第12章 逝路
二人の歩む道を照らしていた光は沈み、吹き抜く風に揺られた草が道標のように二人の進路方向へなびく。今夜は月が明るい。主戦場から大きく迂回して進むその道は、二人からこの世界の持つ悲しみをほんのひと時忘れさせる。
以前とは違い、今は泰志が先頭を歩いていた。宛はない。ただひたすらに戦いを避けるように進む。
数十キロは進んだだろうか。さすがに二人は疲れを見せていた。
「今日はこのくらいにしとこうよ」
愛は泰志ほど疲れを見せてはいなかったが、彼は止めなければ歩み続けるだろうと考え野宿の提案をする。泰志は力無くああと答えると、急に力を失ったかのように付近の岩場に座り込んだ。
「たぶんここはどっちの陣営側でもない、未開拓のエリアだと思う」
彼らが歩んできた道の形に比べると、そこは確かに人の手や物が加えられた形跡がない。しかしどこか不自然にも見えた。あまりにも人の形跡がなさすぎる。恐らく何年も続いてきたであろうこの世界の戦争の歴史の中で、迂回路とはいえ用いられることがなかったということがあり得るだろうか。心の片隅でそう感じながらも、二人は疲れからそれ以上考えることをやめた。
正直なところ、泰志は足を休めることができて安堵していた。自ら言い出した上にここまで同行してくれた愛の存在もあるために、自分の意志の弱さを露呈してしまうのではないかと不安視したからだ。彼が愛の軽口に対し強く言い返せない理由が、彼女の途切れることのないこうした気遣いにあるのかもしれない。
徐々に呼吸を整えていた泰志の耳に、微かに水の流れる音が聞こえてきた。この混沌とした世界に似つかわしくないほどに澄みつつも深みのある音。飲食という概念が存在しないにもかかわらず、彼にとっては遠い昔に味わった喉の渇きを潤したいという欲望を呼び起こすほどのものだった。
その音に引き寄せられるかのように重い体を持ち上げた泰志は、ふらふらと音のする方へ歩き出した。愛はそれに気が付きながらも野宿の準備を進めていた。
それはほんの数メートルほどしか離れてはいなかった。月明かりに照らされたゆっくりと美しく流れる水面がその光を反射して宝石のように輝く。彼は意識を奪われたかのようにそれをしばらくじっと見つめていた。こんな世界でも何かを美しいと感じることができるとは思いもしなかった。
しかし流れる水の底に目をやった彼はふと我に返る。思ったよりも水深の深い川底に、何やら青濃いものが沈んでいるように見えた。じっと見つめるとどうやらそれは一つや二つではない。不気味に思いつつもかろうじて好奇心の勝った彼はさらに近くで見ようと水面に顔を近付ける。
「やめたほうがいいよ」
優しくも諭すような愛のその声に、泰志は一瞬バランスを崩しそうになる。彼女に視線を向けつつも、すぐにそれは再び水中に向けられた。
「底に何か見えたからさ」
彼はどこか言い訳がましいような口調で水中に目を向けたままつぶやくように言った。
「たくさんいるでしょ?」
彼はそれがいったい何なのか見当もつかなかったが、その言葉を聞いた瞬間に好奇心を得体のしれない恐怖が上回った。何かの生き物のようだった。
泰志はなおもそこを覗き込みつつも後ろへ退いた。先程までは美しく心落ち着かせるものを見ていたはずが、今となっては薄暗く得体のしれないものを見ていた。
「あれ何なんだ?」
好奇心と恐怖の入り混じった声で泰志は愛に問いかけた。彼女は水辺に近付くことなく少し離れた場所に立ちながら口を開いた。
「私達の間では"クローン"って呼んでる」
彼女の口にした呼び名のとおり、それは彼の目にしている水底に同じ形で無数に存在する。しかし相も変わらずそのはっきりとした正体については何も分かってはいなかったが、彼女はさらに続けて口を開く。
「解放軍と革命軍に次ぐ、"もう一つの派閥"…とでもいうのかな。そんな意思を持ってるのかどうかは怪しいけど」
泰志は重い足に力を込め立ち上がるとゆっくりと愛の近くまで後ずさりをした。
その様子を見ていた愛は彼を落ち着かせるように口を開く。
「大丈夫。日が沈んでる間は水の底から動くことはないはずだから」
泰志はそれを聞いて一瞬安堵するも、その語尾を理解した直後その気持ちは再び不安にかられた。それは、彼女自身にもクローンについて分からないことがまだあるということを表しており、今の泰志にとっては到底理解することのできない存在だと思い知らされた。
「こいつらは敵…なんだよな?」
