#72 涙を知る
誰も辿り着けない。誰もその中を知らない。
だからこそ、人は想像する。
——星月夜シリーズ。
その名前だけが、独り歩きしていく。
そこにいるのが、どんな人間なのかも知らないまま。ただ曲だけが届いて、ただ星だけが見られる。
おそらく、ヴィンセントさんは自分が作品の世界観にそぐわないことを一番理解しているんだ。
そこには真の表現の自由があるのかもしれない。
誰も自分を知らないから。“キャラじゃない”とかそういったものを気にせず自分を曝け出せる。
これが匿名のあるべき解放なのかもしれない。
そんなことを考えていると、気がつけば、夏の共通サーバーまで戻ってきていた。振り返った時には、もう星々の海は見えなくなっていた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
けれど、瞼の裏にはまだ、星屑だけが焼き付いていた。
シェイラ「マスター!本当にマジごめん!!!!」
クラウン・ヴィンセントくんとクレア・ヴィンセントちゃんと別れてすぐ、シェイラちゃんはこちらに向き直って手を合わせて深々と謝罪した。
シェイラ「マイディアルであんなことがあってからずっとちゃんと警戒していたのにガチで不甲斐ないよ。」
シキ「…大事には至らなかったから大丈夫だよ。」
シェイラちゃんの顔を上げさせる。
シェイラ「でも〜!!ウチから見たら、一瞬、マスターとのリンクが切れたの。その瞬間にマスターがバグの空間に取り込まれて…。ウチ、何にもできんくて…。通りがかった星月夜シリーズにバグの空間ごと撃ち抜いて壊してもらったの。」
側から見たらそんな状況になってたのか。
『ぜぇ〜んぶアンタのせい!』
首にあの時の感触がまだ残っている。
シキ「…それだけ向こうの方が上手だったんだね。」
シェイラ「うん…。場のシステムが書き換えられてた。何か話したん?夏サーバーに居たやつってことは…。」
シキ「“ナツミ”を名乗ってたよ。」
それから、自分が名付け親になってしまったこと。そして、そのことを感謝なのか報告なのかも分からないまま、首を絞められながら告げられたことを、ありのままシェイラちゃんに話した。
シェイラ「クソォ!マスターに手出しやがって…!ってか、それはマスターのせいじゃなくね!?たまたまネットで広まる前に同じ名前をクラウンに提案しただけでしょ?」
シキ「でも、あの時点でクラウンくんはもう侵食されていたはずだよね…。」
シェイラ「あ、そっか…。じゃあ敵に直接名前の提案をしちゃった感じに…なるなぁ…。」
シェイラちゃんが頭を抱える。でも、すぐにパッと顔を上げて。
シェイラ「でもそれでもマスターが悪いわけじゃない!何はともあれ、アーサーマスターに報告!報・連・相!これシゴデキの鉄則!!」
そう言ってこれまでの報告内容をアーサーマスターに送っていた。こういう時に沈みきらないシェイラちゃんの底抜けの明るさに救われる。
ふと、視線を道に戻すと、ベンチに見覚えのある赤いリボンをした少女が俯いていた。確かあれは…。
シキ「クレア・ノアちゃん!?」
呼ばれたクレア・ノアちゃんが顔を上げる。
シェイラ「はぁー!?ここ夏サーバーですけど!?ノアマスターは!?」
クレア・ノアちゃんは首を横に振る。
クレア・ノア「あれから家に篭っちゃってアイディアルにログインしてない…。」
シキ「クレア・ノアちゃん1人でここに来たの…?」
話を聞くと、どうやらあの一件以降、ノアマスターはアイディアルに姿を現していないようで、当然ノアシリーズはスリープ状態になっているようだ。だが、どうやらシンパサイザーである、クレアちゃんだけは自由がきいて、あれ以来、居心地が悪くてマイディアルを出てきてしまったみたいだ。マスターがいない間にもマイディアルの外を自由に動けるIDollなんて、シェイラちゃん曰く前代未聞らしい。これもイスト数No. 1のシリーズのシンパサイザーが成せる奇跡の成長なのではないか、とシェイラちゃんは考察していた。
とにもかくにも、クレア・ノアちゃんはあの一件から思い悩みとても辛そうにしていたので、その場で隣に座って話を聞くことにした。
クレア・ノア「あたし…ノアにいらないって言われちゃって…どうしたら…。」
あの時のクレア・ノアちゃんの様子が一変したこと、それを改めて振り返ると一瞬だけデータを乗っ取られるような感覚がクレア・ノアちゃんにはあったらしい。それを考えるとあの時点で都市伝説による何かの介入がされていたことを疑うことができる。
クレア・ノア「でも…マスターに理解を示せなかったIDollなんて捨てられちゃっても当然だよね…。」
思い返すと、感情を強要するノアマスターを侮蔑したクレア・ノアちゃんもまた非常に感情的であったとも思うけど…。
感情は、どこから感情になるのだろうか。
この辛そうにしているクレア・ノアちゃんも、ノアマスターのユアディアルから勝手に出ていくことを選んだクレア・ノアちゃんも全て偽物なのだろうか…?
