第30章 孤忠
施設内は、外の惨状からは想像もつかないほどの静寂に包まれていた。固く閉ざされていた扉は、本来、自動で開閉する仕組みだったらしい。老朽化によって機能を失っていたものの、三人が強引に動かしたことで、息を吹き返したかのようにゆっくりと閉まり始めた。
外で戦い続けていた秀と奏は、扉を開けた三人に合流すべく、追ってくるクローンを振り切り、施設内へと駆け込んだ。一方、崖上に残った真由美、竜二、愛の三人は、斜面を登ってくるクローンを一通り倒し終えていた。施設内へ入っていく五人の姿を見届けると、脱出時の援護に備え、周囲に残るクローンを刺激しないよう身を潜めた。
やがて、扉は砂がこすれ合うような鈍い音を立てながら、ゆっくりと閉じていった。その音が途絶えると、外の銃声やクローンたちの騒ぎは遠ざかり、施設内には不気味な静けさだけが残された。
室内は薄暗く、壁面に設置された心もとない明かりだけが、かろうじて通路を照らしていた。泰志は目を凝らしながら奥へと視線を向けるが、その先に何があるのかまでは見通せない。しかし亮介だけは、常に装着している暗視ゴーグルと、ライフルに取り付けられたフラッシュライトによって、周囲の様子を確かめることができていた。
「五十嵐君、先導を頼めるか」
「おう。頼っていいぞ」
ナイトの頼みを快く引き受けた亮介は、周囲を一通り見渡すと、自ら列の先頭へと進み出た。彼のライトが通路の奥を照らし、一行はその光を頼りに歩き始める。
施設の壁面と床は同じ材質で造られているようで、光が当たらなければ、その境目すら判別しにくかった。暗い青色のタイルがライトの光を反射し、時折、泰志たちの目に鋭い光を差し込んでくる。長い間、人の手が入っていないのか、床には薄く砂埃が積もり、壁面のところどころには細かな亀裂が走っていた。
秀と奏は、左右後方に目を光らせながらも、時折、互いに悟られぬよう相手の動きを観察していた。先ほどまで共に戦っていた二人だったが、言葉を交わすことはない。ただ、どちらかが背後を振り返れば、もう一方もわずかに視線を動かしていた。
一行の足音だけが、静まり返った施設内に反響していた。しかし、奥へ進むにつれて、その響きは次第に弱まっていく。泰志は一度足元へ視線を落としたが、床の様子に変わったところは見当たらなかった。やがて、足音はまるで暗闇に吸い込まれるかのように、小さくなっていった。
「何かいるぞ」
先頭を行く亮介が、不意に足を緩めた。進行方向の奥に、かすかな光を放つものを発見したのだ。彼は片手で後続の仲間に合図を送り、一行の視線が正面へと集まる。
暗闇の中に浮かぶ光は、近づくにつれて輪郭のはっきりした四角形を描き始めた。そして、その傍らには、人の形をした影が立っていた。影は微動だにせず、ただ目の前の光を見つめているようだった。
光源まで数十メートルの距離に迫ったところで、一行は足を止めた。亮介がライトをわずかに下げ、泰志たちはその影の動きを注視する。しばらくして、こちらの存在に気づいたのか、影がゆっくりと振り返った。
「あなたたちは……」
白衣を着た女性だった。
その姿を認めた瞬間、泰志は思わず息を呑んだ。こんな場所に人間がいるとは思っていなかったのだ。女性もまた、驚きの表情を浮かべたまま、五人の姿を見つめていた。
しかし、彼女はすぐに何かを確かめるように視線を逸らし、傍らに設置されたモニターへと目を向けた。
「そう……彼女が導いた子が、ついに……」
彼女はモニターからゆっくりと視線を外し、かすかに微笑みながらつぶやいた。
「あなたが田原絵美子さん……ですか?」
ナイトは長い足をゆっくりと踏み出しながら問いかけた。その異様な姿を目にしても、女性は慌てることも、恐れることもなかった。
「ええ。……あなたは最初期のKnightさんね」
