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4話


無数の電子機材が明滅し、現代の狂騒が渦巻く東京の古いオフィスビル。




戒たちが絶望的な怪異と対峙しているその防音スタジオから――遠く、数百キロ離れたとある場所。




重厚な雨音が日本家屋の瓦を打つ中、奥座敷には噎せ返るような白檀(びゃくだん)の香りと、鉄錆のような血の匂いが立ち込めていた。



祭壇を囲む三人の老齢の修験者(しゅげんじゃ)は、いずれも死線を潜り抜けてきた歴戦の猛者であった。


彼らの全身からは毛細血管が弾けた血の汗が滲み出していたが、岩のように結んだ跏趺坐(かふざ)は微塵も揺るがない。


彼らは独鈷杵(とっこしょ)を畳に深く突き立て、はらわたの底から響くような『大威徳明王(だいいとくみょうおう)の真言』を、地鳴りのごとき重低音で途切れなく唱え続けていた。


三人が己の命を削って押さえ込んでいる。


部屋を満たす霊圧は、並の拝み屋であれば結界の端に触れた刹那に心の臓を握り潰されて死ぬほどだ。


日本の暗部には、神を降ろす『御門(みかど)』の神祇官(じんぎかん)や、魔を滅する『裏高野(うらこうや)』の高位の阿闍梨(あじゃり)など、歴史に名を刻む強大な一族や大寺院の頂点が存在する。


だが、彼ら最高峰の法力をもってしても、この狂乱する怪物を前にすれば正気を保つことすら至難の業だろう。


葛城の長き歴史においても、強力な術者は数多く輩出されてきた。


しかし、彼女は別格だ。


他家の頂点に立つ高名な当主たちと比較しても、頭一つ抜けているなどという生易しいものではない。


見ている世界、生きている次元そのものが根底から違っているのだ。


現に――その嵐の中心に座す少女の髪は、一筋とて揺れていない。


白檀の煙すら、彼女の周囲だけは凪いだように真っ直ぐ立ち昇っている。


まるで嵐のほうが、彼女に触れることを畏れて避けているかのように。


中学生ほどにしか見えない小柄な体躯と、この世のものとは思えぬ玲瓏たる美貌。

葛城の最高傑作にして、底無しの異端。



『葛城 朔(かつらぎ さく)』だけが、地獄の釜の底のような空間で、ただ一人、嬉しそうに艶やかな笑みを浮かべていた。



歴戦の修験者たちが流す血の汗も、空間を軋ませる殺気も、彼女にとっては遠い景色でしかない。朔は常に自然体だ。



ただまるで、湯に浸かるように、その地獄の底で寛いでいた。



「ふふっ。戒ったら、相変わらず助けを求めてこないんだから」



無論、戒は彼女に一切のSOSを出してなどいない。



だが、葛城の――稀代の天才である朔の目には、遠く離れた地で弟が直面する事態が、数日前から『先詠(さきよ)み』で視えていた。



「意地っ張りで、一人で全部背負い込もうとする……本当に可愛い弟。でも、少しだけ溢れちゃった分は、お姉ちゃんが片付けてあげる」



朔の目の前には、人の背丈ほどもあるアンティークの姿見――古き呪いを現世に縛るための『八咫の裏鏡(うらかがみ)』が置かれていた。


付き従う黒衣の童子が、木桶から、呪縛の霊薬『辰砂』を溶かした赤黒い浄水を床へと流す。水は床を滑り、朔の足元から、巨大な鏡の底へと繋がる一筋の『道』を作った。



「これは、『産道』よ」



朔が、甘く囁く。


白く細い指先で、密教の『外縛印(げばくいん)』を軽やかに結びながら。


生まれることができず、暗い水底でただ肉体を渇望し続けていた呪いにとって、それは抗うことなど考えつきもしない、極上の『反魂(はんごん)の道』――甘く香る、たった一筋の帰り道だった。


