実像
「竜二……?」
泰志はなおも体を小さく震わせながら、竜二に目を向けた。
竜二はその視線に応えるように、ゆっくりと一行の前へ歩み寄ってきた。その瞳には、泰志と同じような動揺がかすかに浮かんでいた。しかし、それを押し殺すように、まっすぐ前を見据えていた。
「やす……」
その呼び方をしてくれる存在など、もうこの世界にはいないと思っていた。
しかし今、目の前には竜二がいる。
互いにどれほど険しい道を歩んできたのか、泰志にはまだ分からない。それでも、懐かしい呼び声は、失いかけていた何かを彼の胸に呼び起こさせる。
解放者として何も果たせなかった。そう思い込んでいた泰志にとって、竜二との再会は、過去を取り戻そうとする意志を再び湧き立たせるものだった。
「扉の制御方法を切り替えたのは、あなただったんですね」
ナイトは竜二を見つめながら、冷静な口調で問いかけた。
「ああ。やすたちが扉から離れた後、俺も中に入ったんだ。そのとき制御装置が目に入ってね。扉が閉まらないように、少し操作させてもらった」
竜二の口ぶりには、すでにこの場所の事情を知っているかのような落ち着きがあった。それもそのはず、彼は泰志たちよりも先にMOTHERと接触していたのだ。
「ですが、あなたが入る前から扉は開いていたはずです。では、最初に扉を開けたのは……?」
「あなたが解放者の名前を口にしたからです」
ナイトの疑問に、MOTHERは淡々と答えた。
ナイトと泰志が扉の前で四苦八苦していたとき、ナイトが何気なく口にした「上川君」という名前。それこそが、MOTHERが扉を開くきっかけになっていたのだった。
「意外とセキュリティ甘いのな」
亮介がつぶやくように軽口を挟む。
「それほどまでに、解放者の到着を待ちわびていたのです。さて、古谷竜二。あなたは解放者としての役割を果たしてくれたのですか?」
MOTHERは改まった口調で、先ほど泰志に投げかけたものと同じ質問を竜二に向けた。
巨大な機械の中心から放たれる光が、竜二の姿を照らし出す。
竜二は泰志と目を合わせると、小さくうなずいた。その眼差しに、もはや迷いは感じられなかった。
「MOTHER、お願いだ。俺たち三人をこの世界から解放してほしい」
竜二の声は、巨大な機械が鎮座する地下空間に、はっきりと響き渡った。
一行はその言葉に驚き、一斉に竜二へと振り返る。
「竜二……」
泰志は、決意に満ちた表情で機械と向き合う幼馴染の横顔を、ただ呆然と眺めていた。
MOTHERは何も答えない。
重苦しい沈黙が地下空間を満たす。
やがて、機械の中心から放たれていた淡い赤色の光が、煮えたぎる溶岩を思わせる深紅へと変わった。
続いて、巨大な機械の内部から重々しい駆動音が響き渡る。
一行は突然の異変に警戒を強め、周囲を見回した。
「……あなたたちには失望しました」
その声には、先ほどまで感じられた穏やかさの欠片も残っていなかった。
「これではしようがないですね。再び『別の者』たちにその任を担っていただきましょう」
MOTHERは、まるで何度も同じ結末を迎えてきたかのように、淡々と告げた。
「あなたには俺たちを解放することができるんじゃないのか!? この戦争は、俺たちだけじゃ止められない!」
竜二は必死の形相で、MOTHERに向かって叫んだ。
「だからせめて……まだ命が残っている今、俺たちを元の世界に戻してくれ!」
泰志と真由美も、竜二の言葉に引き寄せられるようにMOTHERを見つめた。
「あなたには二つの間違いがあります」
MOTHERは淡々と告げた。
「一つ目は、今の私には、あなたたちを任意に元の世界へ送り返す機能がないということ。そして二つ目……」
竜二はその言葉を聞いてもなお、何かを訴えるような眼差しをMOTHERに向けていた。
「この忌まわしき戦争という負の連鎖は、何が何でも終わらせなければならないのです。たとえあなたたちが諦めようとも、それだけは決して変わりません」
その声には、先ほどまでの冷淡さとは異なる、揺るぎない決意がにじんでいるように思えた。
竜二はMOTHERの言葉に圧倒されたように、力なく視線を落とした。
竜二の願いは届かなかった。それでも、その問いかけによって、泰志の中で一つの迷いが消えていた。
「……竜二、ありがとう。……これでやるべきことがはっきりした」
泰志は竜二の隣へ歩み寄ると、その背中にそっと手を添えた。
そして、彼よりも一歩前へ踏み出し、赤い光を放つ巨大な機械に向き直った。
真由美たちも、突然前へ出た泰志に視線を向けた。
「俺たちにできることをする。だけど、それにはMOTHER、あなたの協力が必要なんだ」
泰志はまっすぐに機械を見据え、言葉を続けた。
「あなたを作った科学者……田原絵美子という人物と話がしたい。その人のいる場所まで、無事にたどり着く方法を教えてほしい」
それは、この施設へやって来た当初から、泰志が抱いていた目的だった。
