女の背中を優しく撫で、返す。
「……ああ、俺もだ」
ルルが指を絡め、笑う。
「ずっと……いっしょだよ?」
「あぁ」
静かな会話が続き、炎が二人の影を長く伸ばす。
学園の夜は、静かに次の宴を待つ。




