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2話

今までの不調が嘘のように、今朝の結衣の体調はすごく良かった。


マネージャーの木下からは「今日も休むように」と強く止められたが、結衣はどうしてもスタジオへ行くと譲らなかった。


体調はもう大丈夫だし、気持ちのほうも切り替えられている。何より、ずっとリスナーを待たせてしまっていた。


今日こそ、元気な声で復帰配信をしなければ。


家の機材は休む前から、配信のときに限ってトラッカーがあらぬ方向を向いたり、妙なノイズを拾ったりしていた。だから今日は事務所のブースを借りて、スタッフのいるところで配信することにしてある。


洗面所の鏡に向かって軽くメイクを済ませ、いつもより少しだけ明るい色の口紅を選んだ。


カバンを手に玄関へ向かおうとした結衣は、廊下の途中でふと足を止める。


さっきここを通ったときには何ともなかったはずのフローリングに、じっとりと水が広がっていた。靴下の裏が、ひたりと冷たくなる。



「え……?」



どこから漏れているのか辿ってみると、キッチンの冷蔵庫の下から染み出しているらしい。


継ぎ目のあたりから、ジワジワと、少しずつ広がっていく。



「うそ、買ったばかりなのに……保証、効くよね。あとで連絡しないと」



やっと原因不明の体調不良から抜け出せたというのに、今度は家電の故障か。


結衣はため息をつくと、シンク下から雑巾を引っ張り出して水を拭き取り、冷え切った指先を洗面所で洗い流した。石鹸の香りが、ようやく普段どおりの朝を思い出させてくれる。


そして、気を取り直すようにマンションの玄関扉を開けた。



「よし。行ってきます」



パタン、と重い金属扉が閉まる。


主のいなくなった部屋に、冷蔵庫の低い唸りだけが残った。



――ピキッ。



洗面所の鏡の真ん中に、一本の細いヒビが入った。


放射状に広がるでもなく、ただ縦に一本。刃物で引いたように真っ直ぐな線だった。


同時に、さっき綺麗に拭き取ったはずの冷蔵庫の下から、再び透明な水がじわじわと溢れ出す。


今度は誰にも拭き取られることなく、水はフローリングの木目をゆっくりと辿りながら、玄関のほうへ這っていった。



◆



仄暗い和室。線香から立ち昇る煙に、姉が吹かす細い煙草の紫煙が混ざり合う。


『戒』と、姉は生徒に呼びかけるように俺の名を呼んだ。


『私たちが怪異を祓う時、なぜわざわざ【原因】を探るのか、分かるかしら? 憑りつかれた人間の身体から、怪異を力任せに引き剥がしたほうが手っ取り早いのに』


まだ葛城の家にいた頃の記憶だ。


縁側に腰を下ろした姉は、庭のほうへ足を投げ出したまま、気怠げに煙をくゆらせ、幼い俺を冷ややかに見下ろしていた。



『……それだと、また別の人間が狙われるから、ですか』



蛇に睨まれた蛙の心持ちで、俺は答える。



『半分正解で、半分間違いね。本当の理由は、「それだと、すぐにまた同じ穴から湧いてくるから」よ』



姉は細い指先で煙草の灰を落とし、優雅で、どこか酷薄な笑みを浮かべた。



『例えば、怪異が親しい人間の声や姿を真似る理由。あれはね、相手を油断させるためだけじゃない。相手自身の手で、内側から鍵を開けさせるためよ。……家族の声で「ただいま」と呼ばれたら、人は疑いもせずに鍵を開けて、「おかえり」と招き入れてしまうでしょう?』


『自分から……』


『ええ。「名を呼んで、返事をさせる」「問いかけて、同意を得る」。怪異は本来、存在しない。存在しないものは、こちら側に手を出せない。でもね、怪異の言葉に返事をして、誘いに【同意】してしまったら話は別。存在しなかったはずのそれらは、あっという間にこちら側へ越えてくる。死と生の境目は破られて、夢の中にいたはずの呪いが溢れ出すの』