腹を空かせた赤子が、乳の匂いに思わず首をめぐらせるように。


朔は鏡に向かって手を伸ばし、何かを招き入れるように、ゆっくりと手招きをした。



「おかえりなさい」



その瞬間、四隅の注連縄(しめなわ)が、ジュワ……と嫌な音を立てて一瞬で真っ黒に腐り落ちた。


空間は静まり返っている。


ただ、ひび割れた鏡の奥から、大量の髪の毛が絡みついたような、どす黒い泥水がぼこり、ぼこりと静かに溢れ出し、座敷の畳をじわじわと浸食し始めた。


数百キロ離れた場所で、膨大な熱狂を吸って限界まで肥大していた力が、一瞬にして『産道』を引きずり戻されたのだ。


凄まじい怨念を纏った無数の目玉と腕が、目前の朔を喰い殺さんと、泥の塊が巨大な顎を開いて迫る。しかし、朔は全く動じなかった。


ふわりと笑ったまま、目前まで迫った泥の塊の先端に、白く細い指先をそっと触れさせた。



――ぴちゃり。



たったそれだけで、巨大な力の奔流が、空中でピタリと停止した。


物理的な力ではない。極上の産道だと思ってすがりついたその指先が、己よりもはるかに深い『絶対的な奈落』だと悟ったのだ。


その刹那、喰らう側であったはずのモノが、喰われる側の顔をした。


無数の目玉が、一斉に同じ一点を――己に触れる細い指先を凝視する。飢えも、憎しみも、歓喜も、凡そ怪異を衝き動かしていた一切の渇きが、氷水を浴びせられたように凍りついた。


