第36章 慟哭
夜も更け、機械の残骸の隙間から伸びた草が、そよ風に揺れていた。一行は月明かりに照らされた人工の地面へと足を踏み入れる。やがてMOTHERの施設の入口が遠目に見え始めた頃、その傍らに、もう一つの巨大な影が浮かび上がった。
かつて泰志たちを苦しめ、施設の入口を縄張りにしていた変異体だった。その巨体は、まるで地面に転がる巨石のように横たわり、微動だにしなかった。奏と真由美が与えた傷からの失血によって、どうやら息絶えたようだった。
念のため、一行はその巨体を少し迂回しながら入口へと近づいていく。月明かりに照らされた変異体の亡骸を横目に、やがて再び施設の扉の前へとたどり着いた。
扉は固く閉ざされていた。相変わらずの朽ちかけた外観を眺めていると、かつてこの扉を開けるために四苦八苦したことが、遠い昔の出来事のように思えた。
しかし、その扉を開けることは、今となっては何の障害にもならなかった。
扉の前に立った泰志は、上部に取り付けられたカメラのような装置を見上げ、口を開いた。
「MOTHER、上川だ。開けてほしい」
その声に応えるように、扉は以前よりも小さな軋みを立てながら、ゆっくりと開いていった。
一行はMOTHERの部屋を目指し、施設内部へと足を進めた。以前は人工の明かりに煌々と照らされていた室内も、今では必要最低限の照明しか点灯しておらず、妙に薄暗かった。
足元に注意しながら進む泰志、竜二、真由美、愛、ナイトに対し、田原だけは懐かしげな表情を浮かべ、迷いのない足取りで通路を進んでいた。
百年近い時を経てもなお、この場所の光景は、田原の記憶に深く刻まれているようだった。
やがて、薄暗い通路の先に円形の広間が現れた。中央の床下にエレベーターが格納されている部屋だった。一行がゆっくりと歩み寄り、足を止めると、低い機械音が響き始めた。
ほどなくして、床下からガラス張りのエレベーターがゆっくりと姿を現した。
誰も何も口にすることなく、静かに乗り込んでいく。エレベーター内部の照明すらも、以前とは比較にならないほど薄暗かった。
やがてエレベーターが下降を始めると、機械の低い作動音だけが、沈黙する一行の間に響いた。
「用心してください」
ナイトは隣に立つ田原に、静かに忠告した。
自分の身を案じるナイトに対し、田原は「ありがとう」とだけ答え、微かに微笑んだ。
しかし、その表情はどこか上の空で、心ここにあらずといった様子にも見えた。
エレベーターがゆっくりと停止すると、扉が静かに開いた。
一行の目の前には、巨大な機械の影が浮かび上がっていた。広間は他の部屋と同様に薄暗く、壁面に並ぶ電子機器のいくつかが、微かな光を明滅させているだけだった。
最初にエレベーターから足を踏み出したのは、田原だった。
彼女は一歩外へ出ると、正面にそびえる巨大な機械をじっと見据えた。眠っているかのように静まり返ったその巨体へ、ゆっくりと歩み寄っていく。
泰志たちも彼女の後を追うようにエレベーターを降りた。全員が降りると、扉はひとりでに閉まり、エレベーターはそのまま床下へと沈んでいった。
機械の目の前まで来た田原は足を止め、その巨体を見上げて口を開いた。
「……ただいま」
彼女がそうつぶやいた瞬間、壁面の機械が音を立て、一斉に明滅し始めた。それまで薄暗かった広間は、色とりどりの光に照らされていく。
そして、巨大な機械の中心部にある、目を思わせる部分に、淡い赤色の光が灯った。
やがて壁面の明滅は収まり、機械の作動音も次第に小さくなっていった。
「絵美子さん……」
淡い赤色の光が田原の姿を照らし、広間にMOTHERの声が響いた。
その声は、どこか懐かしさを帯びているようにも、深い悲しみを含んでいるようにも聞こえた。
MOTHERの眼差しを感じるかのように、田原は自分へと向けられた淡い赤色の光を見つめた。
しばらくの間、二人は何も語らなかった。ただ静かに向き合い、それぞれが胸の内で言葉を探しているかのようだった。
やがて、その静寂を破ったのは田原だった。
