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3話



『今日はみんなに聞いてほしいこと、沢山あるんだよねっ。だから!』


『――――今日もいっぱいお話ししよっ?』



防音ブースに響き渡る、鼓膜(こまく)を撫でるような甘い声。

木下が震える手で掲げたタブレットの画面では、星を散らした青い瞳のアバターが、愛らしく首を傾げていた。


間違いない。


何万人ものファンが愛する『宵月ましろ』の姿であり、声だった。

だが、結衣本人は一言も発していない。



「なんで……」



結衣の喉の奥から、ヒュッと引き攣(つ)ったような音が漏れた。


目の前のモニターは不気味な砂嵐を映し出しているというのに、手元の画面の中では、見知らぬ『何者か』がましろとして、何万人というリスナーに向かって語りかけている。


椅子から崩れ落ちるように床へ座り込んだ結衣は、ガタガタと震える手で自分の腕を抱きしめた。足元から這い上がってくる、どうしようもない恐怖。


その混乱の底から、ひんやりとした泥のようなものが、ゆっくりとせり上がってくる。




――私は、なにか間違えてしまったのだろうか。








◆









結衣には、都合の悪いことを都合よく忘れられる才能があった。


嫌なことがあっても、寝て起きれば半分。もう一晩寝れば、その半分。

そうやって薄めていくと、最後には何を薄めていたのかも分からなくなる。

得意なことが一つでもあるのは、いいことだと思っていた。


白石結衣の人生は、もうひとつのアイデンティティである『宵月ましろ』と比べると、ひどく彩度に欠けていた。

学生時代、誰かから明確な悪意を向けられたり、執拗(しつよう)ないじめを受けたりした記憶はない。

ただ、教室という空間に流れる特有のテンポに、どうしても自分の呼吸を合わせることができなかった。



「ねえ、昨日の夜のドラマ見た? あの俳優、めっちゃ尊くない?」

「わかるー! マジで無理、語彙力(ごいりょく)なくなる!」



弾むようなクラスメイトたちの会話のラリー。結衣はそこにうまく入り込むことができない。

なんとか口を挟もうと頭の中で言葉を組み立てているうちに、話題はすでに次のアイドルのゴシップや、他校の生徒の恋愛事情へと移り変わっている。

数テンポ遅れて放った結衣の言葉は、誰の耳にも留まらずに宙を滑った。


頑張って口を開いても、空回りして変な空気になるのが怖かった。だから次第に「自分は喋らない方がいい」と学習し、言葉を飲み込んでは、ただ曖昧な愛想笑いを浮かべるようになった。

息を潜め、気配を消し、誰の記憶にも残らない「透明な生徒」としてやり過ごす日々。

学校は結衣にとって、ひどく息苦しく、ただ時間が過ぎるのを待つだけの退屈な箱でしかなかった。


孤立していた結衣は、ノートの端によく絵を描いていた。

幼い頃に志していた漫画家になるという夢はとうに諦めていたが、架空のキャラクターを創作しては、その人物を取り巻く世界を想像するのが好きだった。


やがて彼ら彼女らに生命が吹き込まれたなら――自分をどこか、別の世界に連れて行ってくれないだろうか。そんなことを、少しだけ期待した。


その期待が少し変わった形で実現したのは、深夜、布団の中で見たVTuberの生配信がきっかけだった。


コンピューターグラフィックスで作られたキャラクターが、生身の人間に代わって喋り、笑い、ゲームをしている。

画面の中の子は、確かにそこで生きているように見えた。その世界観に、結衣は魅了された。


見よう見まねで、結衣は『ましろ』というキャラクター名で配信を始めた。

当時はまだCGモデルも撮影スタジオもあるはずがない。ただ自分の描いたイラストをスマートフォンに映したまま、端末のマイクに声を吹き込むだけの簡素なものだ。


配信ボタンを押した後でようやく、話題を何も決めていなかったことに気がついた結衣は、想像のままに書き留めていた『ましろ』――つまりは『自分』の設定を、滔々(とうとう)と語り始めた。