ずるり、と無数の腕が後退しようとする。逃げようとする。


だが遅い。捕食者の手は、もう離れない。化け物の肉が、恐怖に小刻みに痙攣した。


――ナニカは、震えていた。


朔の細い腕に這わせてある赤と黒の刺青(いれずみ)――葛城の『獄(ごく)』が、生き物のように蠢き、ナニカの絶大な呪力を貪り喰らい始めた。


そこで、朔はふと動きを止めた。


指先から流れ込んでくるものの味が、思っていたものと違う。


何百年と土に染み込んだ澱の味ではない。血も、土も、時間の匂いもしない。


まるで、生まれたばかりの卵の白身を舐めたような――薄く、青い味だった。



「……あら」



朔は、指先に吸いつく泥を、玩具のように軽く持ち上げてみせた。



「あなた、ずいぶん若いのね」



それは、朔の知るどの怪異にも当てはまらなかった。


古いものは、必ず名前と土地の記憶を持っている。呼ばれた名も、殺した人間の数も、祀られた年月も、喰らえば否応なく流れ込んでくる。


けれどこの泥には、そのどれもがない。


あるのは、数え切れないほどの人間が画面の向こうから投げかけた、名前とも言えない呼びかけの残響だけ。



「若いけれど力強い。たくさん呼んでもらえたのね」



ふっ、と。その玲瓏たる美貌に、花が綻ぶような笑みが差す。


――深い愛情と、底のない狂気が、寸分違わぬ形をして同居する笑みだった。


喰い殺されかけてなお、その表情を見たナニカは、理由もわからぬまま、ぞ、と総毛立った。



「誰に産んでもらったの? こんなに急いで、こんなに歪な形で」



答えはない。答えられるだけの言葉を、それはまだ持っていない。


朔は少しだけつまらなそうに目を細め、それから、慈愛に満ちた母のような声音で囁いた。



「まあ、いいわ。可哀想に。私の大切な弟がすぐにあなたを祓うから、お家で大人しく待っていなさい」



――その声があまりに優しかったからだろうか。



「おかえりなさい」



ズチュンッ、という醜悪な水音とともに、化け物は鏡の奥底へと強引に引きずり込まれ、完全にその姿を消した。


静寂の戻った座敷。


死線を超えた三人の修験者は、喉元まで込み上げた血反吐を呑み込み、誰一人倒れることなく、ただ深く、長く、呼気を吐き出した。


並の拝み屋なら百人は死んでいる呪の奔流。


それを至近距離で結界に留め切った彼らは、静かに独鈷杵を置き、化け物を遊び半分で喰い伏せた眼前の『少女』へ、ただ深く平伏した。



「……あら? これで普通は、綺麗に消えてくれるんだけどね」



朔はひび割れた鏡を見下ろして、ほんの少しだけ、笑みを引っ込めた。


その向こうで、引きずり込んだはずの何かが、まだこちらを見上げている――そんな気がした。


産道を通して引き戻せるのは、その道を「帰り道」だと思ったものだけだ。


帰る場所を持たないものは、どこへも帰らない。


追えば追えるのだろうが、それは弟の仕事だ。



――ただ。



生まれたばかりの子には、必ず産んだ親がいる。


そこまで考えて、朔は思考を止めた。


けれど、それも一瞬のこと。


彼女はすぐに興味を失い、平伏する老人たちを退屈そうに一瞥した。


だが、ふと何かを思い出したように、幼い少女のように可愛らしく頬に手を当てる。



「あ」



その瞳の奥に、底知れぬ昏(くら)い狂気が渦巻いた。



「あとで戒に褒めてもらわないとね」









◆









数百キロ離れた東京の防音ブース。


肌をジリジリと焼くようだった異常な霊圧が、まるで幻だったかのようにフツリと霧散し、藤沢と結衣、木下は拘束を解かれたかのように激しく咳込みつつ床に手をつく。


同時に、勝手に喋り続けていたタブレットの画面が激しい砂嵐へと変わり、スピーカーからの怪談朗読も完全に沈黙した。


あの湿った水の匂いも、潮が引くように薄れていく。



「戒さんが、祓ってくれたんですか……?」



切れ切れの息でそう問う藤沢だったが、戒は窓の外を睨みつけたまま、手を上着のポケットにしまう。



「戒さん?」


「……いえ。俺は何もしていません。横槍が入っただけです。お節介な姉というのも考え物ですね」



戒は藤沢には今一つ意味が掴めない言葉を告げた後、気を取り直すように身体を伸ばした。



「おかげで随分と乱暴に削られましたが、『根』は健在です。結衣さんやこの事務所に張られた『枝葉』は大体取り除けたのでご安心を。これで当座の猶予はできました」



戒の言葉に、冷や汗で顔を濡らした藤沢が、へたり込んだまま顔を上げる。


その表情には、安堵よりも、どうしようもない戸惑いと恐怖が浮かんでいた。



「戒さん……私は社を荒らしたわけでも、何かを壊したわけでもないんです。途中で不気味になって、下まで降りきることすらしないで引き返した。ただ、あの場所に少し足を踏み入れてしまった……本当に、ただそれだけだ。たったそれだけのことで、あんなおぞましいものに取り憑かれるというんですか……!」



釈然としない、いや、あまりの理不尽に対する怒りすら滲んだ声で、藤沢がすがるように戒を見る。


しかし、戒は残酷な真実を叩きつけるように小さく顎を引いた。



「藤沢さんは運悪く、地雷原に足を踏み入れてしまった」



戒はそこで言葉を区切り、不具合を起こしたままの機材やモニターへと視線を巡らせた。



「あんなのでも神のなりかけ、諸々悪影響は生じます。身体の不調や、機械トラブル。……ですがアレは単に取り憑くだけでなく、この世界に生まれ落ちることを願った」



戒の鋭い瞳が、砂嵐を映し続けるモニターから、床で震える結衣へと移る。



「そして結衣さんを中継して『宵月ましろの配信』という仕組みを知った。忘れられて消えかけた自分の信仰を、そっくり作り直すために流用しようと考えた。……おそらくは、そういうことなんだと思います」