竜二は予想外の言葉に眉をひそめ、泰志へ疑問の視線を向けた。
泰志はそう告げると、背後に立つ竜二へ振り返った。
「竜二、俺たちと一緒に戦ってくれ」
その声は、かつてこの世界に迷い込んだばかりの頃とは違い、迷いなく響いた。
竜二は困惑したように泰志を見つめ、言葉に詰まった。
そのとき、機械の中心から放たれていた深紅の光が、わずかに色を和らげた。
「私にとって、あの人がどういう存在なのかを分かって言っているのですか?」
MOTHERはゆっくりと、落ち着いた口調で泰志に問いかけた。
その声には、これまでとは異なる、どこか複雑な響きが混じっていた。
誰も答えられなかった。
田原絵美子がMOTHERの開発者であることは知っている。しかし、その問いかけには、それだけでは済まされない何かが含まれているように思えた。
誰も答えられないまま、MOTHERの放つ淡い光が静かに明滅した。
「あの人をあの場所に幽閉したのは私です」
「どうして……」
ナイトが思わず声を漏らした。
「私のシステムに生じた数々の不具合。その原因を作り出したのが、彼女だからです」
「そんな……」
奏は小さくつぶやき、力なく肩を落とした。
世界を救う手掛かりになるはずの人物が、世界を管理するMOTHERにとっては、不具合を引き起こした張本人だという。
その事実をすぐに受け入れられる者など、この場にはいなかった。
MOTHERによって生み出されたナイトでさえ、信じられないといった様子で呆然と立ち尽くしていた。
「……それでも、その可能性に賭けるしか、俺たちに手はない」
泰志は拳を握りしめ、くじけそうになる心を奮い立たせた。
「上川泰志。あなたの決意は伝わります。しかし、その決意が本当に揺るぎないものなのか、今の私には判断できません」
MOTHERは淡々とした口調で続けた。
「そこで、あなたに一つ提案をします。私には、システムを通じて特定の人物の失われた記憶を復元する機能があります」
そう告げると、MOTHERは放っていた淡い光を真由美へと向けた。
「あなたの決意が本物であるならば、遠藤真由美の失われた記憶を復元します。どうしますか?」
淡い光に照らされた真由美は、思わず目を見開いた。
失われた記憶を、取り戻せる。
しかし、それが彼女にとって救いになるとは限らない。
真由美自身がそれを望んでいるのかどうかは、彼女にしか分からなかった。
泰志は握りしめた拳に、さらに力を込めた。
その決断は、自分の命を懸けることよりも、はるかに重く感じられた。
泰志は真由美へ視線を向けた。
彼女は何も言わず、ただ泰志を見つめていた。
今回ばかりは、何か答えてほしかった。賛成でも反対でも構わない。彼女自身の気持ちを、ほんの少しでも聞かせてほしかった。
しかし、その願いもむなしく、真由美は沈黙を貫いていた。
真由美の記憶を取り戻す。
それは、彼女が忘れていた母親の死と、その悲しみを再び思い出させることでもあった。
かつてナイトが語っていた、この世界の本来の役割。
『行き場を失った者たちのための場所』
そして、MOTHERが口にした、この世界へ『望んで』やって来る者たちの存在。
それらの言葉が、泰志の中で一つにつながっていく。
真由美は、母親を失った悲しみから逃れるために、自らこの世界へ来ることを望んだのではないか。
もしそうだとすれば、彼女の記憶を取り戻すことは、かつて彼女が逃れようとした苦しみを、再び背負わせることになる。
泰志の胸の内で、巨大な天秤が揺れていた。
真由美を守るために、この可能性を手放すのか。
それとも、彼女の悲しみを呼び起こしてでも、先へ進むのか。
泰志はうつむいたまま、握りしめた拳を震わせる。
今の彼には、どうしても答えを出すことができなかった。
真由美の記憶を天秤にかけた、MOTHERの問い。
ナイトも、奏も、亮介も、竜二も、息をのんで泰志を見つめる。
そして真由美もまた、何も言わずに彼の答えを待っている。
その視線を一身に受ける泰志の頬を、一筋の涙が伝った。
機械から放たれる光が、明滅しながら徐々に弱まっていく。
そのとき、泰志がうつむいたまま、震える唇を開いた。
「遠藤、助けてくれ……」
かすれた声が、静まり返った空間に小さく響いた。
誰も言葉をかけられなかった。
竜二は唇を噛み、奏はそっと視線を落とした。亮介も俯き、ナイトは何かを言いかけたまま口を閉ざした。
泰志を照らしていた光は、今やほとんど失われていた。
その瞬間、真由美は強く拳を握りしめ、MOTHERの方へと振り向いた。
「私の記憶を戻してほしい」
その瞳には、これまで泰志が見たことのない、確かな意志が宿っていた。
機械から放たれる光が、これまでになく激しく明滅した。
その不安定な輝きに照らされながらも、真由美はまっすぐにMOTHERを見据えていた。
泰志は、そんな彼女を驚きの眼差しで見つめた。
「それが何を意味するか、理解しているのですか?」