同接はしばらく一人も来ないままだったが、やがて深夜に配信を開始しても三、四人は見てくれるようになった。

ただ想像の中の人物の来歴を話すだけの放送の、一体何が良かったのかは結衣にも皆目分からない。それでも配信の最後には必ず「おつかれさま」とコメントを送ってくれるリスナーがいた。


だんだん話すことがなくなった結衣は、少しずつ現実の自分の身の上話をするようになる。

学校では孤立していること。進学も就職もまるで考えておらず、想像することさえできないこと。趣味が絵以外になく、日々が退屈でつまらないこと。


この頃には、視聴者数は常時二十人前後にまで増えていた。


結衣にとって誤算だったのは、自分は他者とのコミュニケーションがからっきし駄目なわけではなく、配信という一対多の状況ならばそれなりに『対話』ができるという点だった。

基本的にはただ自分が喋っているだけで、視聴者はそれに反応するだけ。


対等かと問われれば疑問符はつくけれど。


いつも同じ二十人が決まって見ているわけでもなさそうで、その内訳は多少流動しているのだろうが、結衣にそれを確認する方法はなかった。


そもそも自分の配信を見ている人間が、現実のどこかに存在しているという実感が持てなかった。


それくらいにネット上の繋がりというのは希薄で、結衣はその希薄さを好んだ。


もうひとつ嬉しい誤算だったのは、結衣のゲームのセンスだった。


ほとんどゲームに触れたことのない人生を歩んできたのに、視聴者に勧められて買った。


FPSで、結衣は天賦の才を発揮した。


みるみるうちに上達し、照準の先の敵を次々になぎ倒していく。


配信にはその模様を見に来る、あるいは参考にしようとするゲーマーたちも多く訪れるようになった。


自分の意外な才能を知った結衣は、一人語りの配信から、ゲーム実況者としての色を強めていくことになる。


高校卒業後、結局進学も就職もせず、近所のスーパーでフリーターとして働きながら、貯めたバイト代をマイクやオーディオインターフェース、ゲームのための機材につぎ込んだ。


画面や音声の情報量が多いゲーム配信では、こういった設備投資が不可欠だった。

さらにはトークの繋ぎ方、見やすい画面のレイアウト、音声のバランス。


そして何よりゲームのプレイスキルを、結衣は誰に教わるでもなく一人で黙々と研鑽し続けた。


視聴者が二千人を超えるようになると、個人での活動が少しずつ難しくなった。

コラボ案件や荒らしへの対応など、結衣一人では手に余る問題が続々と発生し始めたからだ。


『ましろ』の立ち絵を静止画数枚だけではなく、3Dのモデルとして動かしてほしいという要望まで上がったことをきっかけに、結衣は決心して、新設されたばかりの小さな事務所のオーディションに応募し、契約を結ぶことになる。



