第35章 揺動
愛の目は、まっすぐに真由美へと向けられていた。その眼差しには、怒りだけでは説明できない激しい感情が宿っている。拳銃を握る手には、迷いなど微塵も感じられなかった。
「宮本……!」
「来ないで!」
泰志が愛を止めようと駆け寄りかけると、彼女は視線を逸らすことなく強く叫んだ。その声には怒りとともに、奇妙なほどの冷静さがあった。泰志は、彼女が決して衝動だけで行動しているわけではないことを感じ取った。
真由美はその場に立ち尽くしたまま、何も語らない。先ほど流した涙の痕跡を隠すように、赤くなった目元を伏せていた。
「城崎君はどうしたの?」
愛は拳銃を握る手にさらに力を込め、真由美に照準を合わせた。
「分からない。でも、きっと戻ってくることはないと思う」
その瞬間、銃声が響いた。
一発の弾丸が真由美の頬をかすめ、その勢いで黒い髪が小さく舞い上がる。しかし、彼女の表情が変わることはなかった。
「……次は外さない」
愛はなおも真由美をまっすぐに見据え、拳銃を構え続けていた。その声には、引き金を引いたことへの動揺など、微塵も感じられなかった。
「あなたには、記憶が戻っているものだと思ってた」
愛は静かに問いかけた。その口調には、先ほど銃を放ったときと変わらない冷静さがあった。
真由美は以前、MOTHERのもとで自ら記憶の復元を望んだ。その後、彼女が記憶について詳しく語ることはなかったが、あのときの様子に嘘偽りはなかったと泰志は感じていた。
愛はその場には居合わせなかったものの、田原の幽閉場所を目指す道中、泰志から一部始終を聞いていた。そのとき彼女が浮かべた優しい笑みを、泰志は今でもはっきりと覚えている。
命を懸けて追い求めてきた真由美の記憶。それが戻ったことは、愛にとっても喜ばしい出来事だったはずだ。
「戻ってる」
真由美は淡々と答えた。しかし、その表情には、泰志には理解できない苦しみのようなものが浮かんでいた。
「じゃあ、どうして私たちを売るような真似を?」
愛の疑問はもっともだった。真由美が自分たちの命を奪わせなかったことは、記憶が戻っている証拠とも取れる。しかし、それを考慮したとしても、彼らを危険にさらさずに済む選択肢はあったはずだった。
それでも真由美は、革命軍に彼らを引き渡した。その結果、一行は全滅の危機にさらされ、秀もいまだ戻ってきていない。
愛の問いに、真由美はすぐには答えなかった。わずかな沈黙の後、さらに顔を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「苦しさに耐えられなかった。だから、自分の『罪』を少しでも償いたかった。それから命を絶とうと思ってた」
うつむいた彼女の頬を、何かが伝ったように見えた。
「これが……償いなの?」
愛の視線が、一瞬だけ真由美の背後へと向けられた。そこでは革命軍の基地が炎に包まれ、黒煙を噴き上げていた。崩れ落ちる瓦礫の轟音が、今も絶え間なく響いている。愛にとってその光景は、償いなどではなく、新たに積み重ねられた罪にしか映らなかった。
「……私は多くの命を奪った。数えきれないほどに。革命軍の理念に強く賛同して、正義を掲げた……。それが、私の消えることのない罪」
真由美の体が、次第に小さく震え始めた。言葉を口にするたびに呼吸が乱れ、頭の中から次々と言葉が消えていく。それでも彼女は、震える唇を動かし、最後に小さくつぶやいた。
「お母さん……ごめんなさい」
真由美の目から、涙が次々と零れ落ちた。
彼女は、母を亡くしたことも思い出していた。記憶を取り戻してからも、決して口にすることのなかった苦しみ。それを今、ようやく泰志たちの前で吐き出していた。
愛の目は、なおも真由美をまっすぐに見据えていた。しかし、拳銃を構えるその手は、次第に小さく震え始めていた。
愛は、自分がこの世界に来た理由を知らない。父母や兄弟、友人のことも、何一つ覚えていなかった。