姉はそこで言葉を区切り、ふうっと細い煙を吐いた。


白い糸のような煙が、障子から差し込む光の筋に触れて、ゆらりと形を崩す。



『ただの怨念や浮遊霊には、自我も知恵もないわ。けれど怪異の中には、人の言葉を巧みに操って、罠を張り、自分からこちら側へ手を伸ばしてくるモノたちもいる。そういう存在を何と呼ぶか、分かるかしら?』



俺が答えられずにいると、姉はそのまま続けた。



『ただの悪霊じゃない。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもう神と変わらない――【祟り神】と呼ばれるものね。そんな格のモノをいくら祓ったところで、また別の呪いが湧いて出るだけ。確実に祓いたいなら……』



今度は俺が、姉の言葉を引き取った。



『……【根】に辿り着いて、それを絶つ必要がある』



『その通り』と姉は快活に笑った。『……じゃあ、戒。神にすら届くその【根】の正体は、何だと思う?』



考えようとした俺を、姉は掌を向けて制した。そして人差し指で天を指し、それをゆっくりと自分の唇の前まで下ろしてくる。



『どんな怪異も、元を辿れば必ず人間から生まれるの。妬み、嫉み、執着。そういう「底なしの悪意」が呪いの形を作って、やがて怪異になる。……行き着く先は、結局のところ「人間の業」なのよ。――だからこそ、気をつけて』



射抜くような姉の視線が、俺を捉えた。


縁側から這い上がってきた冷気が、部屋の空気をぞわりと冷やす。立ち昇っていた線香の煙までが、その場で動きを止めたように見えた。



『怪異は、いつだって理不尽よ。戒、たとえあなたが原因を祓ったと思っても……残酷な結末を止められるとは限らない』



姉は遠くを見るように目を細めた。吐いた煙が、ほどけながら天井へ消えていく。



『――私でさえもね。本当に、ままならないわ』



線香と煙草の匂いまで思い出せる記憶の中で、姉は最後にそう付け加えた。



◆



駅前の喧騒から逃れるように入った喫茶店は、朝だというのに妙に薄暗かった。


天井の照明は半分ほどしか点いておらず、窓際には朝の陽が差しているはずなのに、二人の座る一角だけが、その光から取り残されたように冷え冷えとしている。


磨き込まれた木のテーブルの上で、藤沢の頼んだコーヒーだけがゆっくりと湯気を上げていた。


葛城戒はスマートフォンを机の端に置き、藤沢の話を黙って聞いている。


相槌は少なく、視線は一度も藤沢の顔に向かない。終始、藤沢の肩越しの、何もないはずの空間を見ていた。


藤沢はそれとなく、この青年の素性を尋ねてみた。けれど戒は、ひどく面倒くさそうに視線を逸らしたまま答えた。



「……霊能者とか、そういうのでいいです。シンプルで分かりやすいでしょう?」



あっさりはぐらかされ、藤沢はそれ以上の追及を諦めた。


藤沢が口を噤むと、戒は脱線はここまでだとばかりに、先ほどまで藤沢が必死に説明していた事業内容の話へ戻す。



「要するに、画面にその『あばたー』という架空の絵を映して、何千人もの人間を相手に喋ったり遊んだりしてみせる。しかし、チケットや物を売るわけじゃない。どこから金が出るんです?」



藤沢は思わず苦笑しかけて、すぐに笑みを引っ込めた。


からかっている様子がまるでない。この青年は本気で、配信というものに一度も触れずに生きてきたのだ。



「戒さん。ミーチューブくらいは見たことあるでしょう?」


「……ありますよ。ヒカ〇ンとか、ですよね?」


「ええ、まあ……本当にそれ以外は全くご存じないんですね」



藤沢はカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ熱を込めて言った。



「基本は、視聴者からの投げ銭……直接の支援金と、広告収入です。ただ、どれだけ技術を使って可愛い絵を用意しても、それだけじゃ誰も見てくれません。『中』にいる生身の人間が、自分の声や感情や時間を注ぎ込んで、ファンと一緒にキャラクターを育てていくんです。彼女たちにとってあれは、ネットの向こう側で生きる、もう一つの大事な『体』なんですよ」