「うちみたいなできたばかりの弱小に来てくれてありがとう。絶対に、君たちの居場所を作るから」



面接でそう頭を下げた藤沢社長の不器用な熱意にも惹かれ、結衣は『宵月ましろ』としてタレント活動を開始した。


そこで出会った同期は、結衣と似たような境遇で配信を始めた、不器用な二人の少女だった。藤沢はその二人と結衣の三名でユニットを結成することを提案した。

結衣は彼女らに強いシンパシーを感じていた。

感じてはいたが、学生時代の経験から、良好な関係を築けるとは思えなかった。


しかし三人はそう時間を置かず、意気投合するようになる。

夜通し通話アプリを繋ぎ、好きなゲームの話題ではいくらでも盛り上がった。

結衣は自分が配信活動を経て、他者と上手く関わることができない問題を解決できたのだと信じた。

人生で初めて、「同じ目標に向かって一緒に走れる仲間」を手に入れたのだと。



「いつか、三人で絶対3Dライブやろうね!」

「うん、約束! もっと練習しなきゃ!」



その約束は、結衣にとって何よりも美しい宝物だった。


だが、その平穏な日々は、残酷な形で終わりを告げる。


結衣は『宵月ましろ』として活動を開始してからも、FPSの腕を磨き続けた。

ユニットの二人にはそのゲームの経験がなかったものの、結衣のために練習に励むことになる。

結衣たちのユニットは当時ほぼ無名だったが、宵月ましろのゲーム実況については例外だった。

既に界隈では宵月ましろは良く知られた名前となっていたが、偶然にも同接数万人を誇る他事務所の大物男性VTuberとマッチングしたことを機に、爆発的に視聴者数を伸ばすことになる。


結衣は他の二人よりも先に、人気実況者の仲間入りを果たした。


それでも結衣は、有名な実況者とコラボしたり大会に招待されたりしている間も、FPSの配信には必ず同期の二人を交えた。

結衣は根気強く二人にレクチャーを繰り返したが、なかなか結衣のように上達しなかった。

戦績としては結衣の足を引っ張り続けたものの、ただ同じゲームを仲間とできることが楽しいだけの結衣としては、そのことを特に問題とは感じていなかった。


しかし、ここまでで既に数万人規模にまで膨れ上がっていたリスナーの反応は、残酷なまでに正直だった。



【ましろちゃんナイスカバー!】

【んー、ましろソロの方が見たいな】

【ましろちゃん一人でやった方が良いよ】

【ランクやってほしい】



こうしたコメントだけならばまだ良い方で、さらに過激なリスナーが、二人に対して直接的な誹謗中傷のメールを送ってきたこともあった。

藤沢はそうしたコメントには法的措置を取るなど、ユニットのためにかなり動いてくれた。

事務所に残って弁護士とのやりとりを進めながら、藤沢は結衣にこう言った。



「結衣ちゃんは悪くない。俺は分かってるよ」



その言葉に、どれだけ救われたか分からない。

それでも、動いてくれるだけではカバーし切れない軋轢(あつれき)が、ユニット内部にも生まれていた。

個人のチャンネル登録者数だけ見れば、結衣と二人の間には数十倍もの差があった。

共同事業者としてはあまりにアンバランスな状態といえる。


きちんとした話し合いの場を設けて結衣が分かったのは、同期の二人が持っていた展望と、自分が抱いていた展望との差だった。

比較され続けるプレッシャーを二人は早期から抱えていたようだが、結衣はそのことに微塵も気がついていなかったのだ。

結衣は二人の意向を尊重すると誓ったが、数週間後、二人は無期限の休止を事務所に伝えた。


結衣は再び一人になった。


一人になった後で、自分が配信を始めた頃の、まだ一桁しかリスナーがいなかったときのことを思い出した。

あのとき配信を見てくれていた数人は、今はもう自分の実況を見ていないだろうという不思議な確信があった。

あの頃の『ましろ』は、今の『宵月ましろ』とは地続きとは思えないほどに離れすぎてしまっていた。


事務所とファンの期待に応えたいとも願っていた結衣は、それからも配信活動は続けていた。

それと同時に、学生時代に抱いていた疎外感は、周囲が自分のことを疎外していたのではなくて、自分から周囲を疎外していたのではという思いが、結衣の心を支配するようになった。

