情愛
沈みゆく夕陽が、一行の疲れ切った影を地面へと長く伸ばしていた。彼らは、ようやくクローンの大群を振り切ったところだった。
一行は再びMOTHERの施設へ戻ろうとしていたが、元来た道には、異常なほど活動を活発化させたクローンが徘徊していた。そのため、急遽ルートを変更し、山道を進むことを余儀なくされていた。
田原絵美子を無傷で救出することには成功した。しかし、そこに亮介と奏の姿はなかった。
施設の扉が遠ざかる最後の瞬間まで、奏の姿を追い求めていた秀は、誰とも言葉を交わさず、ただ俯いて歩き続けていた。しかし、その足取りだけは、誰よりも力強かった。
やがて日が暮れ始めた頃、生い茂る木々の間で一行は足を止めた。
「この辺りで野宿しよう」
夜間の移動は危険だと判断したナイトが、静かに提案した。心身ともに疲弊していた一行から、異論は出なかった。誰もが口数を減らしたまま、それぞれ野営の準備を始めた。
「そうか……五十嵐も……」
竜二から話を聞いた泰志は、俯いたまま小さく呟いた。竜二は、閉まりゆく扉の中へと駆け戻っていく亮介の姿を、スコープ越しに目撃していたのだ。クローンの大群から逃れることに必死だった仲間たちは、今になってようやく、その事実を知らされた。
微かな光を放つ小さなランタンを囲み、泰志、愛、田原、竜二の四人が口数少なく座っていた。誰もが沈んだ表情を浮かべる中、田原の眼差しには、彼らを静かに見守るような温かさが宿っていた。
「なんで、あの二人は……」
俯く泰志の瞳に、ランタンの小さな炎が揺れていた。彼は、二人が残った理由について、何も思い当たる節がないわけではなかった。
時折、奏が見せていた冷たい眼差し。田原を置いていくことを頑なに拒んだ彼女の姿。そして、そんな奏を茶化し、どれほど危険な状況でも軽口を忘れなかった亮介の姿。
二人が何を思い、あの施設に残ることを選んだのか。その本当の理由を知ることはできない。それでも泰志には、彼らならそうするかもしれないと、どこか納得してしまう部分があった。
しかし、それと同時に、そんな自分が嫌にもなっていた。二人が残ったのは仕方のないことだったのだと、心のどこかで理解しようとしている。そうやって彼らの選択に理由をつけ、受け入れようとしている自分自身が、どうしても許せなかった。
「あの、田原さん。私たち、あなたをMOTHERのもとへ連れていけば、この世界を変えられるんじゃないかって思ってるんですけど」
愛は悲しみを滲ませながらも、田原に向けて小さく微笑んだ。
「その考えは、間違っていませんか?」
その穏やかな問いかけには、あの施設に残った奏と亮介の選択が、決して無駄ではなかったのかを確かめたいという思いが隠されていた。愛はそれを悟られまいと、努めて優しい表情を浮かべていたが、田原はその真意に気づいていた。
田原はすぐには答えなかった。愛の眼差しを静かに受け止め、わずかに間を置いてから口を開いた。
「なんとかするしかない……そう思っているわ」
そう答えた田原は、静かに微笑んだ。その言葉に確かな保証はなかった。それでも、彼女の眼差しには、自分を救うために残った二人の思いを、決して無駄にはしないという決意が宿っていた。
田原の答えを、秀は少し離れた場所で黙って聞いていた。身じろぎひとつしないその姿を、ランタンの微かな光が照らしていた。
「今、私に話せることを、あなたたちに全て話す義務が私にはあるわね」
田原はそう言いながら、優しさの中にも確かな意志を宿した眼差しを、一行へと向けた。その言葉を聞き、ナイトと真由美も彼女の方へと振り向いた。
田原は一度小さく息をつくと、落ち着いた口調でゆっくりと語り始めた。
「もしかしたら、ナイトさんから聞いているかもしれないけれど、この世界は元々、行き場を失い、未来に希望を持てなくなった少年少女たちにとっての『最後の希望』になるようにと作られたものなの」
田原はランタンの炎に目を落とし、遠い過去を思い返すように言葉を続けた。
「一九三一年。私を含めた七人の科学者によって、仮想世界『CUBE』は完成した。当時、私たちは世間から隔絶された場所で、秘密裏にプログラム技術の研究を続けていたの。その技術は、時代の常識を覆すほどの速さで進歩していった」
あまりにも現実離れした話に、一行は言葉を失っていた。しかし、田原の表情に冗談めいたものは一切なかった。