言いながら、戒はどこか釈然としない顔をしていた。


筋は通る。通るはずだった。


だがそれなら、本命として狙われている結衣の症状が、巻き込まれただけの藤沢より軽い理由の説明がつかない。


朝からずっと引っかかっている、あの一枚足りない感触が、まだ手元に残ったままだ。



「……とにかく、今は配信を通じて力を集めている。放っておけば、いずれ結衣さんの身体を使って形になる」



戒の説明を聞き終え、藤沢は力なく視線を落とした。



「私が……あの場所からアレをここまで運んできてしまった。そして、結衣ちゃんに憑けてしまったということですね……」



ただ、淡々と事実を噛み砕くようなその呟きには、己の不用意さに対する底知れぬ悔恨が滲んでいた。



「……すまない、結衣ちゃん。私のせいで、君を、皆をあんなおぞましい目に遭わせてしまった」



藤沢の静かで重い謝罪に、結衣は小さく首を横に振ったが、まだ恐怖で声が出せない。


沈痛な空気が流れる中、戒は気怠げに首を回すと、壊れたモニターの砂嵐を一瞥した。


怪異による配信。似たような事例は過去にもあったのかもしれない。しかし戒自身はこれまで実例を聞いたことがなく、これからの時代はこうした怪異の発生現象が多くなるのかも知れないと考えた。


時代の流れには逆らえない。


それでもあちらが成功例を増やし続ければ、それが有象と無象を繋ぐ『門』となってしまうかも知れない。逆らえなくても、少しは犠牲になる人たちが減るかもしれない。


だからこそ戒は確実に祓っておく必要があった。



「確認しに行きますか。三重の、その水子堂の跡地へ。大元の『根』を完全に引きずり出して、叩き潰す」



そう告げると、戒の視線が、床に蹲ったままの少女へと移った。



「そのために……結衣さん、あなたにも同行してもらいたい」


「え……?」



結衣が、弾かれたように顔を上げる。マスクの奥の唇が、恐怖に戦慄いた。



「アレの本命の器──形代はあなたです。奴が十分な力を得て、もう一度『神』に返り咲くとき、受肉にはあなたの身体が選ばれるでしょう。……『根』を完全に絶つには、どうしてもあなたを現地へ連れていき、釣り出す必要がある」


「待ってください!」



結衣を囮にするという戒の言葉に、たまらず藤沢が必死に身を乗り出した。



「私も同行します。いや、私が行きます! 私が蒔いた種です、現地への案内なら私がやりますから……!」


「……いえ。社長は留守番を。もう呪いから切り離されたあなたを、これ以上危険な場所へ連れて行くわけにはいかない」



食い下がろうとする藤沢へ、戒は淡々と、しかし凄みのある声で告げた。



「単純にアレ相手にこれ以上守り切る余裕なんてない。……藤沢さん。命を落とすか、最悪、俺たちを脅すための『人質』にされることだってある」


「っ……」


「結衣さんが無事に帰ってこられる居場所を守るのも、経営者であるあなたの仕事でしょう。スポンサーへの謝罪や、炎上を抑える公式声明の発表。ここであなたにしかできない事をしてください。彼女の帰る場所を残しておいてやってください」



足手まといになるという残酷な事実と、現実世界での己の責務。


取引先への事情説明、SNSでの憶測に対するカバーストーリーの構築、不安がる他の所属タレントへのケアと箝口令。


今ここで自分が会社を空ければ、世間からの信用は完全に失墜し、事務所の経営は立ち行かなくなる。


それは『宵月ましろ』のブランドが終わるだけではない。休止中の二人を含めたあの子たち全員の『帰る場所』も、少ない人数で必死に事務所を支えてくれている社員たちの生活も、すべてが完全に消滅してしまうことを意味していた。


