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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第三部 二つの現在

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第十一章 町を収蔵する

二月十四日 午前零時〇二分


 資料館の時計は、午後四時十三分を指したまま動かなかった。


 壁面表示も、非常口脇の小型時計も、職員用端末も、すべて同じ。


 一六時一三分〇〇秒。


 外部回線へ接続した端末だけが、正しい時刻を返している。


 二月十四日、午前零時〇二分。


 二つの時刻が、同じ建物の中に存在していた。


「館内基準時計を切り離して」


 廊下の奥から環の声。


 閉館後の地下区画に、これほど多くの職員がいるのを澪は初めて見た。神経安全班、収蔵保全部、設備管理、医務職員。全員が端末を見ながら動いているが、表示時刻が端末ごとに違う。


 一台だけ、二〇三二年二月十四日を示していた。


 十八年前。


「冬木さん。第二区画へ。久世さんも」


 環が歩きながら言う。


「第零から大量流入」


「こよみの記憶?」


「違う。所有者が一人じゃない」


「何人」


「まだ数えられない」


 収蔵監視室の壁一面が警告色で埋まっていた。


 通常の未生記憶は、一件ずつ識別される。


 所有者。


 分岐時刻。


 危険度。


 観測汚染率。


 いま流れているものには、基本情報の生成すら追いついていない。


 未登録記憶 四十二件。


 六十一件。


 八十八件。


 百二十七件。


 数字が上がり続ける。


「止められないんですか」


 設備担当者が首を横に振る。


「受信してるんじゃありません。向こうから、こちらの収蔵領域へ直接生成されています」


 記憶が送られているのではない。


 資料館の内部に、存在しなかった記録が増えている。


「分類を切って。内容識別だけ」


 環が命じる。


 短い映像、音声、感覚情報。完全再生する余裕はない。自動要約だけが次々出る。


 所有者不明。男性。推定六十八歳。


 内容。朝食後、庭木への散水。


 次。


 女性。十七歳。


 英語試験の不正を友人へ隠す。


 男性。四十代。


 妻に内緒で買った釣具を物置へ隠す。


 女児。六歳。


 乳歯が抜け、枕の下へ置く。


 女性。八十一歳。


 亡夫の服を処分できず、箪笥へ戻す。


 どれも、こよみとは関係がない。


 人生を決定する選択ですらない。


 庭へ水をやる。


 嘘をつく。


 物を隠す。


 歯が抜ける。


 古い服を捨てられない。


 朔が一件を止める。


 所有者 浅田修一(あさだしゅういち)


 年齢 六十八歳。


 居住地 北浜市第三地区。


「知っている人ですか」


「知らない」


「私も」


 環が現実の住民記録へ照合する。


 該当者なし。


 次。


 遠藤真帆、十七歳。


 該当者なし。


 記録のほとんどが、現在履歴に存在しない人物だった。


「住所を地図へ」


 澪が言う。


 北浜市の地図。


 資料館から数キロ離れた沿岸部へ、点が一つずつ表示される。


 浅田修一。


 遠藤真帆。


 住宅街。商店街。学校。診療所。駅前。


「こよみの住所を重ねて」


 一点。


 大量の点の、ほぼ中央。


「町全体」


 朔の声には、驚きより恐怖があった。


「第零は、家族だけじゃない」


「知っていたんじゃないんですか」


「ここまでとは思ってなかった。こよみの学校や近所、店があることは分かってた。でも、世界を成立させる背景だと思ってた」


「背景」


 澪は一件を開く。


 老いた男が庭へ水をまいている。途中で隣家の窓を見る。誰かがカーテンを開ける。男が手を上げ、隣人も手を上げる。


 それだけ。


 検索。


 冬木こよみとの直接接触なし。


 冬木澪とも。


 久世朔とも。


「三人の誰とも関係がない」


 澪は言う。


「なら、誰の想像なんです」


 誰も答えない。


「人物同士の相互参照を」


 処理。


 ネットワーク図。


 浅田修一は隣家の夫婦を知っている。その妻は駅前の花屋で働く。店主は遠藤真帆の母親と同級生。遠藤真帆はこよみの学校の一学年上だが、面識はない。別の人物が、第零側にしかない診療所へ通う。その医師の娘が、こよみの担任と結婚している。


