第3話 聖女が触れたものは、なぜ壊れるのか
静かすぎる部屋だった。
静か、というより――
音が削られているような空間だった。
冬野ひかりは、まだ椅子に座ったまま動けずにいた。
先ほど頭に流れ込んだ誰かの記憶が、消えない。
暗い部屋。
少女。
白い手。
『あなたは悪役になるべきです』
あの声は、優しすぎた。
だからこそ、怖かった。
「……今のは」
アルベルトが低く言う。
「何を見た」
ひかりは答えられなかった。
説明できるものじゃない。
夢でもない。
幻覚でもない。
もっと、直接的な侵入だった。
「わかりません……でも、誰かの記憶みたいで……」
その言葉に、ジルベールの表情がわずかに動く。
「記憶の共有か」
「そんな魔術は存在しない」
アルベルトが即座に否定する。
だがその否定は、確信ではなかった。
知らないから否定している声だった。
そのときだった。
こん、こん。
扉がノックされる。
空気が一瞬で変わる。
ジルベールが反射的に立ち上がる。
「誰だ」
「聖女セシリア様より伝言です」
外の声は穏やかだった。
「クラリス様の様子を、神殿にて確認したいとのことです」
神殿。
その単語に、ルカが息を呑む。
アルベルトの目が細くなる。
「……神殿に連れて行く気か」
ジルベールは即座に言う。
「断るべきです」
「理由は」
「聖女の管轄下に入る」
その一言で、空気が凍る。
ひかりは理解していなかった。
でも“危険な場所”だということだけは分かった。
「行かないほうがいいんですか?」
ひかりが小さく言うと、
ジルベールは即答した。
「はい」
速すぎる返事だった。
アルベルトはしばらく黙っていた。
そして――
「……判断材料が足りない」
苦しそうに言う。
「クラリスの過去も、聖女の意図も」
そのクラリスという名前に、ひかりの胸がまた痛む。
まるでまだそこにもう一人の自分がいるみたいに。
その瞬間。
ひかりの視界が揺れた。
――まただ。
頭の奥が熱くなる。
違う感情が、押し寄せる。
『行かないで』
『あそこはだめ』
『また、壊される』
声。
声がする。
「っ……!」
ひかりは椅子から立ち上がった。
「行っちゃだめです」
全員が振り向く。
ひかり自身も驚いている。
今の言葉は、明らかに“ひかりの判断”ではなかった。
ジルベールが鋭く言う。
「またか」
アルベルトが問う。
「クラリスの記憶が、あなたを通して出ているのか」
「わかりません……でも」
喉が震える。
「嫌だって、すごく強く感じるんです」
沈黙。
ルカが呟く。
「……本当に、別人なんだ」
その言葉は、もう疑いではなく確信に近かった。
ジルベールが一歩前に出る。
「王太子殿下」
「なんだ」
「神殿には行かせるべきではありません」
「理由を重ねろ」
ジルベールは一瞬だけ目を閉じた。
そして言った。
「クラリス様は、過去に一度だけ神殿に行くことを拒否しています」
アルベルトの表情が変わる。
「いつだ」
「聖女セシリアが現れた翌日です」
静寂。
ひかりの背中に冷たい汗が流れる。
偶然じゃない。
この世界のどこかで、“何かが繋がっている”。
そのときだった。
再び。
記憶が流れ込む。
今度はもっと鮮明だった。
白い神殿。
光。
少女の悲鳴。
そして――
セシリアの声。
『これで、あなたは“悪役”になります』
ひかりは息を止めた。
「……っ」
膝が崩れる。
ジルベールが即座に支える。
「クラリス!」
その声が、やけに遠い。
ひかりは震えながら呟く。
「この人……」
「……?」
「この人、何かしてる」
アルベルトの顔が強張る。
「何を見た」
「わからないです……でも、あの人がいると、クラリスさんの記憶が壊れていくみたいで……」
その瞬間。
ジルベールの目が変わった。
確信の目だった。
「……やはり」
低い声。
「神殿は危険だ」
アルベルトは長く息を吐く。
そして――
「……クラリスの保護を優先する」
その言葉に、空気が揺れた。
ひかりは気づく。
この瞬間、“悪役令嬢”の扱いが変わった。
処刑対象から。
観察対象へ。
そして――保護対象へ。
その夜。
ひかりは一人で部屋にいた。
窓の外は夜。
静かすぎて怖い。
そのとき。
「……ひかり」
小さな声。
振り返ると誰もいない。
でも。
確かに聞こえた。
「助けて」
ひかりは息を呑む。
この声は――
クラリスのものだった。
どこか遠くで。
まだ、消えていない。
そしてその瞬間。
部屋の外で、誰かの足音が止まった。
ジルベールの声。
低く、静かに。
「……やっと、繋がったか」
彼は誰に向けるでもなく、そう呟いた。
まるで――
長い間待っていたものが、ようやく動き出したと知ったように。