彼女はすべてを知っているかのように、落ち着いた口調で答えた。その眼差しには、泰志たちの知らない何かを見通しているような深みがあった。穏やかな表情の奥には、どこか拭いきれない悲しみも感じられる。
ふと、泰志は彼女の足元に目を向けた。白衣の裾から覗く足首には、ケーブルにも似た奇妙な足枷が取り付けられていた。そのケーブルは床を這い、薄暗い室内の奥へと伸びている。
「あなたからこの世界と……MOTHERについて話を聞きたくて来ました」
泰志は意を決した表情で一歩前へ踏み出した。田原は彼の顔をじっと見つめると、何かを察したかのように静かにうなずいた。
「あなたが彼女の言っていた上川泰志君ね」
その優しく包み込むような口調は、心なしかMOTHERのそれに似ているような気がした。泰志は一瞬、かつて施設で耳にした彼女の声を思い出していた。
そのとき、周囲を警戒しながら見回していた亮介が、不意に体をびくつかせた。
「お、おい」
亮介の声に、一行は一斉に振り返った。彼のライフルに取り付けられたライトが、薄暗い室内の一角を照らしている。
光の中に、巨大な脚が浮かび上がっていた。
その脚を覆う分厚い装甲。そして、暗闇の中へと続く異様な巨体。泰志たちには、その姿に見覚えがあった。
MOTHERの施設入り口で遭遇したものと同じ、巨大変異体だった。
一行は瞬時に戦闘態勢を取った。泰志と亮介が銃口を向け、秀と奏もそれぞれの武器を構える。ナイトは田原の前に立ちながら、変異体の動きを注視した。
しかし、変異体は動かなかった。
まるで何かの命令を待っているかのように、暗闇の中で不気味に佇んでいる。
亮介がライトを足元へと向けると、その足首には田原と同じような足枷が取り付けられていた。そこから伸びる太いケーブルが、床の上を這っている。
「あなたたちの力になりたいけど、ここを離れることはできないの。見てのとおり、彼らに追われてしまう」
田原は自身の足枷へと視線を落とし、それから暗闇に佇む変異体を見つめた。
亮介が周囲へとライトを向けると、さらに二つの巨大な影が浮かび上がった。
一体だけではなかったのだ。
田原を中心として、左右と奥の三方に、それぞれ一体ずつ変異体が配置されていた。入口側だけが開けているものの、三体の巨体は彼女を取り囲むように佇んでいる。
そして、田原の足首から伸びるケーブルは、そのうちの一体に繋がっていた。さらに、その変異体から別のケーブルが伸び、残る二体とも接続されている。
三体は互いに繋がれたまま、身じろぎ一つせずに立っていた。
「このケーブルが断たれれば、彼らが動き出すの」
田原は、悲しみと諦めの入り混じった表情で変異体たちを見つめていた。その眼差しには、長い時間をこの場所で過ごしてきた者だけが持つような、深い諦めが宿っていた。
「動かないのなら、動く前に致命傷を与えればいい」
奏は握っていた刀をゆっくりと持ち上げ、変異体の方へと歩き出した。田原はそんな彼女の背中を見つめながら、静かに口を開いた。
「外からの衝撃にも反応する仕組みだから、それはやめた方がいいと思う」
その言葉に、奏は足を止めた。しばらく変異体を見据えていたが、やがて刀を下ろし、わずかにうつむいた。
少なくとも、彼らに思いつく選択肢は二つだった。この場で田原から知っていることをすべて聞き出し、彼女を残したままMOTHERのもとへ戻るか。それとも、田原の足枷を破壊し、動き出す変異体たちを退けるか。
危険を最小限に抑えるなら、答えは明らかだった。
「……知っていることを全部話してもらえますか?」
秀は落ち着いた口調で田原に語りかけた。その表情には、どこか申し訳なさがにじんでいる。田原は彼の言葉が意味するところを察したのか、静かに視線を落とした。そして、わずかに口元を緩めると、小さくうなずいた。
「……ちょっと待て」