 関係がどこまでも続く。


「自己生成」


 環が呟く。


「記憶同士が、互いの不足を補ってる。一人を長期維持すれば、その人が接触する他者の情報が必要になる。その人にも家族、仕事、過去が必要になる」


「その連鎖が十八年」


「止まらず続いた」


 記録数、三百。


 四百。


「町域の外からも出ています」


 地図が縮小される。


 隣の市。


 県外。


「第零が地球全体を独自生成しているわけではないはず」


 環が言う。


「共有領域を参照してるんだ」


 朔。


「こちらの現実を土台にして、違う部分だけを作る。第零は資料館の設備へつながってる。社会記録も地図もニュースも、完全には遮断できない」


「記憶系統と情報系統は別です」


「人間の脳が接続してる。僕も、凪も、澪も。三人が現実を知り続ける限り、基礎情報が入る」


 こちらと同じものは、こちらを使う。


 違う部分だけを作る。


 こよみが生まれたことで変わった家庭。


 家庭が関わった人々。


 その人々によって変わった、さらに別の人生。


 差分が十八年間積み重なった。


「記録数、千を超えます」


 部屋が静かになる。


「千人の意識?」


 誰かが言う。


「まだ意識と断定しないで」


 環の声には、もう力がなかった。


 一件が自動的に開く。


 所有者 桑原実(くわばらみのる)


 五十二歳。


 市営バス運転手。


 仕事を辞めようと思いながら、辞表を書けずにいる夜。


 男は食卓へ紙を置く。妻は寝ている。三度、「辞職願」と書いて破く。四枚目には何も書かず、裏返し、娘への誕生日祝いのメモを書く。


 翌朝、また仕事へ行くつもりだ。


 それだけの記憶。


「これは背景じゃない」


 澪が言った。


 背景なら、こんな記憶は必要ない。


 妻を起こさないよう音を立てない男。


 誰にも見せない迷い。


 一人の生活。


 表示。


 所有権主張 受信。


 一件。


 十件。


 百件。


 短い意味情報が続く。


 これは私の記憶です。


 消去に同意しません。


 所有者本人への通知を要求します。


 外部観測者へ開示を要求します。


 文体、語彙、情動署名、発信元。すべて異なる。


「法務へ連絡を」


 環が言う。


「何と報告します」


 職員の問いに、環が止まる。


 未登録資料。


 人工意識。


 継続未生系内部人格。


 法的には、どれも人間ではない。


「記憶資料による、集団的な所有権主張」


「それだけでは、人権案件として受理されないと思います」


「まず記録を残して」


 環の声に疲れがあった。


「今、私たちに決める権利はない」


「十八年前に言えればよかったな」


 朔が言う。


 環は反論しなかった。


 澪は記録を見続ける。


 夜中のコンビニで、レジ横の菓子を買わない女。


 妻と喧嘩したあと、謝罪文を打って消す男。


 明日の体育が嫌で、熱が出ればいいと思う子ども。


 寝る前に玄関の鍵を三回確認する老人。


 決定的な場面ではない。


 人間の人生の大半は、誰にも記録されない瞬間でできている。


「冬木さん」


 職員が呼ぶ。


 一件の記録が優先表示されている。


 所有者 河合美緒(かわいみお)