戒は紅茶に砂糖を落とし、スプーンで混ぜながら低く唸った。かちゃりと、カップの内側で小さな音が鳴る。



「架空の姿を、もう一つの体にする。そこに生きた感情を注ぎ込んで、見返りを求めない大勢から布施を集める……なるほど。仕組みとしては、神輿(みこし)と信者と同じですね」


「神輿……」


「藤沢さんのその説明で、一つ腑に落ちたことがあります」



戒は低い声で、話を本筋へ戻した。



「藤沢さんが拾ってきた怪異が、なぜあなた自身を『本命』として喰おうとしなかったのか、という疑問です」



ごくり、と藤沢の喉が鳴った。


出勤前らしいスーツ姿の男が二人、窓際でモーニングのトーストをかじっている。カウンターの奥では、店員が洗ったカップを布巾で拭いていた。ラジオからは古い歌謡曲が小さく流れている。


そんなありふれた朝の風景の中で、戒と藤沢の座る席だけが、透明な膜で外から隔てられているようだった。



「人の代わりに呪いや災いを引き受けさせる人形を、形代(かたしろ)と言います。その神輿には、何千何万もの人間の感情が毎日注ぎ込まれている。形代としては、これ以上ないほど上等な器です」


「つまり、うちのタレントと視聴者の関係が、怪異に利用されていると?」


「おそらくは。ただ、それだけなら、アニメや漫画の人気キャラクターでも同じことが起きるはずです。そうならない理由は一つしかない」



戒は紅茶のカップを置き、初めて藤沢の目をまっすぐに見た。



「アニメのキャラクターは、画面の向こうから視聴者の名前を呼んだりしない。コメントに返事もしない。……けれど、あなたの会社のタレントたちは、それをやるんでしょう」


「……ええ。そこが売りですから」


「名を呼んで、返事をさせる。怪異というのは本来、存在しないものです。存在しないものは、こちら側に手出しができない。ただし、人がその言葉に返事をしてしまえば話は別だ。返事をするということは、相手がそこに居ると認めるということですから」



戒は指先で、カップの縁をなぞった。



「認められた瞬間、居なかったはずのものが、居ることになる。怪異はその一瞬をずっと待っている。……何万人もの人間が、毎晩、顔も知らない相手と名前を呼び合っている。奴らからすれば、これ以上都合のいい場所はない」



藤沢は絶句した。


ファンを喜ばせるために、自分たちが手をかけて作り上げてきた居場所。あの温かいやりとりの一つ一つが、怪異をこちら側へ招き入れる扉になっていた。そう突き付けられたのだ。



「こちら側に出てこられただけでは、奴らは満足しません。怪異にとっていちばんのご馳走は、人間の恐怖や不安です」


「じゃあ、トラッカーが誰もいない方向を向くのも、リスナーが見たっていう不気味な影も……!」


「事務所そのものに、呪いが一本の木のように根を張っていると思ってください。枝が伸びすぎて、画面の中だけじゃ収まらなくなった。その分が、現実のほうへ漏れ出しているんでしょう。昨日までのあなたに張り付いていたのは、その木から伸びた『枝葉』です」



