正義の顔 ― ある検察官の話
黒崎恒一は、自分の仕事を「調整」だと思っている。
真実を暴く?
悪を裁く?
そういう言葉は、新人の頃に置いてきた。
検察官の役割は、社会が回り続けるように事件を配置することだ。
歯車が止まらないように。
佐伯隆子の件が回ってきたのは、火曜の朝だった。
秘書官が資料を持ってくる。
「ネクサスリンク社、財務担当役員の転落事故です」
黒崎はページをめくりながら頷く。
上場直前。
海外送金。
内部通報。
典型的な企業案件だ。
「警察は事故処理?」
「はい」
黒崎は椅子にもたれた。
それでいい。
死亡事案を刑事事件化すれば、上場は止まる。
株価は落ち、投資家は逃げ、雇用に影響が出る。
一人の死で、何百人の生活を揺らす必要はない。
黒崎はそう考えるタイプだった。
彼は冷酷ではない。
合理的なのだ。
検察庁の窓から見える霞ヶ関の街は、今日も整然としている。
ここでは、感情よりも秩序が優先される。
黒崎は部下に指示した。
「資金の流れだけ精査してくれ。死亡事案は警察に任せる」
昼過ぎ、三上刑事から連絡が入った。
黒崎は会議室で三上と向き合った。
「事故として整理されると聞いています」
黒崎は穏やかに言う。
三上は一瞬だけ躊躇し、それから答えた。
「現場に違和感はあります」
黒崎は微笑んだ。
「違和感は、証拠にはなりません」
三上は何も言えなかった。
黒崎は続ける。
「会社側から全面協力の申し出があります。内部不正は徹底的にやります」
それが落としどころだ。
死亡は事故。
不正は検察。
線引きは明確だった。
その夜、黒崎は自宅で遅い夕食を取った。
妻はすでに寝ている。
高校生の娘は、リビングのソファでスマホを見ていた。
「おかえり」
黒崎はネクタイを緩める。
「遅くなった」
娘はちらりと顔を上げる。
「また事件?」
黒崎は曖昧に笑った。
「まあね」
シャワーを浴びながら、黒崎は今日の出来事を反芻する。
佐伯隆子。
もし彼女が生きていれば、内部告発は大きな騒ぎになっていただろう。
だが彼女は死んだ。
それは不幸だ。
だが社会全体から見れば、調整可能な損失だ。
黒崎はそう整理した。
数日後、黒崎は相沢弁護士から連絡を受けた。
「佐伯さんの件で、お話を」
黒崎は承諾した。
弁護士が何を言ってくるか、だいたい予想はつく。
会った相沢は、静かな男だった。
感情を前に出さないタイプ。
「事故として処理されましたね」
相沢が切り出す。
黒崎は頷く。
「現時点では」
「目撃証言があります」
黒崎は表情を変えなかった。
「それは警察に」
「警察は動けない」
相沢の声は低い。
黒崎は少し間を置いて答えた。
「法的に意味のある形で持ってきてください」
それが検察官の立場だ。
感覚では動かない。
証拠でしか動かない。
帰り際、相沢は言った。
「あなたは、この件をどう思いますか」
黒崎は即答した。
「社会的影響を最小にする。それが私の仕事です」
相沢は何も言わなかった。
その背中を見送りながら、黒崎は自分が正しいと信じていた。
誰か一人の人生より、
多数の生活を守る。
それは、間違っていない。
黒崎はまだ知らない。
その合理性こそが、
自分自身を追い詰めることになるのを。
黒崎恒一が検察官になった理由は単純だった。
父親が警察官だった。
地方署の刑事。
大きな事件を担当することもなく、定年まで勤め上げた。
黒崎は子どもの頃、父に聞いたことがある。
「悪い人って、そんなにいるの?」
父は少し考えてから答えた。
「悪い人より、間違える人の方が多い」
その言葉が、ずっと頭に残っている。
だから黒崎は、間違いが大きな事故にならないように調整する側に回った。
それが検察だと思っていた。
佐伯隆子の内部告発データが正式に届いたのは、事故処理が確定した翌日だった。
海外のペーパーカンパニー。
循環取引。
名義貸し。
黒崎は淡々と目を通す。
典型的な粉飾スキーム。
だが一点だけ気になる記述があった。
「伊東真一、実務責任者」
黒崎は眉を寄せる。
伊東。
警察で任意聴取を受けた男。
黒崎は部下に指示した。
「伊東を内偵で洗って」
数時間後、簡単な報告が上がる。
前科なし。
借金なし。
家庭も安定。
裏切る動機が薄い。
だが佐伯は、彼の名前を残している。
黒崎は違和感を覚えた。
夜遅く、黒崎は一人で資料室に残った。
コピーされた佐伯のデータを再確認する。
タイムスタンプ。
アクセスログ。
その中に、妙な空白があった。
事故の前夜、佐伯の端末からデータが一部外部転送されている。
だが宛先が消えている。
通常なら復元できるはずだ。
黒崎は技術担当を呼んだ。
「これ、消されてますね」
担当者は困った顔をした。
「管理者権限で上書きされてます」
黒崎の胸に、微かな不安が走る。
検察内部の誰か。
もしくは警察。
黒崎は初めて、この事件が単純ではないと感じた。
翌日、伊東が突然、弁護士を立てた。
相沢だった。
黒崎は内心で舌打ちした。
伊東は事情聴取の場でこう言った。
「自分は佐伯さんの不正に気づいていました」
黒崎は顔色を変えなかった。
「なぜ告発しなかった?」
「証拠がなかったんです」
「では、なぜ今?」
伊東は一瞬だけ視線を伏せた。
「人が死んだ」
その言葉は、黒崎の胸に小さく刺さった。
帰宅途中、黒崎は車の中でラジオを消した。
思考がうるさくなるからだ。
佐伯は本当に事故だったのか。
伊東は何を隠している。
警察の三上は、なぜ食い下がる。
そして、自分は何を見ないようにしている。
黒崎の脳裏に、三年前の案件が浮かぶ。
地方自治体の談合事件。
当時、黒崎は立件を見送った。
証拠が薄い、という理由だった。
半年後、内部告発者が自殺した。
黒崎はその時も「合理的判断だった」と自分に言い聞かせた。
今回も同じ構図だ。
だが今回は、心の奥で警報が鳴っている。
黒崎は夜の高速道路を走りながら、ハンドルを強く握った。
もし佐伯が殺されていたら。
もし証拠が意図的に消されていたら。
自分は、その片棒を担いでいる。
その可能性を、黒崎は初めて真正面から考えた。
数日後、黒崎は三上に連絡した。
非公式に。
「屋上の件、まだ何か残ってますか」
三上は少し驚いた声で答えた。
「個人的な控えなら」
黒崎は短く言った。
「見せてください」
それは黒崎にとって、越境だった。
検察官としてではなく、
一人の人間として踏み込む行為。
黒崎自身、その意味を分かっていた。
正義の顔が、
少しだけひび割れた瞬間だった。




