第九章 黄色い扉
二月十三日 午後九時四十一分
資料館へ戻る車の中で、澪は一度も通知を開かなかった。
携帯端末の画面には、黄色い点が残っている。
未登録記憶 一件。
所有者、冬木こよみ。
再生要求先、冬木澪。
お母さんじゃなくていいから、話したい。
読めば返事をしたくなる。
返事をすれば、自分が何者として返しているのか分からなくなる。
母親ではない。
少なくとも現在の澪は。
けれど完全な他人でもない。
十八年前の自分が見た少女。朔が十二年間育てた記憶を持つ娘。存在しない履歴から自分を探している意識。
どれか一つに分類できれば楽だった。
「戻る必要はない」
助手席の環が言った。
「必要があるかは、まだ決めていません」
「なら病院に残るべきだった」
「凪の前で再生する方が危険です」
「再生するつもりなの」
「それも決めていません」
環は何か言いかけ、やめた。
資料館の地下搬入口へ入る。閉館後の建物は、昼より大きく見えた。展示照明は消え、海からの反射だけが外壁の一部を薄く照らしている。
この建物の下に、十八年前の研究施設がある。
さらに下に、第零がある。
「再生するなら、私が同席します」
「監視ですか」
「安全管理です」
「同じに聞こえます」
「今回は、同じで構いません」
第七修復室は封鎖されたまま。代わりに、教育用の第九修復室が用意されていた。再生深度が低く、室外から即時遮断できる。
入口で澪は止まる。
「今回を行えば、安定した完全再生はあと一回」
環が言う。
「三回目以降は」
「こよみ側の記憶が、あなたの観測で不可逆に変形する可能性が高い。あなたの側も、逆流が増える」
澪は通知を開く。
「この文章は、自動抽出ですか」
「いいえ。所有者側の直接入力と判断されています」
「こよみが書いた」
「そう表示されている」
環は事実として確定しない。
澪も、今は同じ立場だった。
「再生します」
「理由は」
「向こうから話したいと言っているからです。それを聞くかは、私が決めます」
環は反論しなかった。
「接続深度二十パーセント以下。四十七秒で強制遮断。質問は三つまで」
「なぜ三つ」
「会話量が増えるほど、双方向汚染が強くなる」
澪は椅子へ座った。
銀色の端子。
こめかみ。
耳の後ろ。
首の付け根。
正面のガラス。
所有者 冬木こよみ
記憶時間 四十七秒
観測回数 二回目
観測者 冬木澪
黄色い小さな印。
「開始してください」
暗闇が、ゆっくり開いた。
学校だった。
夕方の教室。
窓の外に低い雲。黒板には途中まで消された数式。机が並ぶ。
三十一。
澪は反射的に数えた。
こよみは窓際の後ろから二番目に座っている。灰色の上着。机に一枚の紙を広げていた。
澪を見る。
「来た」
今回は驚かなかった。
「ここは学校?」
一つ目の質問。
「放課後」
「どうして私を呼んだの」
二つ目。
こよみは紙を指で押さえる。
「見せたいものがあるから」
紙を持ち上げる。
縦長の白い紙。
13さいになったらやること。
番号は百まで引かれている。埋まっているのは二十七個。
「昨日まで二十八個だったんだけど」
澪は胸元の絵を思う。
「二十八番は」
三つ目。
「海へ行く」
「紙が、こちらへ来ました」
こよみの目が大きくなる。
「本当に?」
「現実の私の手に」
こよみは息を吐いた。笑うでも泣くでもない。
「よかった」
「どうして」
四つ目。
遠くで警告音。環から。
こよみも天井を見る。
「あんまり話せないんだね」
澪はうなずく。
「これ、覚えておいて」
十三歳になったらやること。
上から読む。
一。犬を飼う。
二。一人で電車に乗って終点まで行く。
三。お父さんより早く時計を直す。
四。お母さんより上手に林檎をむく。
五。海の向こうへ行く。
海は二十八ではない。
「昨日と違う」
こよみが言った。
「何が」
「海が五番になってる」
「ほかも?」
「毎日」
教室の照明が一度ちらつく。
「だから紙に書いてる」
「何が変わったか、残すため」
こよみがうなずく。
「黄色い扉も?」
顔が変わった。
「それも」
「どういう意味」
「扉は、消えたものの場所に描く」
澪は息を止めた。
こよみは教室の中央を見る。
机、三十一台。
「昨日まで、三十二あった」
「誰の机」
こよみが答えようとした瞬間、教室の時計が一秒だけ逆に動いた。
少女は立ち上がり、黒板横の一番後ろへ駆ける。
机と机の間に、薄い黄色い線。
「ここ」
澪には何もないように見える。
「誰の」
こよみは口を動かす。
声が抜け落ちる。
顔が青ざめる。
「また」
もう一度、名を言おうとする。
音が出ない。
唇の形。
み。
ず。
き。
「水城?」
こよみが強くうなずく。
机の紙へ鉛筆を走らせる。
水城紗奈。
澪が名を読んだ瞬間、文字が薄くなった。
「消える!」
こよみは上からなぞる。
水。
城。
紗。
奈。
何度も。紙が破れそうなほど。