戒は冷めた紅茶を一口すすった。



「昨日、俺がその枝葉を切った。その影響で、事務所中に伸びていた枝も一時的に緩んだ。だから今朝は、タレントたちの体調も少しはマシになっているはずです」


「ええ……確かに、今朝の本人はすこぶる元気そうでした。私のほうは、昨日祓っていただいたのに、まだ何か背中にいるというのに」



戒はその言葉に、わずかに眉をひそめた。



「そこです。枝葉を切ったとはいえ、怪異に直接狙われている『本命』の彼女が、巻き込まれただけのあなたより軽いというのは妙ですね。……普通なら、逆のはずだが」


「戒さん?」



戒はそこで口を噤んだ。


枝葉と、根。事務所に根を張る一本の木。


自分の立てた見立てで、事務所に起きていることはひと通り説明がつくはずだった。現にここまでは、藤沢の話とも、症状の重さとも噛み合っている。


それなのに、彼女の体調だけが、どうしてもその見立ての中に収まらない。


手元に並べた札のどこかに、一枚だけ足りない場所がある。そんな感触だけが残っていた。


その一枚が何なのか、いくら考えても掴めないまま、戒は短く首を振った。



「……まあいい。とにかく、いくら枝葉を切っても、大元の『根』を引きずり出さないことには終わらない。今すぐ、そのタレント本人に会わせてください」



それまで戒の話に狼狽えるばかりだった藤沢が、その一言を聞いた瞬間、奥歯を強く噛み締めた。


戒を疑っているわけではない。けれど、にわかには信じがたいオカルトの話に、会社とタレントの命運をまるごと預けられるほど、完全に信じ切れているわけでもなかった。



「……本来なら、それは絶対にお断りしているところです。彼女たちの素顔を……『演者』を外部の人間に会わせるなんて、この業界では最大のタブーですから」


「……」


「もし彼女の情報が漏れて何かあれば、あの子の人生が壊れます。事務所の信用も地に落ちる。身元の保証も、秘密保持の契約もないあなたに会わせるなんて、社長として到底首を縦には……振れません、が……」



藤沢はそこで、苦しげに言葉を詰まらせた。


昨日、自分に憑いていたものを祓ってもらった。この男の力が本物なのは分かっているし、命の恩人だとも思っている。


だが、それとこれとは話が別だった。


テーブルの下で、藤沢の膝が小刻みに揺れている。コーヒーに一度も口をつけていないことに、本人は気づいてもいなかった。


保身ではない。守ると決めた子を、自分の判断で危険に晒すかもしれない。その恐れが、首を縦に振らせずにいた。


戒はシガーケースを指先で弄びながら、淡々と言った。



「怪異がこちら側で肉体を得て――受肉して、充分な力をつけたら、一体何が起こるか。今までのように悪夢にうなされたり、体調を崩したりする程度では済みません。楽に死ねればまだましなほうで、この世には死ぬよりずっと恐ろしいことがいくらでもある。そしてそれは、周りにも広がっていく。……でも、あなたは社員とタレントを守る立派な社長さんだ。俺はただ通りかかっただけの人間です。無理強いするつもりも、その筋合いもありませんよ」



戒はシガーケースを閉じ、藤沢をまっすぐに見た。



「だから、藤沢さんが選んでください。秘密を守り通して呪いに怯えて終わるか、昨日会ったばかりの俺を信じて助かるか」



逃げ場のない二択だった。



「俺は、家を出た半端者です。それでも、葛城家の人間であることに変わりはない。口の軽さは死を意味します。生きていくための最低限の金は頂きますが、無闇に他人の秘密を暴いたりもしない」