「私は……私たちは間違っていた。私はそう思う。あなたはどう思う?」
田原はMOTHERを見上げ、優しく問いかけた。
百年近い歳月を隔てた二人の間に、その言葉が静かに響く。そこには、自らの過ちを認め、もう一度向き合いたいという田原の願いが込められているようだった。
MOTHERを見上げる彼女の瞳には、淡い赤色の光が映り込んでいた。
問いかけを受けたMOTHERは、しばらくの沈黙の後、中心部の光をゆっくりと明滅させ始める。何も答えず、ただ考え込むかのように、一定の間隔で赤い光を放ち続ける。
一行は息をのんで返答を待った。しかし、いくら待ってもMOTHERの声は聞こえてこない。赤い光だけが、同じ間隔で明滅を繰り返していた。
「……どうしたんだ?」
泰志は不安げに周囲を見回し、田原の隣へ歩み寄ろうとした。
しかし、田原は彼の前にそっと手を伸ばし、その動きを制した。
彼女の視線は、なおもMOTHERへと向けられている。その表情には、どこか覚悟を決めたようなものが浮かんでいた。
「彼女は今、自分と……この世界と……全てと戦っているの」
田原の言葉を聞いた泰志は、再びMOTHERへと視線を向けた。なおも明滅を繰り返すその姿を見つめながら、彼は田原の問いかけの重さを感じていた。
二人が長い年月をかけて向き合ってきた問題に、今まさに答えが出されようとしている。そう思うと、泰志は自然とその場に立ち止まり、MOTHERの反応を待った。
やがて、光が明滅する間隔は次第に長くなっていった。先ほどまで広間に響いていた機械の作動音も、徐々に小さくなっていく。機械の奥から生じた微かな熱風が、一行の頬をかすめた。
その時だった。
MOTHERの中心部に灯る光が、淡い赤色から燃え盛るような紅蓮へと変わった。同時に、静まりかけていた機械が再び大きな音を立てて動き始める。
その轟音は、まるで長い眠りから目覚めた火山が噴き上がるかのようだった。
一行の間に動揺が広がった。泰志たちだけでなく、田原までもが異常を感じたように周囲を見回している。
次の瞬間、MOTHERの土台から強烈な紅蓮の光がほとばしった。
一行はあまりの眩しさに、思わず手で顔を覆った。しかし、その指の隙間から、自分たちに向かって一直線に伸びてくる光の縄が見えた。
光の縄は瞬く間に田原の両手足へと巻き付き、その体を強引に宙へと持ち上げた。
突然の拘束に、田原の表情が苦痛でゆがむ。
「おい!」
泰志が顔を覆っていた手を払いのけた時には、田原はすでに宙高く吊り上げられていた。
暴走とも取れるMOTHERの行動に、一行は武器を構えた。
「田原さん!」
愛とナイトは叫びながら田原を見上げる。彼女は苦悶の表情を浮かべたまま、何も話すことができなかった。そして、MOTHERの紅蓮の光が拘束された彼女を照らした。
「あなただけは、私の理解者だと信じていた」
MOTHERの声は弱々しくもどこか怒りのこもったものだった。悲痛な叫びとも取れるその言葉に、田原は反応した。
「…ええ。それは今も変わらない」
苦しみながらも、彼女の言葉には優しさがこもっていた。しかし、その言葉もむなしく、紅蓮の光はその濃さを増していく。それでも、田原は言葉を続けた。
「ただ私は、あなたに『愛する』ということを間違った形で伝えてしまった…。そして、あなたに『皆の母』でいるよう強制してしまった…」
田原は自身へ向けられていた紅蓮の光から目を逸らすようにうつむいた。そこにはどんな海よりも深い悔恨が込められていた。そして、『皆の母』という言葉に反応するかのように、MOTHERの紅蓮の光が一際強く脈打つ。
「私は、『皆の母』にも、『この世界を維持する存在』にも、『愛する人たちを守る存在』にもなれなかった」
彼女のその言葉には、百年近い歳月の中で積み重なった感情が、抑えきれないほどににじんでいた。自身に与えられた役割を何一つ果たせず、守るべき存在を延々と失い続けてきた彼女の抱える想いが、田原へとぶつけられる。
