静かな依頼 ― ある弁護士の話
相沢真琴が弁護士になって十年になる。
司法試験に受かった時は、世界が変わったような気がした。
弱い立場の人間を守れる。理屈と証拠で不正を正せる。
そんな理想を、少なくとも半分は本気で信じていた。
だが現実は違った。
依頼の大半は離婚調停か債務整理。
企業案件は、強い側の論理を整理する作業ばかりだ。
正義は商品で、時間は請求書になる。
それでも相沢は、淡々と仕事を続けていた。
その日の夕方も同じだった。
事務所の窓から見える国道は渋滞していて、オレンジ色の夕日がフロントガラスに反射している。
コピー機の低い駆動音。新人事務員が電話口で頭を下げる声。
すべてが、ありふれた平日の終わりだった。
非通知の着信が入るまでは。
相沢は一瞬迷った。
だがなぜか、その日は受話器を取った。
「相沢法律事務所です」
返ってきた声は低く、落ち着いていた。
『突然すみません。今日、相談に伺うことは可能でしょうか』
「内容によります」
『人が亡くなりました』
相沢は背筋を伸ばす。
「事件ですか?」
『警察は事故だと言っています』
その言い方が、妙に引っかかった。
事故だと言っている。
事故だと“断定していない”。
「お名前と、ご関係を」
『伊東と申します。亡くなった方の……元部下です』
面会は二時間後に決まった。
電話を切ったあと、相沢はしばらく受話器を見つめていた。
こういう相談は珍しくない。
死をきっかけに、人は理由を探し始める。
だが胸の奥に、説明できないざらつきが残った。
約束の時間ちょうどに、伊東は現れた。
三十代後半。
細身で、紺色のコートをきちんと着込んでいる。
髪も整っていて、爪も短い。
第一印象は「真面目そうな会社員」。
だが、目だけが少し疲れていた。
「相沢です」
「伊東です。本日はありがとうございます」
握手は短く、力も入っていなかった。
応接室に案内し、コーヒーを出す。
伊東はカップに口をつけず、両手を膝の上で組んだまま話し始めた。
「亡くなったのは、佐伯隆子という女性です。私が勤めていたIT企業の役員でした」
相沢はメモを取りながら頷く。
「一週間前、マンションの屋上から転落しました」
「自殺、あるいは事故と?」
「警察は“誤って落ちた可能性が高い”と」
伊東の声は静かだった。
だが、どこか抑え込んだ硬さがある。
「それで、あなたは?」
伊東は一度視線を落とし、ゆっくりと顔を上げた。
「違和感があるんです」
相沢はペンを止めた。
「どんな?」
「佐伯は、高所恐怖症でした」
相沢は顔を上げる。
「かなり重い。社員旅行で展望台に行った時も、エレベーターに乗れなかったほどです」
それは確かに不自然だ。
「他には?」
「亡くなる前日、彼女から私に電話がありました。“明日、話がある”と」
「内容は?」
「言いませんでした。ただ……声が震えていました」
相沢はゆっくりと頷いた。
人は死後、過去の出来事に意味を与える。
それは珍しくない。
だが伊東の語りは整理されすぎていた。
感情より、事実を並べている。
「警察には?」
「話しました。でも事故扱いです」
「あなたは納得できない」
伊東は小さく頷いた。
「誰かに、きちんと聞いてほしかった」
相談はそれだけだった。
正式な依頼にはならず、伊東は名刺を受け取って帰っていった。
ドアが閉まったあとも、相沢は席を立たなかった。
窓の外では、夜の車列が赤い尾を引いている。
理屈では説明できない感覚が、胸に残っていた。
それは不安というより、予兆に近かった。
伊東が帰ったあと、相沢はすぐには仕事に戻れなかった。
窓際に立ち、外を走る車の流れをぼんやりと眺める。
人が一人死んだ。
それだけなら、日常の中では珍しい出来事じゃない。
だが今回の相談は、どこか輪郭がはっきりしすぎていた。
