第34章 陰陽
「上川君が……悪魔?」
愛は、困惑する泰志の顔を見つめながらつぶやいた。その表情には動揺が浮かび、信じてきた彼と木堂の言葉との間で、どう受け止めればよいのか分からずにいるようだった。そんな彼女の視線を受けた泰志もまた、戸惑いを隠せずにいた。
「俺はそんなものなんかじゃ……」
しかし、泰志には木堂の言葉を否定できるだけの情報がなかった。解放軍と革命軍という所属の違いだけでも、この世界に関する知識には圧倒的な差があるように思えた。
「この世界は、俺たちのために作られたものだという。ならば、俺たちがここに存在し続けることは、その目的に沿っていると言える。だが、その居場所から俺たちを追い出そうとする者がいる。それがお前だ」
泰志には、全くと言ってよいほど心当たりがなかった。まして、彼らをこの世界から追い出そうなどと考えたこともない。
しかし、木堂の言葉は、泰志がこれまで疑うことのなかった自分自身の目的に、初めて別の角度から光を当てた。
初めは、真由美と竜二、そして自分の三人さえ元の世界に戻ることができれば、それでよかった。しかし、その思いは時が経つにつれて少しずつ変化していった。戦争を終わらせ、この世界を本来の目的に沿った姿へと取り戻す。そして、元の世界へ帰る。それが今の泰志の目指すものだった。
争いをなくし、誰もが平穏に暮らせるようにする。その先に、元の世界への帰還がある。それの何が間違っているというのか。いくら考えても、泰志には答えが見つからなかった。
それは、「泰志にとって」は極めて当然のことだった。
「いいことを教えてやろう。この世界から別の世界、言い伝えでは元の世界と言うようだが、そこに戻されたとき、俺たちはどうなると思う?」
泰志にとっての現実。それは、竜二がいて、真由美がいて、いつもの学校生活が待っている世界だった。三人で過ごした日々が再び戻ってくる。ただ、それだけのことだった。
しかし、「彼らにとって」は違った。
「そこに戻されたとき、俺たちは絶望に包まれ、生きる希望を失うそうだ」
その言葉に、愛と秀は驚きの表情を見せた。彼らにとって、元の世界は記憶の中にさえ存在しない未知の場所だった。この世界でさえ、嫌というほど悲しみや絶望を味わってきた彼らにとって、その先にさらなる絶望が待ち受けているという話は、容易に受け入れられるものではなかった。
「誰がそんなことを……」
竜二は困惑した表情でうつむいた。彼もまた現実世界の記憶を保持する者として、木堂の言葉を信じることができなかった。しかし、彼も泰志と同じく、自らの意思でこの世界を選んだわけではない。帰るべき場所を覚えている二人には、その記憶すら持たない者たちが抱く不安を、十分に理解することはできなかった。
「だからこいつは、俺たち革命軍にとっても、お前たち解放軍にとっても、生かしちゃおけない『悪の化身』なんだよ」
愛と秀は何も言えなかった。泰志への信頼が揺らいだわけではない。それでも、木堂の語る帰還後の世界が、二人の心に拭いきれない不安を残していた。
「お前たちから聞きたいことはただ一つ。他に解放者はいるのかどうか。ただそれだけだ。お前たちが誰なのかなんて知ったこっちゃない。俺たちはただ、すべての解放者を抹殺する。そして、俺たちの居場所を守る」
木堂の表情には、揺るぎない決意が浮かんでいた。それは、泰志たちが信じてきたものとは異なる、もう一つの正義を掲げる者の顔だった。そして今、泰志と竜二は、その正義の名のもとに裁かれようとしていた。
一方その頃、基地の最深部にある監獄では、囚われていた田原とナイトが、目の前の光景に言葉を失っていた。