田原は、MOTHERの悲痛な叫びに返す言葉を見つけられなかった。自分や他の科学者たちが彼女に役割を与え、意図していなかったとはいえ、本来望んでいた姿から大きく変えてしまったことは否定できなかった。
互いの想いは、百年近い歳月の中で決して交わることなく、ただひたすらに悪い方向へと向かい続けていた。
「幾度となく『解放者』を導いてきましたが、それも無意味でした。やはり、時の流れに任せるほかないのでしょう」
MOTHERの声には、呆れとも絶望とも取れる響きがあった。
泰志はその言葉を聞き、長い年月の中で、MOTHERもまた考え得る限りの手段を試してきたのだろうと感じた。しかし、その試みが何一つ実を結ばなかったのだとすれば、彼女は今、何を思っているのだろうか。
泰志がそう考えた、その時だった。
MOTHERの土台から、再び紅蓮の光が放たれた。
田原を拘束しているものとは異なる、鋭い一筋の光。その光はナイトの頭上から一直線に降り注ぎ、その体を包み込んだ。光を浴びたナイトは、力を失ったようにうなだれ、その場に膝をついた。一行は突然の出来事に、何が起きたのか理解できずにいた。
次の瞬間、ナイトが勢いよく顔を上げた。彼は槍を構えると、突然泰志へと向かってきた。
泰志はとっさに銃を持ち上げ、迫りくる槍の一撃をかろうじて受け止めた。
ナイトの面が眼前に迫る。その目元には、MOTHERと同じ紅蓮の光が灯っていた。
「上川君!」
愛が叫び、泰志のもとへ駆け寄ろうとした。
しかし、その瞬間、MOTHERの土台からさらに複数の光が伸びた。
光は瞬く間に竜二と真由美の体へと巻き付き、二人を強引に引き寄せた。突然の拘束に、二人の表情が苦痛でゆがむ。
さらに別の光が、離れた位置にいた愛へと迫った。愛はとっさに後退し、かろうじてその光をかわした。光はなおも彼女を追うように伸びたが、やがて動きを止めた。どうやら、MOTHERの本体から伸びる光には、届く距離に限界があるようだった。
泰志はなおも必死にナイトの槍を受け止めていた。しかし、その圧倒的な力を押し返すことは、彼には不可能に近かった。盾代わりに構えた銃身が、鋭い穂先に押し付けられ、徐々に削られていく。
その時、苦悶の表情で抵抗する泰志の耳に、ナイトのつぶやくような声が届いた。
「苦しい」
兜の奥、紅蓮の光に覆われた目元から、一筋の涙が頬を伝った。
しかし、その苦しげな声とは裏腹に、槍を押し込む力は一段と強くなっていく。
泰志には、ナイトがただ光の影響に苦しんでいるだけとは思えなかった。
MOTHERと同じ紅蓮の光を宿し、涙を流すその姿が、抑えきれなくなった彼女自身の苦しみを代弁しているように思えてならなかった。
「助けて」
ナイトの目元から、さらに涙があふれた。それでも槍を押し込む力は弱まらず、泰志が盾にしていた銃身に、鋭い音を立てて亀裂が走った。
泰志は歯を食いしばり、必死にその力に耐えた。
ナイトは、MOTHERの抱える苦しみをその身に受け、そこから逃れようとしているのではないか。泰志には、そう思えた。宙に拘束された田原もまた、涙を流すナイトの姿を見つめていた。
しかし、泰志は槍を受け止めるだけで精いっぱいだった。田原もまた、拘束された体を動かすことができない。二人には、目の前で苦しむナイトを救う術が見つからなかった。
泰志がナイトの攻撃を防ぎきれないと諦めかけた、その時だった。
一発の銃声が広間に響き渡った。
同時に、ナイトが大きく体勢を崩し、後方へと倒れ込んだ。
突然の出来事に、泰志は音のした方へと振り向いた。宙に拘束された田原、竜二、真由美もまた、同じ方向へ視線を向ける。
そこには、拳銃を構えた愛の姿があった。
しかし、彼女の目は、泰志を襲っていたナイトには向けられていなかった。
その視線の先にいたのは、MOTHERだった。
愛は険しい表情のまま、まっすぐにMOTHERを見据えていた。その目に迷いは感じられなかった。
「……あなたは間違ってる」




