表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
落下点  作者: 乱世
2/5

夜の影 ― ある前科者の話

篠原透は、自分が“まともな人間”だと思ったことがない。


そういう感覚は、二十代の終わりに置いてきた。


三年前。

スーパーのバックヤードで現金を抜いた。

防犯カメラに映っていた。


執行猶予付き判決。


裁判所を出たとき、空がやけに広かったのを覚えている。


それ以来、履歴書に書ける職歴はなくなった。


コンビニ。

解体現場。

深夜の引っ越し。


どこも長続きしない。


前科者というだけで、扱いは変わる。

ミスをすれば「やっぱりな」と言われ、

何もなくても疑われる。


だから篠原は、夜の仕事を選ぶようになった。


暗い時間帯は、人の視線が少ない。


それだけで、生きやすかった。


事件が起きた日も、ただの深夜バイトだった。


知り合いの運送屋から回ってきた単発の仕事。

都内の高級マンションに、オフィス用の什器を運び込む。


現金払い。身分証不要。


篠原はそれを受けた。


マンションの裏手に軽トラを停め、台車に段ボールを積む。


エントランスは使わず、搬入口から入った。


管理人と目を合わせないためだ。


エレベーターで二十階。


廊下は絨毯敷きで、足音が吸い込まれる。


指定された部屋に荷物を置き、サインをもらう。


作業は十分で終わった。


帰り際、篠原は建物の裏で一息ついた。


タバコを一本。


その時、少し離れた場所で電話している男に気づいた。


スーツ姿。

細身。

年は三十代半ばくらい。


篠原は本能的に距離を取った。


関わらない。


それが、生き延びるコツだ。


だが、風に乗って声が届いた。


「……証拠は押さえた。もう逃げられない」


篠原は無意識に歩みを緩めた。


男は壁に背を預け、低い声で話している。


「今すぐじゃなくていい。タイミングを見る」


通話は短かった。


男はスマホをポケットに入れ、マンションの方へ戻っていった。


篠原は視線を逸らし、反対方向へ歩いた。


数分後だった。


遠くで、人の叫び声がした。


次の瞬間、鈍い衝撃音。


篠原は振り返った。


上の方から、何かが落ちた。


街灯に照らされて、一瞬だけ人の形が見えた。


時間が止まったように感じた。


周囲が騒ぎ始める。


誰かが通報している。


篠原の頭の中は真っ白だった。


逃げなきゃ。


それしか浮かばなかった。


前科者が現場にいたら、それだけで終わる。


篠原は駆け出した。


アパートに戻り、シャワーを浴びても、手の震えは止まらなかった。


テレビでは「転落事故」と報じられていた。


女性。

マンション屋上。

事件性なし。


篠原はリモコンを投げた。


違う。


あれは、ただ落ちた感じじゃなかった。


叫びがなかった。


突き落とされた人間は、声を出す暇がない。


数日後、警察が来た。


防犯カメラに映っていたらしい。


刑事は三上と名乗った。


「その時間帯にいたな」


篠原は観念して頷いた。


仕事のことを説明した。


三上はメモを取りながら言った。


「他に誰か見なかったか」


篠原は迷った。


言えば、また面倒が始まる。


だが、あの夜の光景が頭から離れなかった。


「……スーツの男がいました。電話してた」


三上は顔を上げた。


「特徴は?」


「細くて、真面目そうな」


それ以上は分からない。


解放された帰り道、知らない番号から電話がかかってきた。


出ると、低い男の声。


『余計なことを言うな』


篠原は足を止めた。


「誰だ」


返事はなく、通話は切れた。


それから、篠原の生活は少しずつ壊れ始めた。


仕事は急に回ってこなくなり、

アパートの更新も断られ、

財布まで失くした。


偶然にしては出来すぎている。


篠原は理解した。


誰かが、自分を見ている。


ニュースで、被害者の名前を知った。


佐伯隆子。


IT企業の役員。


記事の片隅に、こう書かれていた。


《元部下の男性が相談していたが、事故として処理》


篠原はスマホを握り締めた。


あのスーツの男。


元部下。