クレア・ノア「………………………。」
クレア・ノアちゃんの表情には見覚えがあって、そっと声をかける。
シキ「泣きたい時は泣いたっていいんだよ。」
あまりにも辛そうに顔を顰めるクレア・ノアちゃんになんだかそんな風に思ったんだ。でも、クレア・ノアちゃんからは意外な返答が返ってきた。
クレア・ノア「泣くって何…?」
そう尋ねるクレア・ノアちゃんは育ち過ぎた感情をうまく吐き出すことができなくなっているように見えた。
そうか、IDollは泣かないのか。
クレア・ノア「マスターたちは、ううん、人間はどうして泣くの?」
シキ「え。うーん…なんだろう…。溢れてきちゃうものかな。悲しかったり、辛かったり、嬉しすぎたりすると自然とぽろって…。」
改めて涙の理由を聞かれても生理現象だからうまく説明できない。それでもクレア・ノアちゃんには何かが伝わったようで、「そっか……そうやって、人間は感情を外へ逃がしてるんだ。消去でも、放置でもなく、ストレスや感情とうまく付き合っていくために消化するんだ。」と解釈して納得していた。
そして—————はらり。
シキ「…。」
シェイラ「IDollが涙を流した…。」
シェイラちゃんは唖然としていた。クレア・ノアちゃんはたった今泣くということを学習したのだろうか。そっとハンカチを差し出す。嗚咽を漏らしたり、慟哭するわけでもなくただ真っ直ぐと涙が頬を伝っている。一瞬思考を逡巡したクレア・ノアちゃんだったが、ハンカチを受け取ってゆっくりとした動作で濡れた頬にハンカチを当てた。
クレア・ノア「これは…辛いね。」
クレア・ノアちゃんの声が、ほんのわずかに遅れて出力される。
クレア・ノア「いろんな思考が、感情が——」
言葉が途中で途切れる。
口は動いているのに、音声が追いつかない。
クレア・ノア「……あれ……?」
指先で頬に触れる。濡れている。
クレア・ノア「……これ、止まらない……」
シェイラちゃんは不可思議そうにも真剣にクレア・ノアちゃんを観察している。クレア・ノアちゃんの涙は止まらない。けれど、それは人間みたいに嗚咽を漏らすわけでも、顔を歪めるわけでもなかった。ただ、一定のリズムで涙だけが零れ落ちていく。それが逆に痛々しかった。
ここまで感情が成長し複雑化したIDollは人間と何が違うのだろうか?
彼女は苦しんで泣いている。涙は止まらない。
それは本当に“感情”なのだろうか。
プログラムされた反応? 計算された出力?
演技には見えなかった。
そう感じてしまった時点で、もう駄目なのかもしれない。
"選ぶ"という行為があるのなら、 そこには、もう意思が宿っているのではないだろうか。
なら、我々は一体"何"と向き合っているんだろう。




