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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第二部 存在しなかった家族

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10/24

第十章 泣き声を待つ

二月十三日 午後十時三十四分


 三枝灯の顔を思い出せないことを、澪は曖昧な記憶と呼んで済ませることもできた。


 名は分かる。


 経歴も、凪との関係も、来年から食堂を始めることも覚えている。


 会えば、誰なのか判断できる。


 だから忘れたのではない。少し曖昧になっただけ。


 澪は、そう言い換えなかった。


 第九修復室の机へ書く。


 逆流確認 一件。


 対象 三枝灯。


 保持 氏名、職業、冬木凪との関係、共有出来事の一部。


 欠損 顔貌、声、本人へ向けていた感情。


 自分の人生から、人が一人、文章へ変わった。


「医務室へ行きましょう」


 環が言う。


「その前に、朔と話します」


「認めません」


「第零への再生ではありません」


「同じです。彼の記憶は、あなたにとって第零への経路になっている」


「確認したいことがあります」


「明日にして」


 壁の時計、午後十時三十六分。


 完全解錠まで十七時間二十四分。


「明日では遅いかもしれません」


「だから休ませたいの」


「私は休んでも、向こうは進んでいます」


「こよみをもう一度見たい理由を作ってる」


 環の言葉に、澪の指が止まる。


 直接接続ではない。


 朔の記憶。


 研究上の確認。


 十八年前の構造。


 いくらでも正当化できる。


 本当は、こよみをもう一度感じたいのではないか。


「そうかもしれません」


 環の眉が動く。


「否定しないの」


「否定できません」


「なら、やめるべきです」


「欲望があることと、判断が間違っていることは同じではありません」


「欲望で判断が歪む」


「怖いから見ないのも、恐怖で歪む」


「だから休むの」


「休むことも選択です」


 環の顔に苛立ちが出る。


「全部を選択にしないで」


「全部、選択でしょう」


 言った自分が、一番驚いた。


 以前の澪なら言わなかった。


「何を確認したいの」


「こよみの出生」


 環の表情が消える。


「分岐は十八年前。こよみが生まれたのは十二年前。なのに私は、事故直後に十二歳ほどの少女を見ている」


「第零内部の生成順序が、現実時間と一致しない可能性がある」


「未来予知では説明できません」


「だから、出生記憶を?」


「はい」


「出産記憶は駄目」


「なぜ」


「身体記憶が強すぎる。痛み、恐怖、ホルモン反応、聴覚、触覚。あなたが受け取れば、現在の身体が自分の過去として学習する」


「私は出産したと思い込む」


「思い込みだけならまだいい。こよみを抱いた感覚、泣き声を聞いた安堵、自分の子どもだと認識した神経反応まで定着する」


「今の私には、反証する身体記憶がない」


「そう」


「母親だと思うようになる」


「可能性が高い」


 澪は机の紙を見る。


 冬木こよみ。


 十二歳。


「それでも見ます」


「なぜ」


「危険を知ったからです。知らずに見れば、流れ込んだ母性を真実だと思ったかもしれない。今なら、第零由来だと分かっている」


「分かっていても、身体は区別しない」


「だから記録します」


「記録で感情は止められない」


「止めるつもりはありません。感じたからといって、それだけを判断の根拠にしない」


「できると思う?」


「分かりません。でも、感じないようにすることも、判断を歪める」


 十八年前の澪は、感情を切った。


 その結果、何を選んだか理解できなくなった。


 環は長く黙った。


「私の立場では許可できない」


「分かりました」


「でも止めるつもりもないでしょう」


「はい」


「嫌なところだけ、昔のあなたに戻ってきた」


 澪は少し笑った。


「昔の私は、こんなだったんですか」


「もっと面倒だった」


 環は端末を持ち上げる。


「久世さんは第三区画。私は医務室へ行く。二十分ほど戻らない」


 許可ではない。