他者と関われないのは、他者を知ろうという気概がそもそも自分にないからではないか。


  ――それを脱却するためにこそ、かつて私は『ましろ』というもう一人の自分を生み出したのではなかったか。


『ましろ』の設定を綴ったあのときのノートを探そうとするが、部屋のどこにも見当たらない。配信アーカイブも、『宵月ましろ』に移行した際にすべて削除してしまった。

『ましろ』とは何者で、私は何になりたかったのか。それを確かめるため、もう一度『ましろ』として生き直すことを結衣は望んだ。


でも、ここにいるのはもはや『宵月ましろ』だけであって、『ましろ』も結衣自身も、遠い記憶のどこかに置いてきたままなのだと気がつく。



――私は『宵月ましろ』をもう捨てられない。

――捨てられない以上、私は『宵月ましろ』なのだ。



『ましろ』と結衣はきっと冷たい場所で、おそらくはもう死んでしまっているのだろうなと、今や何者なのか自分でもよく分かっていない一人の少女は、そう感じた。


奇怪な現象が起こったのは、ユニットがほぼ壊滅状態となり、個人での活動にシフトするようになってからである。


配信が前触れもなくプツンと切れたり、マイクに不快なノイズが乗ったりするようになり、極めつけに「画面の中に、這い回る気味の悪い虫の影が見える」と訴えるリスナーが多く現れた。


結衣は怪異を信じなかった。

信じはしなかったが、それでもこう思ったことがある。



――もしこの世に、怨念や呪いが現象として顕れることがあるとして、それが今私を襲っているものの正体なのだとしたら。



――それはきっと、もう死に絶えてしまった『ましろ』や、昔の私なんだろう。







◆








『てかさー! 休んでる間に、色々怖いことがあってーーーー』



不意にタブレットから響いた自分の声が、結衣の意識を過去の暗がりから、より残酷な現実へと強引に引き剥がした。



『今日はみんなに聞いてほしいこと、沢山あるんだよねっ』



勝手に始まった配信画面の中で、アバターが楽しげに笑い続けている。

藤沢は咄嗟(とっさ)に動いた。

配信ソフトを強制終了させようとマウスを握るが、カーソルは画面の隅に張り付いたままピクリとも動かない。

舌打ちをし、藤沢は機材の電源タップへと手を伸ばした。主電源の太いケーブルを、力任せに引き抜く。


バチッ、と小さな火花が散った。


だが――目の前のモニター群は、薄暗いブースの中で煌々(こうこう)と点灯し続けている。

電源との物理的な繋がりを絶たれたにもかかわらず、アバターは滑らかに動き続けていた。



「……戒さん。配信が、止められない」



藤沢は血の気の引いた顔で振り返り、戒に助けを求めた。

すぐさま札を使うなりして止めてくれるものだと思っていた。だが、戒は動かない。

ただじっと、腕を組んだままモニターを見つめている。



「まだです」

「まだって、このままじゃ結衣ちゃんが――」

「この怪異は、随分慣れないことをしている」



戒は画面から目を離さないまま言った。



「慣れないことをすれば、必ずボロが出る。……結衣さんに『根』を張っているようだが、ただ引き剥がすだけでは結衣さんにも危害が及ぶかも知れない。奴の『根』の居場所を特定するまで泳がせます」