「──それもまた、葛城をやるということですので」



戒はそう告げると、あとはご自由にとでも言うように黙ってしまった。


藤沢は、冷めていくコーヒーの表面をじっと見つめた。


事務所の信用も、あの子の顔も、社員たちの生活も、どれ一つ手放せないまま、頭の中をぐるぐると回っている。



「……昨日のことがなければ、絶対に信じませんでした」



ややあって、藤沢は絞り出すように言った。



「それでも、今はあなたを頼るしかない。彼女たちを守れる可能性があるなら、私は社長として、その可能性を選びます」



戒が、頬をすっと緩めた。



「賢明なご判断だと思います」


「ただ、戒さん。彼女には、あなたを霊能者とは伝えられません」



でしょうね、と戒は頷く。



「怯えますし、何より説明が難しすぎる。機材トラブルの調査という名目にします。戒さんはその専門家、ということで」


「……なるほど」



戒はにやりと笑った。



「分かりました。ではそうしましょう。そちらの世界の作法は、藤沢さんに任せますよ」



◆



喫茶店を出てから、戒はほとんど口を開かなかった。


駅前の人波を抜け、オフィス街へ入る。ちょうど出社の時間帯で、歩道は急ぎ足の会社員たちで埋まっているはずだった。


それなのに、事務所の入っている雑居ビルが近づくにつれ、周りの音が一枚ずつ剥がされていくように遠のいていく。


車のクラクションも、すれ違う人の話し声も、水の中で聞いているように輪郭がぼやけていた。



「……ここです」



藤沢が足を止めたのは、駅から少し離れた一角に建つ、古いオフィスビルの前だった。


戒はその外観を下から上まで眺め、目を細める。



「綺麗ですね」


「え?」


「いや。汚れていないなと」



外壁には雨垂れの跡が黒く筋を引き、一階のテナントは半分が空いたままだ。お世辞にも綺麗な建物とは言えない。


何を言われているのか分からず、藤沢は返事に詰まった。


そのとき、視界の隅で何かが動いた。


エントランス脇の植え込みの陰から、黒くて長い脚がゆっくりと伸びてくる。続いて、掌よりも大きな胴体。


昨日、居酒屋で藤沢の足元にいたのと同じ、あの蜘蛛だった。



「……っ、また」



昨日、戒の煙を吸ってからというもの、見えなかったはずのものが、時々こうして目の端に映るようになっていた。



「ああ、そいつですか」



戒は一瞥しただけで、驚いた様子もない。



「土蜘蛛(つちぐも)です。気にしなくていい」


「気にするなと言われても……。何なんですか、それは」


「さあ」



戒は肩をすくめた。



「昔からうろついてるってだけです。少なくとも、あなたを食う側じゃない」



説明になっていない。


それでも戒がまるで意に介さないので、藤沢も追及を諦めるしかなかった。


蜘蛛のほうも二人には目もくれず、植え込みの奥へ音もなく消えていく。


戒はそれきり何も言わず、先にビルの中へ入っていった。


エレベーターの扉が閉まる直前、藤沢は、背後のガラス扉に何かが映った気がして振り返った。


星を散らしたような青い瞳。白い髪。笑っているのか、泣いているのか分からない口元。


けれど扉の向こうには、薄暗いアスファルトが続いているだけだった。


事務所の扉を開けると、見慣れた空間が広がっていた。


壁際に並んだデスク、点けっぱなしのモニター、書類の束が押し込まれた棚、そして奥の収録ブース。何も変わらない。


変わらないはずなのに、普段は気にも留めない空調の音だけが、やけに大きく耳についた。



「藤沢さん。今日来ているそのタレントですが、売れているんですか?」



戒が歩きながら尋ねる。



「ええ。一期生としてデビューした三人のうちの一人です。お恥ずかしい話ですが、会社の売り上げのほとんどを、あの子一人が支えています。事実上、うちの稼ぎ頭でして」


「なるほど」



戒はそれだけ言うと、また口を閉ざした。


いちばん奥の防音扉の前まで来たところで、戒の足がぴたりと止まる。



「……どうしました?」


「いえ」



戒は扉そのものではなく、その向こう側を透かし見ているようだった。



「藤沢さん。開ける前に、一つだけ」



誰かに聞かれるのを警戒するように、戒は声を落とした。



「はい」


「中で、モニターや機材にあり得ないモノが映っても、普段どおりに接してください。アレに、なるべくこっちの不安を悟らせたくない」



藤沢は、ごくりと唾を呑んで頷いた。



◆



「結衣ちゃん、お疲れ様。今ちょっといいかな」



ノックをしてから、収録ブースの扉を開ける。


分厚い防音扉の内側は、廊下よりもさらに空気が重かった。壁一面の吸音材が音を吸い込んでしまうせいで、自分の声すら他人のもののように聞こえる。


それに、妙な匂いがした。