けれど、目の前にいる真由美は、自分の知らない誰かを思い、確かに悲しみの涙を流している。
その姿は、何も思い出せないはずの愛の胸に、説明のつかない感情を呼び起こしていた。
「城崎君は、私にはまだやることがあるって言ってた。それが何のことなのかは分からない。でも、彼に連れられて走っているとき、思ったの」
真由美は涙を浮かべた顔をほんの少し上げ、続けた。
「この世界の……私たちの結末を見届けないといけないって……」
涙で真っ赤になった真由美の目には、それまでとは違う強さが宿っていた。震えながらも確かな意思の込められたその言葉に、愛は動揺を隠せなかった。額から流れた汗が、ゆっくりと頬を伝う。
秀が戻ってくる気配は、いまだなかった。それでも、彼の言葉は確かに真由美の中に刻まれていた。
そう感じた瞬間、愛の体から一気に力が抜けた。構えていた拳銃が力なく下がり、彼女はその場に膝をついた。呼吸を乱し、うつむいたその表情には、恐れとも後悔ともつかない感情が浮かんでいた。
張り詰めていた空気が、ようやく緩み始めた。ナイトは小さく息を吐くと、腕の中の田原へと目を向けた。
「この世界の結末を見届ける」こと。それは必ずしも、この終わりのない戦争を終結させ、世界を本来の姿へと戻すことではないのかもしれない。それでも泰志は、真由美が見据えようとする未来へ、自分もまた進み続けなければならないと、改めて決意を固めた。
田原をMOTHERのもとへ連れていく。泰志はゆっくりと顔を上げ、MOTHERの施設がある方角へと振り向いた。
「……行こう」
秀、奏、亮介。そして、これまでに失われてきた者たち。彼らの想いを胸に、泰志は炎と瓦礫に覆われた大地をしっかりと踏みしめていた。
うなだれる愛の目の前に、ゆっくりと手が差し伸べられた。涙を浮かべたまま顔を上げると、そこには微かな微笑みを浮かべる泰志の姿があった。
愛は差し伸べられた手を見つめた。黒ずんだその手は、微かに震えていた。
やがて愛は、ゆっくりとその手を取った。泰志が優しく握り返すと、彼女もまた、その力に支えられるように立ち上がった。
愛は涙を拭い、まっすぐに泰志の目を見据えた。
再び顔を伏せた真由美のもとへ、一人の少年がゆっくりと歩み寄った。彼女が顔を上げると、そこには竜二が立っていた。
二人はこれまで、敵として対峙し、仲間として肩を並べてきた。それでも、こうして互いの目を見つめ、胸の内を確かめ合うことはなかった。竜二は密かに、元の世界でもそうしてこなかったことを後悔していた。
「遠藤、ありがとう。お前の気持ちを話してくれて」
竜二は照れくささから一瞬だけ目を逸らしたものの、すぐに真由美へ視線を戻し、語りかけた。
元の世界では知ることのできなかった、彼女の本当の気持ちと苦しみ。その一端に、泰志と竜二はようやく触れることができたのだ。
真由美は何も答えなかった。ただ、目に浮かぶ涙を不器用ながらも自らぬぐうと、小さくうなずいた。
その様子を見守っていたナイトの腕の中で、田原がゆっくりと目を開いた。
「無理はしないでください」
田原が身を起こそうとするのに気づき、ナイトは優しく声をかけた。彼は彼女を慎重に地面へ下ろすと、その体を支えながらゆっくりと起こした。
田原の顔には疲労の色が残っていた。それでも、真由美たちを見守ろうとする温かさが、その表情には浮かんでいた。
革命軍の基地は壊滅的な被害を受けた。少なくとも、今すぐ彼らが泰志たちの前に立ちはだかることはないように思える。一行は再び、MOTHERの施設を目指して歩き始めた。
うまくいく保証など、どこにもない。自分たちもまた、コアに眠る少年少女たちと同じように、終わりのない深い眠りにつくかもしれない。
しかし、そんな不安さえも、今の彼らの歩みを止める理由にはならなかった。
暮れゆく空には、次第に星々が姿を現し始めていた。無数の小さな光は、歩み続ける彼らを見守るように、静かに輝いていた。