つまり、伊東。


篠原は確信した。


あの夜、屋上では“選択”があった。


事故じゃない。


誰かが決めて、誰かが落ちた。


そして自分は、その場にいただけで、

もうこの事件から逃げられなくなっている。



篠原透は、自分の過去を誰にも話さない。


話したところで、何も変わらないからだ。


三年前の窃盗は、出来心なんかじゃなかった。


母親の入院費。

滞納した家賃。

重なった請求書。


追い詰められて、判断力がなくなっていた。


金を抜いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


捕まったとき、刑事に言われた言葉だけは覚えている。


「一回で終わると思うなよ」


その通りだった。


社会は、前科者を忘れない。


今回の件も同じだ。


佐伯隆子の転落事故。


篠原はただ居合わせただけなのに、

すでに人生の歯車が狂い始めている。


脅迫電話の翌日、篠原は三上刑事に連絡した。


「例の件で、もう少し話したい」


小さな交番の応接室。


三上はコーヒーを出し、静かに待った。


「誰かから脅された」


篠原はそう切り出した。


三上の眉がわずかに動く。


「内容は」


「余計なことを言うなって」


三上はメモを取りながら頷いた。


「君が見た男について、改めて教えてくれ」


篠原は目を閉じ、記憶を辿った。


「電話のあと、その男……マンションの中に戻っていきました」


「何階方向だ」


「エレベーター側」


三上は顔を上げた。


「屋上へ行く動線だ」


篠原の背中に冷たいものが走る。


「それから?」


「数分後に、落ちた」


三上はペンを止めた。


「悲鳴は?」


「なかった」


その言葉で、部屋の空気が変わった。


三上は深く息を吸う。


「突き落としの場合、声が出ないことが多い」


篠原は唾を飲み込んだ。


現実になった。


自分の感覚が、刑事の理屈と重なる。


帰り道、篠原はふと、伊東の顔を思い出した。


ニュースに出ていた写真。


スーツ姿の元部下。


篠原はその顔を、どこかで見ている。


思い出したのは、一年前だった。


派遣で入ったオフィスビル。


コピー機の前で書類を運んでいた時、社員に怒鳴られていた男。


その横で、フォローしていた細身の人物。


伊東だった。


直接話したことはない。


だが、篠原は確かに見ている。


佐伯と伊東が、激しく言い争っている場面も。


「それは違います」


伊東の声。


「数字をごまかすなら、僕は降ります」


佐伯は何も言わず、ただ睨み返していた。


その記憶が、今になって蘇る。


篠原は理解した。


伊東は、ただの元部下じゃない。


佐伯と一緒に、何かを止めようとしていた。


数日後、篠原は再び脅迫を受けた。


今度は直接だった。


帰宅途中、路地で腕を掴まれた。


振り向くと、知らない男。


「黙ってろ」


短い一言。


それだけで十分だった。


篠原は抵抗しなかった。


できなかった。


男はすぐに消えた。


その夜、篠原は眠れず、何度も天井を見つめた。


このまま黙っていたら、自分は安全かもしれない。


だが、誰かが殺されている。


そして、自分はそれを見ている。


翌朝、篠原は相沢法律事務所を訪ねた。


弁護士の名刺を、三上から聞いていた。


相沢は驚いた顔で篠原を迎えた。


篠原は、すべて話した。


現場。

電話の男。

脅迫。


相沢は黙って聞いていた。


最後に篠原は言った。


「伊東さんは……犯人じゃないと思います」


相沢は視線を上げた。


「なぜ?」


「目が違った。あの夜の男は、決めた目をしてた」


それがどんな目か、言葉にできなかった。


ただ、確信だけがあった。


相沢はゆっくり頷いた。


「ありがとう。あなたの話は、重要です」


事務所を出たあと、篠原は空を見上げた。


久しぶりに、昼の光が眩しかった。


篠原は知らない。


この選択が、

さらに大きな波紋を生むことを。


そしてこの事件が、

次は“刑事”の人生を削り始めることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