泰志は数少ない情報と疑問の中から、最も知りたいことを愛に尋ねた。彼はその答えを知りたいと思いつつも、心の中ではこれ以上望みを薄くすることは聞きたくないという願いを持っていた。しかし彼女はそんなことを知るはずもなく容赦なく答える。
「少なくとも仲間ではないかな。これまでに何度か戦闘になった話を聞いたことがあるの。水中や森の中から突然現れて槍で襲ってくるんだって。言葉なんか通じないまるで野生動物みたいに」
泰志は野宿する場所を変えようとその場から離れようとする。しかしその足取りはここまでに積み重ねられた疲れによりところどころ絡まる。愛はそれを察して少しだけ笑顔を見せた。
「少しだけ休んで、明るくなる前に出発しましょ」
彼女のその言葉は彼の不安感から進む足を引き留める一方で、彼の疲れた体を優しく包み込むように柔らかかった。彼は言葉を発することなく彼女の言葉を受け入れゆっくりと寝具を広げ始めた。彼女もその様子を見て子を見る母親のごとく優しく微笑み眠りへとついた。
まだ日が上がらず薄暗い中、浅い眠りで体を動かさずにいただけの泰志は目覚めて起き上がる愛を見て重さの残る体を起こした。二人の荷を整理する手つきは、出発する時の遅さとは異なる種類のものだった。クローンという新たな脅威の存在を知ったにもかかわらず、今の泰志の表情からは少なからず恐れが消えていた。革命軍の及ばぬ脅威を持つ場所。そこを行く限りは真由美という存在の負の部分から解放される気がしていた。
二人ははるか遠くに顔をのぞかせ始めた太陽を背に歩み始める。前を歩く泰志の歩く速度は前にも増して速足になっていた。
陽も中頃になり二人は開けた見通しの良い高台にたどり着いた。眼下には廃墟群が広がっている。どうやらクローンの支配していた土地を抜け、再び両陣営の戦火の中、それも革命軍側の土地に辿り着いたと見える。
ふと二人の耳を刺すように廃墟群から音が響く。
「銃声…」
愛がいち早く音のした方向へ視線を向けながらつぶやいた。泰志は早々にこの世界の現実を受け入れなければならなくなった。距離にしておよそ六百メートルほどだろうか。瓦礫に遮られているために、音以外には何が起きているのか分からない。両軍が争っているのであれば、加勢して仲間を増やすということも考えられる。以前の五人で進んでいた時であればそうしたかもしれない。ただでさえ心もとない状況ゆえに、仲間が増える可能性というのは非常に捨てがたい。しかし今は状況がまるで違う。知らない土地でかつ経験者とはいえ愛と泰志の二人のみ。彼の様子を見る体は重く、動こうとはしなかった。
「上川くん、あれ見える?」
愛は唐突に廃墟群に見えたあるものを小さく指さして泰志に問いかけた。
凝視したその先には一本の槍が地面に突き刺さっていた。
泰志は何かを察したように息を吸い込む。
「この廃墟の中、川が通ってるみたい。解放軍だとすればこんなところでそう簡単には銃声なんて響かせないと思う。だから恐らくだけど、戦ってるのは革命軍とクローン」
愛はまるで泰志に次の流れを判断させようとするかのように、彼に視線を送りながら問いかけた。彼はすぐには答えられなかった。その答えが、今自分に目を向けている彼女に危険を及ぼすかもしれない。彼女の積み重ねてきた優しさは、彼の中にも僅かだが確実に広がりつつあった。
「思うんだけどさ、クローンと戦ってる人たちを助けてみない?」
それは声の雰囲気こそいつもの彼女の軽口と何ら変わりはないものだった。ゆえに泰志はその言葉がどういう意味を持っているのかすぐには理解できなかった。しばらく彼女が彼の反応を観察する。そこでようやくその意味を理解した。
「革命軍を助けるのか?」
「うん」
彼のかろうじて発した言葉に対し、彼女は何の躊躇もなく即答する。
彼はその様子に呆気にとられ言葉が出なかった。
「もしかしたら遠藤さんのこと教えてくれるかもしれないじゃん?それに…」
彼女は明るい調子を徐々に変化させ言葉を一瞬止めた。泰志はその続きを聞き入るかのようにほんの少し彼女の表情を覗き込む。
「ほんの少しでもいいからさ、戦いの無いところ…見てみたいなって」
彼女の声はその大きさこそ小さいものの、その奥底には彼女の抱えていた思いが目に見えない形で重く乗っているかのようだった。それを聞いた泰志の中の彼女の身を案じて動かなかった気持ちは、いつの間にか彼を突き動かすものへと変化していた。
「行ってみよう」
彼は銃声のする方向を見つめながら言った。