二人の牢の前には、真由美がうつむいたまま立っていた。その傍らには、彼女によって命を奪われた革命軍の少年たちが数人倒れている。
真由美は身じろぎ一つせず、ただ沈黙を貫いていた。
「遠藤さん……なぜ」
傷だらけのナイトは驚きを隠せずにいた。それでも、彼女を責めることなく、優しく語りかける。しかし、真由美は何も答えない。何かを伝えようとしているようにも見えたが、その唇が開かれることはなかった。
やがて真由美は、少年から奪った鍵を取り出し、牢の錠を外した。軋む音とともに鉄格子の扉が開き、田原とナイトは戸惑いながら外へと足を踏み出す。
それでもなお、真由美の表情に変化はなかった。
彼女は黙ったまま、牢獄の傍らにあるボイラー設備へと歩み寄っていった。田原とナイトは、遠ざかるその背中をただ見つめることしかできなかった。
「さあ、吐け。お前のような悪魔はほかに何人いる?」
木堂は泰志の胸ぐらをつかみ上げ、互いの顔がぶつかりそうなほどに近づけて問い詰めた。泰志は振り回されまいと、必死に体に力を込める。
その時だった。
基地の下層から、凄まじい爆発音が響き渡った。直後、建物全体が大きく揺れ、指令室の天井から埃が舞い落ちる。突然の衝撃に、周囲の幹部たちも思わず体勢を崩した。
「なんだ!? 襲撃か!?」
木堂は泰志の胸ぐらから手を離し、慌てて周囲を見渡した。幹部たちは互いに顔を見合わせると、状況を確認するために次々と部屋の外へ駆け出していく。
これまでに経験したことのないほどの激しい揺れに、愛は焦りを隠せず、落ち着きなく周囲を見回していた。一方、秀は何かを思いついたようにうつむき、じっと考え込んでいる。
そして、彼は行動を起こした。
密かに隠し持っていた予備のナイフを取り出し、自らを縛るロープを切断する。拘束から解放された秀の動きに気づき、木堂は驚愕の表情で振り向いた。しかし、その時にはすでに秀の蹴りが迫っていた。
強烈な一撃を受けた木堂は、勢いよく後方へ倒れ込んだ。その隙を逃さず、秀は愛、竜二、泰志のもとへ駆け寄り、次々と拘束を解いていく。
「脱出するぞ!」
秀は短く叫ぶと、勢いよく部屋の外へ飛び出した。
廊下にいた革命軍の少年たちは、彼の姿を認めるなり銃を構えた。しかし、爆発による混乱と断続的な揺れの中では、思うように狙いを定められない。秀はその隙を逃さず、素早い身のこなしで彼らの間を駆け抜け、次々と行く手を阻む少年たちを退けていった。
「上川君! こっち!」
先を行く秀と竜二を追いながら、愛はよろめく泰志を振り返って叫んだ。彼女の声に導かれるように、泰志は激しく揺れる建物の中を必死に進んでいく。
一方、基地の最深部では、炎が監獄を包み、天井や壁が崩れ始めていた。その中で真由美だけが、空になった牢の前にうつむいたまま立っていた。少し離れた場所では、田原とナイトが心配そうに彼女を見つめている。
「遠藤さん……!」
田原が彼女を連れ出そうと駆け寄りかけた瞬間、ナイトがその腕をつかんだ。直後、二人と真由美の間に天井の瓦礫が激しく崩れ落ちる。
「彼女は必ず来ます。私たちは先に脱出を!」
ナイトはそう叫ぶと、田原の手を引いて上層へと駆け出した。田原は何度も後ろを振り返る。炎の中でうつむいたまま動かない真由美の姿が、次第に遠ざかっていく。彼女が何を思い、何を望んでいるのか。その姿が見えなくなる最後の瞬間まで、田原には理解することができなかった。
「確か、こっちから来たはず……!」
駆ける竜二と愛に、泰志はついていくのがやっとだった。その背中を押すように、秀が最後尾を走っている。エレベーターの見える角を曲がれば、そこに出口があるはずだった。
出口までは、あとわずか。