怪異は今、数万人の人間とコミュニケーションを取るという高度な真似事を行っている。

情報量が増えれば増えるほど、必ずその言葉の端々に『本来の正体』が滲み出る。

戒はそれを待っていた。


結衣は恐怖に震えながら、自分の声で喋り続けるましろを、ただ見つめることしかできない。



『今日はね、突然だけど特別に、ASMR用のバイノーラルマイクで怖いお話の朗読をするよ』

『……みんな、イヤホンつけてる?』



ぞわり、と背筋が粟立った。

ユニット活動時、比較的人気コーナーのひとつだった『怪談朗読』のトーンだ。耳元で直接囁かれるような、生々しい音声に切り替わる。


だが、次にスピーカーから流れ出た『物語』を聞いた瞬間、藤沢の呼吸が完全に止まった。



『……ある男の人が、知らない森の奥に迷い込みました』



――林道。半年前の、あの赤茶けた。

藤沢の膝から、力がすっと抜けていく。



『そこには、本来なら誰も通れないはずの、草に覆われたお堂があったの』



アバターが小首をかしげてみせる。

コメント欄は【お堂こわっ】【声やば】と無邪気に流れていく。


――数え切れないほどの人間が、これを"よくできた怪談"として楽しみ、投げ銭で称えている。

藤沢一人だけが、甘い声の底に、もう一つの音を聴き取っていた。


――ぴちゃ。ぴちゃ。遠い水底(みなぞこ)で、湿ったものが蠢(うごめ)く音。


彼だけが知っている。その音を、半年前に一度、確かに聴いた。



『躊躇いながら草をかき分けるとね、地下へ続く、暗い、暗い階段があって』



喉が鳴った。飲み込もうとした唾が、途中で凍りついたように落ちていかない。



『……下の方から、風もないのに』



ましろが、そこで言葉を切った。

数万の耳が、次の一言を待って静まり返る。



『カタカタ、カタカタって、音がするの』



藤沢の奥歯が、かちりと鳴った。


朗読で聞いた『カタカタ』と、寸分たがわぬ拍子で。


違う。誰にも、話していない。


なぜ、なぜそれを知っている。








◆









半年前。


結衣の同期の二人が、無期限休止を伝えてきた直後のことだ。

藤沢の三重への出張は、宵月ましろの地方自治体との大型タイアップ案件のロケハンが目的だった。

同行した数名のスタッフをホテルに残し、藤沢は一人、空き時間にレンタカーで山間部へと向かった。

目的は、地元で有名な「開運と悪縁切り」のパワースポットだった。


宵月ましろ一人だけが売れ、同期の二人が伸び悩む現状。

社長としてなんとか運気を好転させたいという、切実だが安直な神頼みだった。


しかし、カーナビが案内した古い林道を進むうち、藤沢は完全に道に迷ってしまった。

気がつけば、本来の目的地ではない、立ち入りが禁じられているような廃れた神社――あるいはその跡地に行き着いていた。

朽ち果てた鳥居と、崩れかけた社殿。



(それにしてもすごい所だな。昔は立派な場所だったんだろうか……)



そう考えながら引き返そうとした、その時だった。


――カタカタ、カタカタ。


風が吹くと同時に、鬱蒼(うっそう)と茂る雑木林の奥から、微かに乾いた音が聞こえた。

不思議に思い、躊躇いながらも藪(やぶ)をかき分けて進む。

すると、不自然にぽっかりと開けた場所に出た。

なぜかそこだけ、草一本生えていない赤茶けた土が剥(む)き出しになっていた。


その中央に、地下へと続くコンクリートの入り口があった。

入ってはいけない場所だ。本能がそう告げているのに、地下から響く大量の「カタカタ」という音に、藤沢はまるで操られるように足を踏み入れた。


中は螺旋階段になっていた。

ひんやりとした水気とカビの匂いが立ち込め、不気味なほどに静まり返っている。

日の光は届かず、数段降りただけで足元が完全に見えなくなった。

壁沿いに手すりのようなものはあったが、何がこびりついているか分からず、どうしても触れる気にはなれなかった。



(……いや、やめよう。流石にこれは罰当たりだ)



これ以上降りてはいけないと足を止めた、その瞬間。


――ブブブブッ!