藤沢はギリッと唇を噛みしめ、血が滲むほど拳を握りしめた。


今日会ったばかりで、どう見ても表の世界の人間ではない青年。


一人の女の子として、人間として散々理不尽な目に遭ってきた結衣を、本来ならそんな危険な気配を纏う男に預けられるはずがない。


だが、彼にはすでに一度、結衣を視えない恐怖から救ってくれた確かな恩義がある。


それに、先ほどの絶望的な状況をあっさりと覆した圧倒的な『力』と、不器用ながらも自分たちを気遣い、矢面に立とうとするその背中。


これまで経営者として、数え切れないほどの人間と向き合ってきた藤沢の目は、決して節穴ではない。


この得体の知れない青年が、その根底に決して他者を見捨てない芯を持った「信じるに足る人間」であることを、藤沢の直感は確信していた。



――ならば、自分はどうなのだろう。



ふと、そんな思いが頭をよぎる。


彼女を預ける相手を、自分は見誤っていないか。


そもそも自分は、この子を預かる側の人間として、何ひとつ間違えずにここまで来られたのかーーーー


藤沢は深く息を吐き出すと、その問いごと飲み下すように、背筋を正した。


彼は経営者として、ただの感情に流されることは許されない。深く、深く頭を下げた。



「……分かりました。ここから先は、あなたに預けます。彼女の帰る場所は、私が死守します。どうか、結衣ちゃんを……必ず連れ帰ってください」



藤沢の痛切な願いを背に、戒は短く頷き、床に座り込んでしまっていた結衣に視線を合わせるように屈み込んだ。



「俺は結衣さんの仕事についてはよく知りませんが──何となく分かることもあります。『宵月ましろ』は、あなた自身が望んだもうひとりのあなたなんですよね? もちろん、自分の中に『もう一人の自分』を作って切り離すとなれば、様々な不都合も生じるでしょう。――あなたは今、あなたが望むようなあなたであり続けることが、上手くできていないのかも知れない」



まるで心を見透かすような戒の瞳に結衣は視線を合わせつつ、脳裏では離れていってしまいつつある二人のメンバーの姿が映った。


考えようによっては、これは自分が望んだ状況と言えるのかも知れない、と結衣は思う。


神様によって乗っ取られた宵月ましろは、それでも宵月ましろとして存在し続ける。


私は宵月ましろと別れを告げて、新しい私を一から作り出すことができる。


でも──。



「でも──私は──!」



戒は微笑みながら頷き、結衣の言葉を引き取る。



「でも、『宵月ましろ』はあなたなので、自己を捨て去ることも、なかったことにすることもできはしない。ましてや神様に代理してもらうわけにはいかないんです。失ってしまったものは、自分で取り返す他にありません。それはあなたが一番良く分かっているはず。だから、力を貸してもらえると有難い。必ず、身の安全はお約束します。自分は――――」



戒はシガーケースから一本のタバコを取り出して咥える。




「『葛城』をやっていますので」




約束致します。そう言い残して、火は点けずに防音ブースの扉へと歩き出した。



「私が望んだ、ましろ……」



藤沢の心配するような視線を受けつつ、結衣は俯きつつそう呟く。



(……怖い。あの化け物のところへ行くなんて、絶対に嫌だ)



本能は激しく警鐘を鳴らしている。だが、ここで逃げ出して『ましろ』をあんな理不尽な神様に明け渡してしまったら?


自分はまた、あの息苦しい教室の隅にいたような、誰の記憶にも残らない『透明な人間』に戻ってしまう。


失ってしまったものは、自分で取り返す他にない。


――取り返せなかったものが、もう一つある。


不意に浮かんだその考えを、結衣は反射的に押し込めた。


一年かけて、そうやって薄めてきたはずだった。


それに――。



『いつか、三人で絶対3Dライブやろうね!』



大切な約束。


今ここですべてを投げ出してしまえば、休止してしまった同期の二人と、またあの場所で一緒に笑い合うというたったひとつの希望すらも、永遠に失われてしまう。


必死に足掻いて、やっと手に入れた「自分を見てくれる居場所」と「仲間との約束」を奪われたまま生きていくことのほうが、結衣にとってはよっぽど恐ろしかった。


ややあって再び顔を上げたとき、その瞳にはまだ恐怖の涙が滲んでいたが、ただ怯えて震えているだけの少女の表情ではなくなっていた。


結衣は乱暴に目元を拭い、急いで鞄の荷物をまとめると、もつれそうになる足を必死に動かして、防音ブースを出ていく戒の大きな背中を追いかけた。

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