そのとき、泰志が二人の間に割って入るように手を伸ばした。一行も田原も、彼の方へと振り向く。
「その……外で竜二と遠藤と宮本が待機してるだろ? クローンの大軍も残ってるし、早く戻る方がいいんじゃないか?」
泰志は言葉を探すように視線を泳がせた。伸ばした手は行き場を失い、ゆっくりと下がっていく。彼の表情には焦りと戸惑いが浮かび、その言葉の裏にある思いを隠しきれてはいなかった。
田原を、この場所に残していきたくない。
しかし、その思いを正面から口にすることができず、泰志はただ秀の返答を待っていた。
「確かに、あいつらが無事にやり過ごせているかは気になる。だが、だからといって、ここにいる六人を危険に晒すわけにはいかない。特に、俺たちには重要人物が二人もいるんだ」
秀は泰志の気持ちを察していた。それでも、彼はその思いに応えることができなかった。
泰志と田原。この世界の真実に迫り、戦争を終わらせるために欠かせない二人を、ここで失うわけにはいかない。外で待つ三人の安否も気がかりではあったが、だからといって、目の前にいる仲間たちまで危険に晒すことは避けたかった。
それは、秀なりに考え抜いた、極めて合理的な判断だった。
泰志には返せる言葉がなかった。初めから、自分の意見が受け入れられるとは思っていなかった。それでも、目の前で穏やかに微笑む田原を置き去りにすることが、本当にこの世界を救うことに繋がるのだろうか。その疑問だけが、彼を突き動かしていた。
秀はうつむく泰志を見つめると、わずかに視線を落とした。彼の気持ちが分からないわけではない。しかし、だからといって自分の判断を曲げることもできなかった。
そのとき、変異体の方を向いていた奏が、ゆっくりと振り返った。
「あなたがそんな弱腰だったなんてね」
奏は秀をまっすぐに見据えた。その眼差しには怒りだけでなく、どこか失望にも似た感情が浮かんでいた。思いがけない彼女の言葉に、一行は驚きを隠せなかった。
「その方がより確実だろう。強い弱いの話じゃない」
秀は落ち着いた口調で答えた。しかし、奏はその言葉に納得する様子を見せなかった。
「いいえ。救えるかもしれない存在を置いて、自分たちだけ世界を救った気になってる。とんだ『偽善者』よ」
その言葉には、先ほどまで抑えられていた感情が滲んでいた。秀はわずかに眉をひそめたものの、奏から目を逸らすことはなかった。
「お前もあの変異体と戦っただろう。だったら、どれほど危険か分かっているはずだ」
「ええ。だからこそ私はここにいる」
奏は一歩も引かなかった。二人とも声を荒らげることはなかったが、言葉を交わすたびに、その口調は次第に強まっていく。秀が冷静さを保とうとする一方で、奏の言葉には、次第に隠しきれない感情が表れ始めていた。
「おぉい、夫婦喧嘩はよせよ。……って、俺の知らねえ間に勝手に夫婦になってんじゃねえっつの!」
亮介が軽口を挟んだ。しかし、その言葉は二人には届かなかった。
秀と奏は互いに睨み合ったまま、決して目を逸らそうとはしない。いつもなら何かしらの反応が返ってくるはずの亮介の冗談も、今は二人の間に漂う張り詰めた空気を和らげることはできなかった。
しばらく沈黙が続いた後、奏はそれまでの険しい口調を収め、つぶやくように言った。
「置いていくなら行けばいい。私は残る」
そう言うと、奏は再び変異体の方へと振り返った。その背中には、先ほどまでの怒りとは異なる、静かな決意が感じられた。
「どうしてそこまでしようとする?」
秀は彼女の背中を見つめながら問いかけた。
「『あいつ』ならそうすると思っただけ。上川君のように」
奏は一度言葉を切った。目の前に佇む変異体を見つめながら、胸の内にある思いを確かめるように、ゆっくりと続ける。
「ここで田原さんを置いていけば、たとえこの世界が救われても……私の中の何かは、ずっとここに取り残されたままになる。コアで眠り続けていた人たちのように。そんな気がするの」