高所恐怖症。
前日の電話。
事故扱い。
それらは単体では弱い。
だが組み合わさると、妙な重みを持つ。
相沢は自分のデスクに戻り、佐伯隆子の名前を検索した。
すぐに複数の記事がヒットする。
ITベンチャー「ネクサスリンク」共同創業者。
財務担当役員。
来月に控えた上場の中心人物。
相沢は眉をひそめた。
上場直前の役員死亡にしては、報道が驚くほど小さい。
業界紙に短く載っただけで、全国ニュースにはならなかった。
理由はすぐに想像がつく。
企業側が静かに処理したがっている。
相沢はさらに掘り下げた。
過去のインタビュー記事。
講演会の動画。
SNSの断片。
佐伯隆子は、数字の話をする時だけ饒舌になるタイプだった。
人前では笑顔を作るが、目が笑っていない。
「会社は信用で成り立つんです」
そう語る映像の中の佐伯は、断言するような口調だった。
その夜、相沢は伊東にメールを送った。
《佐伯さんの社内での立場を、もう少し詳しく教えてほしい》
返信はすぐに来た。
《彼女は財務を完全に一人で握っていました。資金の流れも、投資家対応も》
《敵も多かったと思います》
翌日、伊東と再び会った。
今度は会社近くの小さなカフェだった。
伊東はコーヒーを前に、ぽつぽつと話し始めた。
「佐伯は、不正を嫌う人でした」
伊東は視線を落とす。
「上場準備が始まってから、外部コンサルや投資家が入りました。数字を“調整”しろという圧も強くなって」
「応じなかった?」
「ええ。だから孤立していった」
伊東の声は低かった。
「私も……正直、距離を置いていました。巻き込まれたくなかった」
相沢はその言葉を聞き逃さなかった。
「あなた自身は?」
伊東は少し迷ってから答えた。
「佐伯に頼まれて、いくつか資料を整理していました。内部告発用の」
相沢は息を止めた。
「内部告発?」
「ええ。まだ確証段階でしたが、海外法人を使った不透明な資金移動があった」
相沢の中で、佐伯の死と線がつながり始める。
その帰り道、相沢は佐伯が転落したマンションに向かった。
現場を見るのは、弁護士としての癖だった。
事実は、書類だけじゃ分からない。
屋上は風が強く、東京の夜景が遠くに滲んでいる。
胸の高さほどの柵。
相沢は手をかけてみた。
簡単には越えられない。
「事故なら、相当バランスを崩さないと」
背後から声がした。
振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。
「三上です。捜査一課」
刑事だった。
相沢は名刺を差し出す。
「相沢です。伊東さんの相談を受けてまして」
三上は小さく頷いた。
「例の元部下ですね」
二人は並んで柵の外を見下ろした。
「上からは事故扱いで進めろと言われてます」
三上は苦々しく笑った。
「でも、現場は綺麗すぎる」
相沢は地面にしゃがみ込む。
排水溝の縁に、細い擦過痕があった。
「これ」
三上が覗き込む。
「何かを引きずった跡のように見えます」
三上は写真を撮った。
「事故なら必要ない動きだ」
その夜、相沢の元に匿名メールが届いた。
《佐伯隆子は裏金の窓口だった》
添付されていたのは海外送金の履歴。
名義はダミー会社だが、承認者のイニシャルが佐伯と一致している。
さらにもう一通。
《伊東は事件当夜、現場近くにいた》
相沢はスマホを握りしめた。
伊東。
最初の相談者。
被害者の協力者。
そして、現場付近にいた可能性。
相沢は深く息を吸った。
誰かが嘘をついている。
だが誰か一人の嘘ではない。
企業。
警察上層部。
そして個人。
複数の思惑が、静かに重なっている。
相沢は確信した。
これは事故ではない。
そしてこの事件は、
自分の想像よりずっと深い場所まで繋がっている。
弁護士としての直感が告げていた。