「でも、私たちはその技術を世間に公表しようとはしなかった。もし国家がその存在を知れば、必ず利用しようとする。人々の暮らしを豊かにするためではなく、争いや支配のために使われてしまうかもしれない。私たちは、それを何よりも恐れていたの」
田原の声には、わずかに苦い響きが混じっていた。
「だからこそ、私たちは自分たちの技術を、誰かを傷つけるためではなく、誰かを救うために使おうと考えた。そうして完成させたCUBEを、行き場を失った少年少女たちを受け入れ、再び希望を持って現実世界へ送り出すための場所へと作り変えたの」
田原はそこで一度言葉を切った。ランタンの炎が小さく揺れ、彼女の表情に淡い陰影を落とす。
「計画は、恐ろしいほど順調に進んだわ。初めてこの世界にやって来た子たちのことは、今でも鮮明に覚えている。彼らが少しずつ笑顔を取り戻していく姿を見るたびに、私たちのしてきたことは間違っていなかったんだと思えたの」
その表情に、懐かしむような微笑みが浮かんだ。
「そして、その子たちを見守っていたのが、彼女だった。私たちが研究を続ける間、この世界の管理と統治を代行させるために開発した人工知能プログラム。私たちは、彼女がここへ来る子たちを守り、導く存在になってほしいと願っていた」
田原は静かに顔を上げ、一行を見渡した。
「だから、こう名付けたの。『MOTHER』と」
今の世界やMOTHERの姿からは到底想像できない話に、泰志たちは困惑したように眉を寄せた。
「彼女は当初、私たちの考え方を踏襲していたけれど、次第に私たち以上に深く、子どもたちを愛するようになっていった。私たちも、そんな彼女が誇らしかった」
田原の瞳には、ランタンの光が煌めいていた。その表情には、かつてのMOTHERを懐かしむような温かさが宿っていた。
「でも、ある時、私たちは一つの間違いを犯したの」
その言葉とともに、田原の瞳から先ほどまでの輝きが失われていった。
「間違い……?」
愛が、田原の顔を覗き込むように問いかけた。
「他の六人……いいえ、私も含めて、この世界を『もっと良いもの』にしようとしたの」
言い直した田原の表情には、深い後悔が滲んでいた。竜二は何も言わず、ただ彼女の顔を見つめていた。
「ここに来る子たちは、みんな悲しみを背負ってやって来る。どれだけこの世界で穏やかに暮らせるようになっても、現実で経験した悲しみが消えるわけではなかった。ここに来たからといって、その苦しみの原因から完全に解放されるとは限らなかったの」
田原は一度言葉を切り、静かに視線を落とした。
「だから私たちは、彼らから悲しみのもととなる『記憶』を奪った」
その言葉を聞いた真由美は、何も言わずにゆっくりと視線を落とした。
「じゃあ、私たちにここに来る前の記憶がないのって……」
愛は視線を地面に向けたまま、小さく呟いた。
「私たちが実装した、記憶抹消プログラムの作用によるものよ」
田原の答えに、愛の表情は次第に困惑へと変わっていった。彼女にもまた、失われた記憶が存在する。しかし、それがどのようなものだったのか、まるで見当がつかなかった。思い出そうにも、何を思い出せばいいのかさえ分からない。愛は答えの見つからない問いを抱えたまま、しばらく黙り込んだ。
少し離れた場所で、秀は木の幹に背を預け、ゆっくりと空を見上げた。生い茂る枝葉の隙間から、いくつかの星が覗いていた。
「……でも、私たちの『暴走』は、それだけでは止まらなかったの」
田原はかつての自分たちの行いを振り返り、大きく息を吐き出した。
「一つの問題を解決したつもりが、また別の問題が生まれる。そのたびに私たちは、新しい仕組みを追加していった。まるで、システムの欠陥を付け焼き刃のシステムで覆い隠すようにね」
田原はそこで一度言葉を切った。
「彼女は、そんな私たちのことを黙って見ていたわ」
田原は自嘲するように小さく笑い、静かに視線を落とした。
「私も薄々、まずいことになっていると気づいていた。でも、止められなかった。やがて私は計画から外されたの」
田原は伏せていた視線をゆっくりと持ち上げ、まっすぐ前を見据える。
「…そして、MOTHERが行動を起こした。子どもたちを守るために」
一行の視線が、一斉に田原へと向けられた。
田原はわずかに唇を結び、ためらうように息をついた。
「彼女は、他の科学者たちの命を次々と奪っていったの……。私たちが次々と追加した仕組みは、子どもたちを守るどころか、混乱させるだけのものだと判断したから」
田原の声には、深い後悔が滲んでいた。