 止めなかっただけ。


 環なりの責任の取り方なのか、責任を残さないための弱さなのか。


 今は判断しない。


 隔離室の透明壁の向こうで、朔は立ち上がった。


「凪は」


「意識はあります。安定しています」


 肩から少し力が抜ける。


「こよみの出産を見せてください」


 朔の顔が固まった。


「環に言われたのか」


「逆です」


「止められただろ」


「はい」


「ならやめろ」


 予想していなかった。


「あなたも?」


「灯を忘れたと聞いた」


「誰から」


「環。僕が次に接続を求めると思ったんだろ」


「それでも確認したい」


「何を」


「十八年前の少女と、十二年前に生まれたこよみの関係」


「出産だけでは分からない」


「あなたは知っていることがある」


 朔は黙る。


「事故直後の私は、こよみの名を知っていた」


「凪から聞いたんだな」


「同意書も読みました」


「そうか」


 朔は右手で顔を覆う。


「十八年、守ったか」


「凪は守りました。環は一部を利用したと認めました」


「らしいな」


「あなたは反対した」


「君を失うから」


「こよみだけではなく」


「そうだ。君は僕を見ても、僕が何だったか分からなくなった」


「事実としては知っています」


「事実で恋人にはなれない」


 三枝灯のことを思う。


 事実だけは知っている。


 それでも今の自分には、ほとんど知らない人。


「第零の澪も、私から分かれた。でも今は別の人間になっている」


「そう思う?」


「そう考えないと、こよみ自身の存在も否定することになる」


「そこまで来たんだな」


「人間だと決めたわけではありません」


「君らしい」


「出産記憶を」


 朔は長く黙った。


「途中で僕が切ったら、受け入れろ」


「危険値が上がった場合だけ」


「それ以外にも、見てはいけないものが出るかもしれない」


「あなたが情報を選ぶことになる」


「そうだ」


「受け入れられません」


「なら見せない」


「何を隠しているんです」


「出産そのものじゃない。その前後に、事故の記録が重なる可能性がある」


「こよみの名を先に知っていた理由」


 沈黙。


「切る権利は渡しません。神経値だけで切ってください」


 朔は目を閉じた。


「本当に面倒なところだけ戻ってきた」


「環にも言われました」


 隔離室の扉が遠隔解除された。


 朔は少し笑う。


「聞いてるな、あの人」


 接続には第三区画の医療観測室を使った。


 新しい装置。朔の自伝的記憶を限定転写する。旧観測室より安全だが、細部の再現は弱い。


「日付」


「二〇三七年九月二十一日」


「時刻」


「午前四時五十分ごろから」


「場所」


「市立北浜(きたはま)医療センター」


「予定日」


「十一日早かった」


「合併症」


「大きなものはない」


「こよみは」


 朔の目が揺れる。


「生まれた直後、泣かなかった」


「どれくらい」


「八秒。僕には、もっと長かった」


 端子をつける。


「始めてください」


「本当に」


「始めて」


 接続。


 最初に光。


 白い天井。


 次に、音。


 金属器具。布。短い指示。


「息を吐いて」


 痛みは遅れて来た。


 腹部の奥から、身体全体を締めつける圧力。腰、背中、骨盤。内側から広げられている。


 自分が椅子にいることは分かる。


 二〇五〇年。


 資料館。


 それでも身体は別の場所にいた。


「深度を下げて」


「もう最低だ」


 視界が変わる。


 第零世界の澪の視点。


 ベッドの柵を握る手。汗。乱れた髪。息。


「もう一回」


 助産師の声。


 身体が力む。


 現在の腹部まで収縮する。


 痛みの中心に、一つだけ思いがある。


 早く顔を見たい、ではない。


 会いたい、でもない。


 生きて。


 次の瞬間、大きなものが身体の奥から抜けた。


「女の子です」


 その言葉のあと。


 音がない。


 泣き声がない。


 視界の端で、小さな身体が持ち上げられる。濡れた髪。赤紫の皮膚。閉じた目。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 息をしているのか。