「昨日までいた」
「友達?」
「同じクラス」
「誰も覚えてない?」
「私しか」
教室の壁が歪む。
窓の外にあった灰色の校舎が一つ消えた。空だけが広がる。
「いつから」
「十歳くらい」
「毎日?」
「最初は、たまに」
「今は」
「増えてる。去年の誕生日から、ずっと終わってない」
去年、二〇四九年九月二十一日。
「誕生日の前後が、一番ひどい」
澪が毎年、理由を知らず休む日。
「だから扉を描いてる。消えた場所。人。家。道」
「忘れないため」
「私まで忘れたら、本当にいなくなる気がして」
澪は教室を見る。
黄色い線が壁、床、黒板、窓際にある。
出口ではない。
墓標。
「お母さん」
こよみが言う。
すぐ首を振った。
「ごめん」
「いい」
「でも、聞いて」
教室全体が細かく揺れている。
「第零を開けたら、私がそっちに行く」
「うん」
「でも、こういうのが全部、そっちで起きる」
「人が消える?」
「逆。そっちが、こっちになる」
「現在世界が書き換わる?」
「たぶん」
「なぜ解錠要求を出してるの」
こよみの顔が変わった。
「私じゃない」
「表示には、あなたの名が」
「私の名前を使ってる」
「誰が」
「人じゃない」
黒板の向こうで、爪を立てるような音がした。
黄色い線の一本が、黒へ変わる。
「来た」
「何が」
「私たちが変わったって気づかないようにするもの」
黄色い線が一本消えた。
こよみが机へ飛びつき、名前を書く。
「水城紗奈」
一回。
二回。
三回。
黒い線が床を這い、少女の足元へ近づく。
「十三歳になったらやること」
こよみは紙を澪へ向ける。
「覚えて」
番号が変わり始める。海が二十八へ戻る。文字の一部が消える。
「全部は無理です」
「一個でいい」
「どれ」
「謝る」
紙にある。
喧嘩した次の日、自分から謝る。
「どうして」
「いつも、できないから」
黒い線が少女の椅子まで届く。
「今度こそって言った意味、まだ言えない」
「なぜ」
「言うと消される」
「誰に」
こよみは答えない。
「でも、私が生きるたびに、何かが消える」
「だから、私を選ばないで」
最初の再生と同じ言葉。
今度は意味が違って聞こえる。
こよみは死にたいのではない。
十三歳になりたい。犬を飼いたい。海へ行きたい。謝れる人になりたい。
「でも」
少女の声が震える。
「私が消えたら」
言葉が止まる。
「誰か一人くらい、私がいたって覚えてて」
澪は返事をしようとした。
声が出ない。
環が強制遮断を始めた。
残り三秒。
「水城紗奈」
二秒。
「十二歳」
一秒。
「昨日まで、いた」
暗闇。
接続が切れた。
澪は第九修復室へ戻った。
「四十七秒です」
環が言う。
澪は端子を外さない。
まず、自分の記憶を確かめる。
冬木澪。
三十八歳。
凪。
灯。
朔。
環。
こよみ。
水城紗奈。
「紙を」
環が小さな記録用紙とペンを渡す。
澪は書く。
水城紗奈。
十二歳。
第零継続域。こよみの同級生。
二月十二日まで存在。
今は消えない。
現実世界の紙へ書かれた名。
「誰です」
「こよみの同級生。昨日までいた」
「消失した?」
「こよみ以外、誰も覚えていない」
端子を外す。
立ち上がろうとしたとき、携帯端末が震えた。
凪から。
灯が来てる。今日は病院泊まりになった。
意味は分かる。
灯。
三枝灯。
凪の恋人。
分かる。
しかし、顔が浮かばない。
目を閉じる。
短い黒髪。
右頬のえくぼ。
何もない。
声も。
病院で会った。靴下を持ってきた。点滴台を引いた。四分、と言った。
場面はある。
人物だけが白く抜けている。
「どうしました」
環が聞く。
「三枝灯さんの顔を思い出せません」
環がすぐ近づく。
「ほかは」
「名前は分かる。凪の恋人。救命講習。食堂。三年前」
「声は」
「出ません」
「感情」
澪は探す。
何度も会った。
好感を持っていたはず。
その感覚がない。
「それも」
環は目を閉じた。
「逆流です」
「二回目で?」
「今回は双方向のやり取りが多すぎた」
「戻りますか」
「分からない」
こよみと四十七秒話した。
その代わりに、現実の一人が澪の中から薄くなった。
「水城紗奈」
澪は紙を見る。
忘れないよう名を書く。
こよみが黄色い扉を描くのと同じだった。
「次の再生が、最後ですね」
「安定して会えるのは」
「もう簡単には見られません」
「そうしてください」
環の声には安堵が混じる。
澪はそれを責めなかった。
自分も怖かった。
それでも、こよみの最後の願いが残る。
誰か一人くらい、私がいたって覚えてて。
澪は約束していない。
自分の記憶が、これほど簡単に失われるなら、約束できない。
それでも紙の下へ、もう一行書いた。
冬木こよみ。十二歳。
喧嘩した次の日、自分から謝りたい。
忘れないためではない。
忘れるかもしれないと知ったうえで、今ここにいた証拠を残すためだった。