MOTHERの声は淡々としていた。しかし、その声とは裏腹に、機械の光は落ち着く気配を見せなかった。
「怖い……。それでも、前に進めば、私も変われる気がする」
真由美は一瞬うつむいたものの、その瞳から強い意志が失われることはなかった。
「遠藤……」
泰志は、彼女の覚悟を確かめるように名前を呼んだ。
その声に応えるように、真由美は振り返り、かすかに微笑んだ。
泰志は、この世界に来て初めて、真由美が前へ進むための力になれたような気がした。
泰志もまた、涙で赤くなった目を上げ、真由美と同じようにMOTHERをまっすぐ見据えた。
「遠藤の記憶を戻し、田原絵美子を救い出す方法を教えてくれ」
激しく明滅する光を背に、泰志と真由美の足元から伸びた二つの影が、床の上に並んでいた。
「あなたがそれを望むなら」
MOTHERがそう告げると、激しく明滅していた光が一点に収束し、一筋の光となって真由美へ伸び始めた。
眩しいほどの輝きが近づくたびに、真由美の胸には恐怖が込み上げてきた。
それでも彼女は逃げなかった。
小さく震える体を必死に抑えながら、ゆっくりと目を閉じた。
そして、光はついに真由美の体へと触れた。
その瞬間、真由美の頭の中に、無数の記憶と感情が押し寄せた。
母親の死に絶望し、現実を捨て去りたいと願ったこと。
この世界で戦いの中に身を置き、多くの命を奪ってきたこと。
得体の知れない憎悪に支配され、泰志と竜二に向けて引き金を引いたこと。
自分を案じてくれていた長瀬を撃ったこと……。
忘れていた悲しみと、忘れることのできない過ち。そのすべてが、今になって真由美へと押し寄せていた。
真由美の膝から、ふっと力が抜けた。
全身が小刻みに震え、頬には次々と涙が伝っていく。
そのまま崩れ落ちそうになった彼女を、すぐ隣にいた泰志がとっさに支えた。
泰志は右側から彼女の腕を支えたが、真由美の体は反対側へと大きく傾いた。
どれだけ力を込めても、彼女の体を支えきれない。
その瞬間、真由美の左腕を誰かがしっかりとつかんだ。
「俺にはこれくらいしかできないけど……」
竜二だった。
彼は真由美の左腕を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
泰志もまた、彼女の体を支え直す。
二人に両側から支えられ、真由美は震える足で再び立ち上がった。
光に照らされた三人の影が、床の上に並んだ。
それはまるで、互いを支え合う三本の柱のようだった。
ナイトと亮介は、支え合う三人の姿を黙って見守る。
一方、奏だけは、泰志と竜二に支えられて立ち上がった真由美の背中から目を離せずにいた。
真由美の頬を伝う涙が、MOTHERの光を受けてきらめいた。
その輝きの中で、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「あなたの想いは伝わりました」
MOTHERの声には、かすかな驚きが混じっていた。
「ですが、私があなたたちを直接手助けすることはできません」
しかし、続く言葉にはいつもの冷静さが戻っていた。
「なんだよ、それ」
亮介は納得がいかないといった様子で、MOTHERの光を見上げた。
「ですから、あなた方の助けになるかもしれない場所へと案内します。そこから先は、あなたたち自身の選択に委ねます」
そのとき、一行の背後で低い駆動音が響いた。
床の一部がゆっくりとせり上がり、そこから古びたエレベーターが姿を現した。
全面をガラスで覆われたその構造は、彼らがここへ降りてきたものとは明らかに異なっていた。
「あなた方を、『コア』へとお連れしましょう」
その言葉と同時に、エレベーターの扉が軋む音を立てて開いた。
MOTHERはそれ以上何も語らず、機械から放たれる光も静かに弱まっていった。
真由美はまだ涙を流していたが、その足は震えながらもしっかりと地面を踏みしめていた。泰志と竜二はその様子を確かめると、そっと彼女の腕を離した。
二人はなおも心配そうに真由美を見つめていたが、彼女は涙を拭うと、静かに口を開いた。
「……行きましょう」
そう告げると、真由美は振り返り、エレベーターへ向かって歩き出した。奏は、涙で赤くなった目を伏せることなく歩いていく彼女の背中を、黙って見つめていた。
やがて泰志と竜二は互いに顔を見合わせ、真由美の後を追うように歩き出した。
「『コア』ってなんなんだ?」
「ワタシにも分からない。確かめる他ない」
亮介の問いに答えると、ナイトもエレベーターへと向かった。
亮介は鼻から大きく息を吐き、立ち尽くす奏に目を向けた。奏はその視線に気づいたのか、何も言わずにエレベーターへと歩き出した。
「閉じ込められなきゃいいけど」
亮介はそうつぶやき、最後にエレベーターへ乗り込んだ。
軋む音とともに扉が閉まり、エレベーターは地中へ吸い込まれるように、ゆっくりと下降を始めた。