雨上がりの排水溝のような、湿った、どこか生臭い水の匂い。空調は動いているのに、それがブースの中にだけ澱んでいる。


薄暗く光るモニターの前に座っていた少女が、ゆっくりとこちらを振り返った。


大きなゲーミングチェアにすっぽりと収まる小柄な体。大きめのパーカーを着込み、顔の半分を黒いマスクで覆っている。


目の下には、何日も眠れていない人間特有の薄い影が落ちていた。


だが、藤沢が最初に目を奪われたのは、彼女本人ではなかった。


結衣の背後の壁に、影が落ちている。


モニターの光を受けてできた、彼女の影だ。それだけのはずだった。


けれど、その影は椅子に座った小柄な少女のものにしては、あまりにも大きかった。肩のあたりから上が、天井に届くほど伸び上がっている。


そして、結衣が首を動かしていないのに、影の頭だけが、ゆっくりとこちらへ傾いた。


藤沢の喉が、ひゅっと鳴った。


これが、戒の言っていた『根』なのか。


横目で戒をうかがうと、戒もほんの一瞬だけ表情を強張らせ、小さく息を呑んでいた。


戒の忠告を思い出し、藤沢は努めて明るく口を開く。



「こちら、さっきメッセージで伝えた、機材トラブルの専門家の戒さんだ。戒さん、こちらが先ほどお話しした『宵月ましろ』の……結衣ちゃんです」



少女が、椅子の上から小さく頭を下げる。


戒はすぐに表情を取り繕い、軽く会釈を返した。



「……初めまして。名前は、戒。『葛城』をやっています」



短い名乗りだった。


ただの挨拶ではないことを、藤沢は道中で戒から聞かされていた。『葛城』の名を聞いた怪異がどう反応するかを見る、最初の一手なのだという。


少女は「かつらぎ……?」と不思議そうに小首を傾げるだけだった。


背後の影も、逃げるどころかピクリとも動かない。


戒は静かに息を吐き、懐からシガーケースと革の小袋を取り出した。



「一応確認しますが、ここは禁煙ですよね?」



結衣に向けた問いだったが、彼女が答えるより早く藤沢が止めに入った。



「当たり前ですよ! 吸うなら建物の外へ。火災報知器でも鳴ったら大変です」



事務所でボヤ騒ぎでも起きれば、所属している子たちの評判にまで傷がつく。この業界では、評判がすべてだ。



「……ですよね」


「火は絶対にNGですからね?」



必死に両手を振る藤沢を見て、戒は「分かりました」とあっさり引き下がり、シガーケースを上着のポケットにしまった。駄目元で聞いてみただけらしい。


藤沢は胃が痛むのを感じながら冷や汗を拭った。何も知らない結衣からすれば、目の前の男はただの不審者でしかない。


長袖で刺青こそ隠れているものの、気怠げな目つきも、まとっている空気も、どう見てもカタギのそれではない。そんな男が密室でいきなりタバコらしきものを取り出し、火を使えるかと訊いてきたのだ。


結衣は完全に引いてしまい、パーカーの袖口をぎゅっと握り直すと、椅子ごと半歩ぶん戒から距離を取った。



「……社長。この人、本当に専門家なんですか?」


「もちろんだよ結衣ちゃん。ちょっとやり方が古風なだけで、腕は確かだから……」



藤沢が必死に取り繕う横で、戒は結衣の反応など気にも留めず、革の小袋から手のひらサイズの束を取り出した。


神道、仏教、陰陽道と、さまざまな宗派の護符を一枚ずつラミネートし、十枚ひとまとめにリングで綴じたものだ。



「駄目なら仕方ない。煙を使う手は諦めて、このままトラッカーの異常を調べます。さっき藤沢さんから聞いたんですが、誰もいない方向を向くカメラの誤作動があるとか」



言いながら、戒はその奇妙な札の束を掲げてみせた。



「作業道具ですよ。こういう複雑な図形や文字を見せると、機械が人の顔と勘違いして、認識エラーを起こすことがある。……そうですよね、藤沢さん?」



戒がしれっと横目で合図を送ると、藤沢は一瞬ビクッとしてから、慌てて口裏を合わせた。



「そうなんだ結衣ちゃん。トラッカーの顔認識ソフトは、特定の複雑な模様を誤認することがあって……これはその、調査用のテストらしいんだ」


「……テスト」



結衣はもう、訝しむ目を隠そうともしなかった。


戒の手にある札の束を、じっと睨みつける。



「それ……どう見ても筆文字が書いてありますけど。お札か何かにしか見えないし……」



無理もない反応だった。それでもきつい言葉を選ばずにいるのは、社長が同席しているからだろう。



「それはだな、光学的なエラーを直接引き起こすための、特殊な図形で……」



当の藤沢がしどろもどろになっているのを見て、結衣は小さく溜息をついた。



「……大丈夫です」


「結衣ちゃん?」


「正直、全然納得してませんし、すごく胡散臭いです。でも……社長がそこまで言うなら、今は信じます。せっかく体調も良くなったんです。機材のバグさえ直るなら、もうやり方はなんだっていいんです。早く配信を再開したいので。……テスト、手短にお願いします」