静寂の地下空間で、ポケットの中のスマートフォンが唐突に震えた。

「ひっ」と情けない声を上げ、藤沢はビクリと肩を震わせた。心臓が早鐘を打つ。

震える手で画面を見ると、電波が届いていない『圏外』の表示。

それなのに、画面には『非通知』からの着信が明滅していた。



「脅かさないでくれ……ホラー映画じゃあるまいし」



暗闇の中で一人。鳴るはずのない着信にゾワゾワと鳥肌が立つ。

着信は数秒でフツリと切れた。


安堵した直後、ふと気がついた。

スマホがあるなら、ライト機能を使えば暗くないじゃないか。

極限の恐怖で、そんな当たり前の思考すら抜け落ちていたのだ。


自分の間抜けさに呆れながら、藤沢は画面を操作し、ライトを点灯させた。

白い光が、地下の空間を容赦なく照らし出す。


その光景を見て、藤沢は絶句した。


風車だった。

壁という壁、足元の隙間に至るまで、色褪せ、古びた無数の風車がびっしりと突き立てられていたのだ。

「カタカタ」という音の正体は、光の届かない地下で、風もないのに一斉に回り続ける何千もの風車の音だった。



「っ……!!」



悲鳴すら上げられず、藤沢は螺旋階段を大急ぎで駆け上がった。

逃げ帰る藤沢の背中を追うように、何千もの風車が一斉に狂ったように激しく回り出し、鼓膜を破るほどの「カタカタカタカタッ!!」という異音が地下に反響した気がした。


そこは、間引かれた赤子を供養する『水子堂』の跡地。

そして、かつてその土地の村々で恐れられ、生贄や怨嗟とともに崇められていた、名前を持つ固有の『ナニカ』が祀られた禁忌の場所だった。

時代が移ろい、村の過疎化が進むにつれて人々の恐れと信仰は薄れ、力を失いつつあったそのソレは、誰も来ない地下でただ静かに消え失せる、終わりを待っていた。


そこに、本当にたまたま、藤沢がやってきたのだ。


終わりを待っていた古きソレは、絶好の依(よ)り代を見つけ、さらなる成長の糧を求めるように、逃げ惑う藤沢の背中に冷たく湿った泥のようにべったりと取り憑いた。



◆



『――それでね、その男の人は、逃げ帰ったつもりでいたの』

『でもね、背中にちゃんと乗ってきてたんだよ』

『おかげで、私はここまで来られたの』



ましろの無邪気な声が、藤沢の意識を現実へと引き戻す。


その瞬間、胃の奥から覚えのない吐き気がせり上がってきた。

口の中に、鉄と泥を混ぜたような味が広がる。

朝から何も口にしていない。それなのに、吐くものがあるような気がしてならなかった。

藤沢は口元を押さえ、喉の奥で鳴りそうになった音を必死に飲み下す。


誰にも話していないはずの体験が、今、数万人の前で朗読されている。

コメント欄が一気に沸いた。



【さっきから後ろが気になって仕方ない笑】

【ぞわっとした、さすがましろちゃん】

【深夜に聞くんじゃなかったw】



色とりどりのスーパーチャットが、滝のように画面を流れ落ちていく。



「……発端の場所は特定出来そうですね、藤沢さん」



戒の低く静かな声が、藤沢の耳に届いた。

戒はモニターから目を離し、藤沢の青ざめた顔を真っ直ぐに見据えていた。



「こういう話は、最初に共有していただけると助かるんですがね」

「でも、そんな……あれが発端とでもいうんですか? ただ足を踏み入れてしまっただけなのに……」

「まあ、ともあれ、真相に近づくことはできました」



だが、怪異の朗読は止まらない。

数万人のリスナーの『恐怖』と『熱狂』を、怪異がスポンジのように吸い上げていく。それに合わせて、ブース内の空気が水圧のように重く、濃密に変質していった。


結衣が息苦しさに喉を押さえ、蹲(うずくま)る。


藤沢が横目で窺うと、木下もまた壁に手をついて、浅い呼吸を繰り返していた。


ブースの四隅の「暗がり」だけが、じわじわと墨汁を垂らしたように濃くなり、こちらへ這い寄ってくる。


後頭部のすぐ後ろで、誰かの生暖かい呼吸が絶え間なく続いているような、密室の異常な息苦しさ。


そして、あの水の匂いが、いつの間にか部屋を満たしていた。

雨上がりの排水溝のような、生臭い、澱んだ水の匂い。



「……やはり『根』の力を抑えておくべきでしょうね。何が目的で配信しているのかは知りませんが、これ以上は見過ごせない」



戒はそう言うと、おもむろに前へ掌を向け――。


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