奏は手にした刀へと視線を落とした。その刀が、これまで彼女と共にどれほどの戦いをくぐり抜けてきたのか、泰志には知る由もなかった。ただ、その背中を見つめていると、彼女がこの世界で背負ってきたものの重さが、わずかながら伝わってくるような気がした。
奏には、元の世界の記憶がない。帰るべき場所がどこにあるのかも、そこで誰が待っているのかも分からない。だからといって、戦いと喪失を繰り返してきたこの世界に、留まりたいと願っているわけでもなかった。
失ったものへの思いも、振り払うことのできない後悔も、彼女をこの世界に縛りつけている。それはまるで、目には見えない呪いのようだった。
帰るべき場所も、留まりたい場所も見つけられない。泰志の目に映る奏の姿は、まるで、この世界を彷徨う亡霊のようにも見えた。
それでも今、彼女は自らの意思で、ここに残ることを選ぼうとしていた。
秀は黙ったまま、奏の背中を見つめていた。彼もまた、この世界で多くのものを失ってきた。それでも、失ったものに背を向けることなく、前へ進もうとしていた。奏はそんな彼の姿に何かを感じたのか、決して振り向こうとはしなかった。
やがて、秀は田原へと視線を向けた。彼女は何も言わず、ただ静かに彼の目を見つめている。泰志、亮介、ナイトも、秀がどのような判断を下すのか、固唾を呑んで見守っていた。
秀は一度目を閉じ、短く息を吐いた。そして、再び奏へと向き直った。
「仲間を置いていくわけにはいかない」
そう言うと、秀は田原の足元にしゃがみ込み、取り付けられた足枷の構造を調べ始めた。
「入口の開閉装置が正常に動作するか調べてくれ」
秀は足枷を確かめながら、ナイトと亮介に向かって指示を出した。二人は思いがけない彼の決断に一瞬驚いたものの、すぐに入口の方へと駆けていった。
「城崎……」
泰志は足枷を調べる秀を見つめながら、その名を呼んだ。しかし秀は振り向くことなく、調査を続けていた。
「田原さん、このケーブルを断線させた場合、あいつらが起動するまでに、どれくらいの時間がかかるか分かりますか?」
「おそらく、四、五秒ほどだと思う」
二人のやり取りを聞いた奏は、ゆっくりと振り返り、秀の横顔を見つめた。その眼差しには、先ほどまでの険しさはなかった。
秀は今も足枷の構造を確かめている。その横顔には、もはや迷いは見られなかった。
「田原さん、少し聞きたいんですけど、あの変異体って、暗い場所でも周りが見えるんですか?」
泰志は唐突に質問を投げかけた。田原は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに落ち着いた口調で答えた。
「おそらく、人間とそれほど変わらないと思うわ。ナイトさんも基本的には似た体のつくりをしているはずだから、彼に聞いてみるのもいいんじゃないかしら」
その答えを聞いた瞬間、泰志の表情が変わった。何かに気づいたように入口の方へと目を向けると、すぐさま駆け出していった。
秀は足枷を調べる手を止め、遠ざかっていく泰志の背中を不思議そうに見つめた。何か考えが浮かんだのだろうか。しかし、泰志が何をしようとしているのかまでは分からなかった。
「私は何をすればいい?」
奏がゆっくりと秀の傍らへ歩み寄った。その表情には、先ほどまで彼に向けていた険しさはなかった。
「全員を生きて帰らせるために戦う。そして、すべてが解決したら、俺と決着をつける」
秀は淡々と告げると、奏へと目を向けた。彼女もまた、その視線を正面から受け止める。
二人の間にあった確執が、消えたわけではない。それでも今は、互いに背を向けることなく、同じ目的のために戦おうとしていた。
やがて二人は視線を外し、薄暗い通路の先にある扉へと目を向けた。