早口でそう言い切った横顔には、得体の知れない男への警戒よりも、ファンを待たせている焦りのほうが濃く出ていた。


藤沢が内心で胸を撫で下ろす横で、戒は一枚目の護符を捲り、結衣の顔を映しているトラッカー用の小さなカメラへ向けて、見せつけるようにかざした。


結衣には、変な模様が描かれたカードにしか見えていないはずだ。


けれど藤沢には、札を持つ戒の指先がわずかに強張っているのが分かった。



「……どうですか。画面のトラッカーの動きは、おかしくないですか?」



結衣は確認用のモニターに目をやり、小さく首を傾げる。



「はい。緑色の枠は、普通に私の顔を追ってます。エラーも出てないです」


「なるほど。では、次です」



二枚目は、一般的な神社のお祓いの札だった。カメラにかざしても、画面の中の緑の枠は結衣の顔を追い続けている。変化はない。


三枚目、密教の軽い魔除け。これも反応はなかった。



「あの、まだかかりますか?」


「もう少しです」



結衣が椅子の上で身じろぎする。座り直すたび、ゲーミングチェアが小さく軋んだ。


ここまでは予想どおりだった。


戒の指先が、四枚目の護符を捲る。


『九字護身法』と『急急如律令』が朱墨で記された、本格的な陰陽道の呪符。素人目にもそれと分かるほど厳めしい一枚で、少なくとも見て分かる程度の反応くらいは引き出せるはずだった。


しかし、トラッカーは何事もなく結衣を映し続けている。


壁の影も、ピクリとも動かない。


一歩も退かないどころか、身構えてすらいなかった。


常に無表情だった戒の顔が、ここで初めてわずかに曇る。


藤沢は、自分の手のひらがじっとり汗ばんでいることに気づいた。拭うことすらできなかった。


五枚目。


仏教で最も強い破魔の力を持つとされる、『不動明王の梵字』。


これを突きつけられて平然としていられる怪異など、そうはいない。そのはずだった。


戒が札をかざす。


部屋の空気は、何ひとつ変わらなかった。


札にも、壁の影にも、反応はない。


代わりに、デスクの隅に置かれていたマイクのランプが、一瞬だけ赤く光った。


誰も触れていない。電源すら落としてあるはずのマイクだった。



「今、何か……」



藤沢が呟くと、戒が鋭い視線だけで制した。



「不味いな」



これまで聞いたどの言葉よりも低く、わずかに焦りの混じった声だった。


不動明王の梵字すら効かない。いや、効かないのではない。動じることすらしていないのだ。


葛城の名を聞いても、神仏の札を突きつけても、身じろぎ一つしない。そういうものは、たいていこちらを上から見下ろしている。怖がる必要がないから、怖がらないのだ。


一体どれほどの格の祟り神なのか。今の戒には、そう考えるより他になかった。


結衣が、小さく肩を震わせ始める。



「……寒い」


「結衣ちゃん?」


「いえ、大丈夫です。ちょっと、冷えたみたいで……」



そう言って笑おうとしたが、結衣の目はモニターの一点に吸い寄せられたままだった。


電源の入っていない、ただの黒い画面。


何も映っていないはずのそこを、彼女だけが、瞬きもせずに見つめている。


藤沢もつられて、その画面を覗き込んだ。


黒いガラスに、ブースの中が映り込んでいる。椅子に座る結衣。立ち尽くす自分と戒。


そして、結衣の真後ろに、もう一人。


藤沢は反射的に振り返った。


誰もいない。壁と、あの大きすぎる影があるだけだ。


画面へ視線を戻すと、そこにはもう、自分たち三人しか映っていなかった。


――この子に対する執着が、強すぎる。


戒は奥歯を噛んだ。このまま放っておけば、彼女は遠からず喰われる。


戒は六枚目の護符に指をかけた。


それは、神仏の力に頼る札ではない。葛城の家が外法として使う、怪異の核を無理やり引きずり出すための劇薬だった。



――忌み札『離魅振(リビフリ)』



大きな危険はある。それでも、使うしかない。


その札を引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。



「あの……もう、行ってもいいですか?」



結衣が、ひどく申し訳なさそうに言った。



「体調不良でお休みして、たくさんの人に迷惑をかけちゃったから……早く配信して、埋め合わせがしたくて……」



こんなときまで、この子はファンのことを考えている。


藤沢は、胸の奥を締めつけられる思いでその横顔を見つめた。


だが戒だけは、まったく別のものを見ていた。


結衣の背後で、影がゆっくりと膨らみ始めている。


彼女のたった今の言葉を、美味そうに味わっているかのようだった。


バチンッ!