竜二、愛、泰志の三人は迷わず角を曲がり、差し込む外の光を目指して駆けていく。
しかし、最後尾を走っていた秀だけは、三人に気づかれぬよう、ふと足を止めた。
そして、何かに引き寄せられるように、ゆっくりとエレベーターへ視線を向けた。
舞い上がる火の粉が、真由美の周囲を漂っていた。あたり一面には瓦礫が散乱し、炎が燃え広がっている。その瞳には炎の光を映した涙が浮かび、やがて頬を伝ってこぼれ落ちた。ただ一人、炎の中で孤独に涙を流す真由美の姿は、次第に崩れ落ちる瓦礫の中へと埋もれようとしていた。
その時だった。
突然、力強い右手が真由美の肩をつかみ、彼女を強引に振り向かせた。
「お前には、まだやるべきことがある」
そこには、瓦礫と炎によって傷を負った秀の姿があった。涙に濡れた真由美の顔を見ても、秀はそれ以上何も言わなかった。表情を変えることもなく、ただまっすぐに彼女を見据えている。その声なき訴えを受け、真由美の瞳に一瞬、力が戻った。
次の瞬間、秀は真由美の腕をつかみ、力強く引き寄せた。突然の動きに彼女の体は大きくバランスを崩す。それでも、その足は確かに秀の後を追い始めていた。
崩れ落ちる瓦礫と燃え広がる炎が、二人を容赦なく襲う。秀の鉢巻きは炎に焦がされ、ブーツの底は熱で溶け始めていた。それでも、真由美の手を引く彼の目は、ただ前だけを見据えている。
真由美もまた、その手を振りほどくことなく、必死に秀の後を追った。
「あの時のお前の『サイン』、見逃さなかったぞ」
それは、秀が真由美を人質に取った時、彼女が見せた仕草のことだった。
真由美が背中に手を回し、秀がそこへ視線を向けた時、彼女は手のひらを広げ、親指を内側に折り込むと、残る四本の指でそれを包み込んだ。それは、助けを求めるハンドサインだった。
冷たい眼差しを向けながら、その背中に隠した手では、秀に助けを求めていたのだ。
しかし、彼女が何から、どのように助けてほしかったのかまでは分からなかった。ただ、炎の中でうつむいたまま立ち尽くす真由美の姿を見た時、秀は彼女の想いの一部を理解できたような気がした。
真由美の頬を伝った涙が、燃え盛る炎の中へと落ちていく。それでも、二人は足を止めなかった。
「そこで……止まれ」
出口を目前にしたその時、崩れ落ちる天井の瓦礫が巻き上げた砂埃の向こうに、一つの人影が現れた。両腰の鞘から引き抜かれたククリ刀が、重々しく空気を切り裂く。
木堂だった。
怒りに満ちた表情で、二人の前に立ちはだかる。
秀と真由美は足を止め、身構えた。木堂は怒りに震えながら、真由美に向かって叫ぶ。
「遠藤! 貴様……許さん!」
木堂が一歩踏み出した瞬間、秀も両腰からナイフを抜き放った。二本の刃が、燃え盛る炎を鈍く映し出した。
舞い上がる火の粉が、三人の周囲を埋め尽くしていく。もはや猶予は残り少なかった。
木堂は鬼の形相で真由美をにらみつけていた。しかし、真由美は涙を浮かべながらも、何かを決意したかのように木堂を見据え、一歩前へと踏み出した。秀はそんな彼女の様子を横目で見つめている。それでも彼女の体は震え、言葉を発することができなかった。
「俺を……俺たちを頼れ。遠藤」
秀は木堂へ視線を戻し、静かに告げた。その言葉を受け、真由美の閉ざされていた口が、ゆっくりと開いた。
「通して……」
真由美のつぶやくような声は、周囲の轟音にかき消され、木堂には届かなかった。しかし、隣にいた秀だけは、その言葉を確かに聞き取っていた。彼の口元が、わずかに緩む。
「貴様ら……殺す!」
木堂は巨体を一気に加速させ、二人へ迫った。真由美の眼前に、ククリ刀の鋭い刃が迫る。しかし、次の瞬間、甲高い金属音が響き渡った。秀のナイフが、その一撃を受け止めていた。