 四秒。


 何で泣かない。


 五秒。


 何かあった。


 六秒。


 やめて。


 七秒。


 お願い。


 八秒。


 赤ん坊が口を開く。


 最初の声は小さく、かすれた。


 次に、高い泣き声が部屋へ響いた。


 その瞬間、身体の力が抜けた。


 喜びより先に、安堵。


 生きている。


 赤ん坊が胸元へ運ばれる。


 小さい。


 思っていたより重い。


 思っていたより熱い。


 湿った髪。頬へ触れる皮膚。十本の指を数えようとして、途中で分からなくなる。


「こよみ」


 第零の澪が言った。


 最初から、その名だったように。


「こよみ」


 朔の声。父親。泣いている。


 ここで、出生記憶の下から別の記録が浮かび上がった。


 二〇三二年。


 第零実験。


 暗い実験室。


 赤い停止ボタン。


 二十歳の澪。


 装置が四十七秒の中で、停止しなかった場合の人生を何度も圧縮生成している。


 知らない家。


 朔。


 凪。


 まだ生まれていない子ども。


 赤ん坊。


 幼児。


 七歳。


 十二歳。


 枝分かれする予測の中で、同じ少女の輪郭が繰り返し現れる。


 目は澪に似ている。


 口元は朔に似ている。


 ただし、その少女は現在の澪を見ない。


 観測者へ語りかけない。


 装置が作った、未来人格の原型。


 少女の名が、意味情報として浮かぶ。


 こよみ。


 二十歳の澪が言う。


「また、この子だ」


 同じ四十七秒の中で、何度枝を変えても現れる。


 予測が別の家を作り、別の学校を作り、別の事故を作っても。


 少女の中心だけが残る。


「朔」


 二十歳の澪が、赤いボタンへ手を置く。


「この子、名前がある」


「誰の」


「分からない」


 凪の神経値が落ちる。


 警告音。


 予測の中の少女と、現実の妹。


 ボタン。


 澪は押す。


 出生記憶へ戻る。


 第零の澪は、胸の上の赤ん坊へ、事故中に知った名を与える。


「こよみ」


 名前を決めたのではない。


 人格の原型から受け取った名を、思い出した。


 澪の神経境界値が跳ねた。


「切る」


 朔の声。


「まだ」


「境界値が上がってる」


 接続が切れた。


 澪の身体が椅子から浮くほど跳ねる。


 腹が痛い。


 胸の上に、小さな重さ。


 赤ん坊。


 こよみ。


「返して」


 誰に向けた言葉か分からない。


 腕を胸の前へ回す。


 何もない。


「こよみ」


 朔が肩へ触れる。


 澪は手を払いのけた。


「触らないで!」


 自分の声に驚く。


 腹部へ手を当てる。出産後の空虚感。あり得ない。


「現在を確認しろ」


 朔が言う。


「冬木澪。三十八歳。二〇五〇年二月十三日。国立未生記憶資料館」


 声が震える。


「私は、子どもを産んでいない」


 身体が拒絶する。


「これは第零の記憶。こよみを産んだのは、第零世界の冬木澪。現在の私は産んでいない」


 呼吸が少し戻る。


「母親ではない」


 言葉と身体が争う。


「今の私は、違う」


 朔は近づかず、見守っている。


「最後、見えたか」


「十二歳の少女」


「僕の記憶には、出産と抱いた場面までしかない」


「事故の記録が重なった。装置が生成した人格の原型」


 朔の顔が変わる。


「こよみの種子」


「何です」


「事故の四十七秒で、三人の神経情報から生まれた人格核だ。僕たちは当時、予測上の登場人物としか見てなかった」


「第零世界は、その人格を育てた」


「たぶん。君が場所と選択を作った。僕が時間を継続させた。凪の脳が、登場人物を親から独立した人間として生成した」


「だから、こよみは私たちの誰も知らないことを知るようになった」


「十二年間生きたから」


 未来予知ではない。


 最初に人格の種子があり、第零という生活が、その続きを作った。


 壁の時計が午後十一時五十九分を示す。


 あと一分で日付が変わる。


 その瞬間、資料館全体の照明が落ちた。


 非常灯。


 廊下のすべての時計が、同時に電子音を鳴らす。


 午後十一時五十九分の数字が消える。


 次に表示された時刻。


 午後四時十三分。


 日付だけは二月十四日。


 午前零時のはずなのに、すべての時計が事故時刻を示している。


 朔が左腕を見る。


 十八年間止まっていた時計の秒針が、一度だけ動いた。


 かち。


 午後四時十三分一秒。


 また止まる。


「今まで動いたことは」


「一度もない」


 館内放送。


 環の声。


「全職員へ。時刻同期を信用しないでください。外部基準時は午前零時〇〇分――」


 声が途切れる。


 代わりに、少女の声。


 雑音混じり。


 遠い。


「お母さん」


 館内すべてのスピーカーから。


「十二回目が、やり直される」


 放送が切れた。


 資料館の時計は、午後四時十三分を指したまま動かなかった。


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