照明が弾けるように明滅した。



「きゃっ……!」



結衣が小さく悲鳴を上げる。


同時に、デスクに並んだモニターが一斉に砂嵐へ変わった。


ジジッ、ジジジジッ……。


スピーカーから、耳の奥をざらつかせるノイズが漏れ出す。その奥に、誰かの笑い声のようなものが混じっていた。


戒の手の中で、忌み札の端が、火も点けていないのに黒く焦げていく。



「……藤沢さん。下がって」


「戒さん、これは……」


「『根』のお出ましです。こいつは――」



戒が言いかけた瞬間、バチン、バチンと、ブースの照明が狂ったように点滅を繰り返した。


肌をじりじりと焼くような、異常なまでの圧。


防音材に囲まれた狭い部屋の空気が、急に水のような重さを持ってのしかかってくる。息を吸っても、肺の半分までしか入ってこない。


あの湿った水の匂いが、一段と濃くなった。



『ただの悪霊じゃない。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもう神と変わらない――【祟り神】と呼ばれるものね』



戒の頭の中に、姉の声が蘇る。


どこからともなく、クスクスと、少女の笑い声が響いた。



「……そうか。騒がないはずだ」



葛城の名を聞いても騒がない。札を突きつけても逃げない。


それは、こちらを恐れる理由がないからだ。葛城が何をしようと、もう自分の勝ちは決まっている。そう分かっているからだ。


その余裕の意味を悟った瞬間、戒の背筋を冷たい汗が伝った。


直後、分厚い防音扉が勢いよく開いた。



「しゃ、社長……」



飛び込んできたのは、マネージャーの木下だった。タブレットを胸元で握りしめ、血の気の引いた顔で目を見開いている。



「どうした? 呼び出しのランプも点けずに――」



藤沢が咎めるが、木下にはその声が聞こえていないようだった。機材の前に座る結衣と、自分の手元のタブレットを、何度も交互に指差す。



「あ、その、結衣ちゃんのチャンネルで、配信が……」


「配信……?」


「いま、勝手に始まってるんです……」



戒は息を呑んだ。首筋を、冷たいものが撫でていく。


木下が震える指で、タブレットの画面をこちらへ向けた。


そこには確かに、星を散らしたような青い瞳のアバターが映っていた。


宵月ましろ。


結衣が演じているはずの、彼女のもう一つの姿。


けれど結衣本人は、今、戒たちの目の前にいる。



「え……?」



結衣の声が、恐怖で掠れた。



「なん、で? 私、ここにいるのに……?」



アーカイブではない。今、この瞬間に動いているアバターが、画面の向こうの大勢の視聴者に向かって、にっこりと笑いかけた。


直後、スピーカーから愛らしい少女の声が響き渡る。


結衣の喉から出るものと寸分違わない、完璧な『ましろ』の声だった。



『こんましろー! 急に配信お休みしてて、本当にごめんねーっ! 告知もなしにいきなり配信始めちゃってびっくりしたよね? ごめんね!』



画面の中の『ましろ』が、申し訳なさそうに両手を合わせ、大げさに首をすくめてみせる。



『でもね、もう今は元気! あっ、一緒にお休みしてる他の2人……めるちゃんとシオンちゃんのことも、みんな心配だよね。でも大丈夫、すぐによくなる!』



『ましろ』はカメラに向かって元気いっぱいにウインクし、それから、少しだけ声を潜めた。



『てかさー! 休んでる間に、色々怖いことがあってーーーー』


『今日はみんなに聞いてほしいこと、沢山あるんだよねっ』



星を散りばめた青い瞳が、画面越しに何万もの視聴者を――いや、この部屋にいる戒たちを、真っ直ぐに見据えて嗤った気がした。



『だから!』



――――今日もいっぱいお話ししよっ?


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