強烈な衝撃に、秀の顔がわずかに歪む。
驚愕する真由美に対し、秀は振り向くことなく口を開いた。
「お前の願い……聞き入れた」
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「だったら死ね!」
「お前じゃない」
怒り狂う木堂に対し、秀はまっすぐに目を向け、受け止めていた刃を力強くはじき返した。
「行け!」
秀はそう叫ぶと、木堂に向かって素早くナイフを振るった。次々と繰り出される攻撃に、木堂はその巨体を揺らしながらも、必死に刃をはじき返していく。秀のナイフが木堂の頬をかすめ、蛍光液が一筋流れ落ちた。
その隙に、真由美は自らの足で出口へ向かって駆け出した。腕を大きく振り、ただひたすらに走る。今の彼女の目には、もはや出口しか映っていないようだった。
その姿を捉えた木堂は、即座に真由美の方へ振り向いた。
「待て!」
木堂は身を翻し、真由美へ迫ろうとする。しかし、その行く手を再び秀のナイフが阻んだ。
「お前は、木ノ本より……強いんだろうな」
秀は木堂を見据え、かすかな笑みを浮かべた。その不敵な表情に挑発された木堂は、怒声を上げながら刃を振るう。
激しくぶつかり合う金属音を背に、真由美は出口へと駆けていった。
煙に包まれた出口から、愛、竜二、そして泰志が外へと駆け出した。体にまとわりついていた煙が、外気にさらされるにつれて少しずつ薄れていく。
愛は肩で息をしながら、隣で咳き込む泰志の顔を確かめた。三人とも、どうにか無事に脱出することができた。
「城崎君……?」
愛は泰志の後方から、煙の立ち込める出口へと目を向けた。今にも彼が煙をかき分け、勢いよく飛び出してきそうだった。
その時、煙の奥から大きな影が駆けてきた。
しかし、それは秀ではなかった。
田原を抱えたナイトだった。
全身に傷を負い、身にまとった装甲の一部が熱で変色していた。それでも足を止めることなく、先に脱出していた三人のもとへ駆け寄ってくる。
「みなさんも無事でしたか」
ナイトの腕の中で、田原は目を閉じたまま反応を示さなかった。熱と煙の影響で、意識を失っているようだった。ナイトは彼女をそっと地面に寝かせると、その顔を心配そうに覗き込んだ。
「城崎君を見なかった?」
愛はナイトに歩み寄り、不安げな声で問いかけた。
「見かけていません。何分、炎と煙がひどく、視界はほぼゼロでしたから……」
ナイトは田原の肩にそっと手を添えながら、愛の方へと振り返った。
ナイトの返答を聞き、愛は再び煙と炎に包まれた基地の出口へ目を向けた。その表情には、次第に不安が募っていく。泰志は膝に手をつき、肩で息をしながら、そんな愛の背中と崩れゆく出口を見つめていた。
その時だった。
炎と煙の中から、一人の影が現れた。衣服はところどころ焦げつき、顔を守るように片腕をかざしている。外へ出たその人物は、ゆっくりと腕を下ろした。
真由美だった。
「遠藤……!」
なおも呼吸を乱しながら、竜二は彼女に向かって叫んだ。真由美は一行のもとへ駆け寄ると、少し距離を置いて立ち止まった。目元がわずかに赤くなっていたが、泰志には煙の影響によるものに思えた。
「遠藤……」
泰志は荒い呼吸のまま、力を込めてゆっくりと立ち上がった。真由美の方へ向き直り、歩み寄ろうとしたその時、すぐ横で銃を構える音がした。
泰志と竜二は驚いて振り向いた。
そこには、険しい表情で真由美に照準を合わせ、拳銃を構える愛の姿があった。
轟音とともに崩れ落ちる基地を背に、真由美は小さくうつむき、何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。




