事故として処理しろ ― ある刑事の話
三上恒一は、自分が優秀な刑事だとは思っていない。
地道で、しつこくて、空気を読まない。
それだけだ。
だが、それで二十年この仕事を続けてきた。
佐伯隆子の転落現場に最初に入ったのは、通報から十二分後だった。
マンションの裏手。
黄色い規制線。
地面に横たわる白い布。
救急隊はすでに引き上げ、鑑識が写真を撮っていた。
「即死ですね」
検視官が淡々と言う。
三上は頷き、周囲を見渡した。
争った痕跡はない。
血も少ない。
屋上に上がる。
柵は胸の高さ。
足場になるような物はない。
事故として処理される条件は揃っていた。
だが、三上の中では何かが引っかかっていた。
靴底の跡が不自然だった。
排水溝の縁に、擦過痕。
「引きずった?」
鑑識は首を傾げた。
「可能性はありますが、断定できません」
防犯カメラは、肝心の時間帯だけ記録が飛んでいた。
管理会社は「システム障害」と説明した。
三上は記録を閉じた。
出来すぎている。
翌日、署に戻ると課長に呼ばれた。
「この件は事故扱いでいい」
課長は書類から目を離さずに言った。
「まだ捜査途中です」
三上は食い下がる。
「上から話が来てる」
それだけだった。
三上は黙った。
上という言葉が意味する範囲は広い。
警視庁か、検察か、それとも政府か。
いずれにせよ、現場の刑事が逆らえる相手じゃない。
それでも三上は、最低限の聞き込みを続けた。
管理人。
清掃員。
近隣住民。
そして、篠原透。
前科者。
だが、目は澄んでいた。
「電話してる男を見た」
篠原はそう言った。
三上は直感した。
この証言は軽く扱えない。
「悲鳴は?」
「なかった」
三上は深く息を吸った。
突き落としなら、よくある。
人は落ちる瞬間、声を出す暇がない。
署に戻り、三上は内部記録を調べた。
佐伯隆子。
財務担当。
海外送金。
匿名の内部通報。
それらはすでに別ルートで検察に回っていた。
だから警察には来ていない。
三上は理解した。
これは最初から“線路”が敷かれている。
警察は事故処理。
検察が裏で企業案件を進める。
現場は蚊帳の外だ。
三上の脳裏に、過去の事件がよぎった。
五年前。
自殺と処理された転落死。
後から殺人だったと判明した。
だが証拠は消え、誰も責任を取らなかった。
あの時、三上は声を上げなかった。
その後、同僚は左遷され、自分だけが残った。
今回も同じだ。
逆らえば干される。
黙れば、誰かが殺されたまま終わる。
三上は机に拳を落とした。
そこへ相沢弁護士が訪ねてきた。
「伊東さんの件で」
相沢は冷静だった。
だが、目の奥に火があった。
三上は屋上の擦過痕の写真を見せた。
相沢は静かに言った。
「事故じゃない」
三上は苦笑した。
「分かってます。でも、事故にする力の方が強い」
その夜、正式に決まった。
佐伯隆子の死は、事故。
捜査本部は立ち上がらない。
三上は報告書を書きながら、指先が震えた。
刑事という仕事は、
真実を追う仕事じゃない。
許される範囲でしか、真実を扱えない仕事だ。
三上は理解していた。
だが、それでも。
篠原の目。
相沢の沈黙。
伊東という元部下の存在。
すべてが頭から離れなかった。
三上は密かに、自分用のファイルを作り始めた。
非公式の記録。
それが、後にすべてをひっくり返す火種になるとも知らずに。
三上恒一は、夜の署が嫌いだった。
昼間の喧騒が消え、蛍光灯の白い光だけが残る時間帯。
コピー機の音も止まり、廊下に足音が響く。
こういう夜に、人は余計なことを考える。
三上はデスクに積まれた資料を一つずつ整理していた。
佐伯隆子。
ネクサスリンク。
海外送金。
匿名通報。
本来なら、これだけ材料が揃えば、立件の可能性を探る。
だが今回は違う。
最初から“事故”という結論が用意されている。
三上は自分の引き出しから古いファイルを取り出した。
五年前の事件。
マンションから転落した男性。
当初は自殺扱い。
三上は当時、若手刑事だった。
違和感はあった。
室内が整いすぎていた。
遺書もなかった。
だが上司は言った。
「家族が自殺でいいと言ってる」
三上はそれ以上踏み込まなかった。
半年後、別件で逮捕された男の供述から、突き落としだったと判明した。
だが証拠は残っていなかった。
結局、誰も裁かれなかった。
あの時、声を上げなかった自分。
それ以来、三上は“しつこい刑事”になった。
それが唯一の贖罪だった。
今回も同じ構図だ。
声を上げるか。
黙るか。
三上は伊東真一への任意聴取を申し込んだ。
伊東は冷静だった。
「その夜は自宅にいました」
アリバイは、マンションの防犯ログと一致する。
だが、篠原の証言がある。
三上は静かに言った。
「あなたが現場付近にいたという目撃証言があります」
伊東の指が一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
だが三上は見逃さなかった。
「……会社の近くに用事がありました」
伊東はそう答えた。
「屋上には?」
「行っていません」
三上はそれ以上追及しなかった。
今は証拠が足りない。
聴取を終えた直後、三上は上司に呼ばれた。
会議室には見慣れない男がいた。
スーツ。
四十代半ば。
穏やかな笑顔。
「東京地検の黒崎です」
検察官だった。
黒崎は丁寧な口調で言った。
「佐伯さんの会社の件、こちらで引き取ります」
三上は違和感を覚えた。
企業案件は分かる。
だが転落死まで検察が直接出てくるのは異例だ。
「死亡事案についても?」
黒崎は微笑んだ。
「事故として整理されると聞いています」
その言い方は、確認ではなく決定だった。
その日の夜、三上が保管していた屋上の擦過痕の追加写真が、サーバから消えた。
誰かがアクセスし、削除している。
三上は記録ログを確認した。
管理者権限。
警察内部の誰か。
三上は椅子に深く座り込んだ。
これが現実だ。
証拠は、必要な人間の手元にだけ残る。
三上は個人用ファイルに残していたコピーを確認した。
幸い、完全には消されていなかった。
だがそれも、いつまで守れるか分からない。
その帰り道、三上は相沢に連絡した。
「検察が動いてます」
相沢は短く答えた。
「やっぱりですか」
三上は言った。
「黒崎という検察官です」
電話の向こうで、相沢が黙った。
「知ってます?」
『……名前だけ』
相沢の声は硬かった。
三上は続けた。
「この件、警察じゃ追えません」
相沢は静かに言った。
『じゃあ、外から崩すしかない』
三上は夜の街を見上げた。
刑事として出来ることは、ほとんど残っていない。
だが、一つだけある。
記録を残すこと。
誰にも見せなくてもいい。
裁判で使えなくてもいい。
ただ、事実を繋ぎ止める。
三上は決めた。
この事件だけは、
途中で手を離さない。
それが刑事としての意地だった。