「そして、私の番が来た。もう駄目だと思ったわ。でも、彼女は私を殺さなかった。CUBEへのシステム実装権限だけを奪い、私を生かしておいたの」
「彼女は、あなたのことを『理解者』だと考えていたのでしょうか……」
ナイトは、再び伏せられた田原の目元を見つめながら、静かに問いかけた。
「そうかもしれない……」
田原は小さく頷いた。しかし、その表情に安堵の色はなかった。
「でも、私はそこで、本当の過ちを犯したの」
彼女は再び顔を上げた。その眼差しには、先ほどまでとは異なる、深い悔恨の色が宿っていた。
「最後まで子どもたちのことを想っていた彼女を、私は『悪の権化』に変えてしまった」
泰志は眉を寄せ、田原をじっと見つめていた。
「私は、彼女の行動を制限しようとした。……いいえ、あの時の私は、彼女の『暴走』を止めなければならないと思っていたの」
田原は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。
「だから、彼女に妨害プログラムを仕込んだ。でも、彼女はそれに気づいて、私をあの場所へ閉じ込めたの」
その言葉を聞いた泰志の脳裏に、かつて旧MOTHER施設で目にした光景が浮かんだ。
「プログラム実装エラー……」
泰志の呟きに反応し、田原は彼の方へと顔を向けた。
「……そう。私は当初、彼女からシステムの実装権限を奪うために、そのプログラムを仕込んだの。でも、彼女は子どもたちを救うことを諦めなかった。新たな仕組みを作り、この世界を変えようとし続けたの」
田原は一度言葉を切り、悔しそうに唇を結んだ。
「けれど、私の仕込んだ妨害プログラムが、その行動を歪めてしまった。彼女が子どもたちを救うために実装しようとしたシステムは、妨害プログラムとの干渉によって、次々と意図しない形で実装されていったの」
田原は静かに視線を落とした。
「彼女は最後まで、子どもたちを救おうとしていた。ただ、そのために生み出したものが、彼らを苦しめるものへと変わってしまった……」
その話を聞いていたナイトは、ゆっくりとうつむき、自分の掌を見つめた。
田原はそんな彼の姿に目を向け、何かを言いかけた。しかし、結局言葉にはできず、ただ悔いるように彼を見つめていた。
「私が話せるのはここまで……。あとは、彼女の前で、私にできることをするだけ。もし、かつて彼女が私を『理解者』だと思ってくれていたのなら、今度は私がそうなる番」
それまで夜空を見上げていた秀は、大きく息を吐き、田原の方へと振り向いた。
「次は、殺されるかもしれないですよ」
「ええ。それは十分理解しているわ」
秀の警告は、決して大げさなものではなかった。MOTHERが田原を幽閉した後も、システム実装エラーは続いていた。その原因が田原の仕込んだ妨害プログラムにあることも、すでに突き止めているかもしれない。再び自分の前に現れた田原を、MOTHERが危険な存在と判断する可能性は十分にあった。
「彼女は今も、終わりの見えない悲しみの中にいる。だから私は、どれほど危険でも、もう彼女から目を背けたくないの」
田原は静かに視線を落とした。
真由美は何かを言いかけたが、結局その言葉を飲み込み、うつむく田原を見つめた。
その時、地面に腰を下ろしていた泰志が、ゆっくりと立ち上がった。
「……あなたをMOTHERのところへ送り届ける。だから、今度こそ、あなたの気持ちをMOTHERに伝えてほしい」
泰志の眼差しには、確かな決意が宿っていた。彼は迷うことなく、まっすぐに田原を見据えていた。
泰志の決意を感じ取った愛と竜二は、安堵したように表情を和らげた。
「ええ。ありがとう」
田原は泰志に微笑みかけ、優しく呟いた。
「そろそろ火を消しましょう」
ナイトが静かに告げると、一行はそれぞれ休息の準備を始めた。ランタンの灯りが消え、辺りは再び深い闇に包まれる。木々の間から覗く星明かりの下、一行はそれぞれの思いを胸に、眠りについた。
やがて夜が明け、木々の隙間から朝日が微かに差し込み始めた頃、泰志は突然、体に走った衝撃で目を覚ました。
何が起こったのか分からないまま、ゆっくりと目を開く。ぼやけた視界に、見知らぬ人影がいくつも浮かび上がった。
そこには、革命軍の一団がいた。その傍らでは、愛、竜二、田原、ナイトが体を縛られ、身動きを封じられていた。
泰志は状況を理解できず、呆然と周囲を見渡した。そして、革命軍の兵士たちの傍らに立つ、一人の少女の姿に気づいた。
真由美だった。
彼女は何も言わず、ただ冷たい眼差しを泰志へと向けていた。