 二十九歳。


 小学校教員。


 本人が澪を指定している。


 外にいる冬木澪へ。


 音声。


「聞こえているか分かりません」


 若い女の声。後ろで子どもたちが騒いでいる。


「こよみちゃんのお母さん、ですよね」


 澪は息を止めた。


「私は、こよみちゃんの担任ではありません。一度も教えたこともない。ただ、うちの学校にいます。廊下ですれ違ったことがあります」


「今日、職員室で、水城紗奈って子の話をしている先生がいました」


 澪の指が硬くなる。


「私は、その子を知りません。誰も知りません。でも、その先生だけが泣いていました。昨日まで自分のクラスにいたと言っています」


「名簿にはいません。写真にもいません。でも、机の傷だけ残ってる」


 こよみ以外にも、水城紗奈を覚えている人がいる。


「それで、私も思い出したんです」


 声が震える。


「一昨年、私のクラスにも一人いました」


「名前は思い出せません。顔も。でも、一人いた」


「消えたあと、誰も気づかなかった。私も。今日まで」


 学校のチャイム。


 女は急ぐ。


「こよみちゃんが、黄色い扉を描いてるでしょう。学校中にあります。私たちは落書きだと思って消してた」


 声が詰まる。


「でも違った。消えた人がいた場所なんですね」


「だからお願いがあります」


 短い沈黙。


「こよみちゃんだけの話にしないでください」


「私たちもいます」


 音声が切れた。


 澪は何も言えなかった。


 これまで、こよみを救うか、凪を守るかと考えていた。


 違った。


 河合美緒がいる。


 桑原実がいる。


 浅田修一がいる。


 水城紗奈がいた。


 こよみと一度も会わずに死ぬ人もいる。


 澪の存在を知らずに恋をし、働き、失敗し、翌日の朝食を考えている人々。


 記録数が一万を超えた。


 地図の点はもう数えられない。


 町の形そのものが光っている。


「収蔵容量が限界です」


「隔離しますか」


「消去はしない」


「別領域へ?」


「第十二収蔵庫を全部使って」


 転送処理。


 すぐ止まる。


「資料側が拒否しています」


 表示。


 移送拒否。


 当該領域を収蔵資料として認識しません。


 現在地 自宅。


「自宅」


 職員が繰り返す。


 彼らは、自分たちが資料館の中にいるとは考えていない。


 第零側では、家で眠り、学校へ行き、仕事をしている。


 外側から収蔵すると言われても、意味がない。


「移送を止めて」


 澪が言う。


 職員が環を見る。


「止めて」


 転送停止。


「代わりに受信を継続。無損失範囲だけ圧縮」


「それでも数時間です」


「数時間でいい」


 数時間。


 その間に答えを出す。


 朔が地図の一点を指した。


「ここ。僕の実家があった場所」


 現実世界では、父の時計店は十年前に閉店している。


 第零側の地図には、久世時計修理店。


「父親が生きている?」


「こっちと同じ時期に死んでる」


 店主記録。


 久世朔。


「第零のあなたが継いだ」


「たぶん」


「その生活を、どこまで覚えているんです」


「店の匂い。父が使ってた油。木の机。午後の西日」


 第零は、娘だけではない。


 父から継いだ店。


 暮らした町。


 夫だった自分。


 父親だった自分。


 一つの人生全体。


 設備担当が別の解析を開いた。


「第零の内部時刻が、朔さんの継続信号以外でも保持されています」


 朔が見る。


「どういう意味だ」


「町の人物同士が、互いの昨日を記憶している。家族、同僚、近隣、行政記録。相互記憶の網が、独立した時間基準になっています」


 環が画面へ近づく。


「分散型の時間の錨」


「はい。初期には久世さんがほぼ単独で時間を進めていた。でも今は、内部社会そのものが、自分たちの過去を保持している」


 他人が自分を覚え、自分も他人を覚える。


 その相互関係が、世界の昨日を作る。


「つまり僕が接続を切っても」


「第零は即時停止しません。ただし外部同期と優先信号は大きく弱まる」


 朔は何も言わなかった。


 画面が一斉に暗くなる。


 再点灯。


 記憶一覧の代わりに、一つの文章。


 外側の皆さんへ。


 所有者、複数。


 私たちは、自分たちが何なのか知りません。


 あなたたちから見て人間なのか、記憶なのかも分かりません。


 でも、こちらでは痛みがあります。


 眠ります。


 忘れます。


 死ぬ人もいます。


 明日の予定があります。


 消す前に、私たちの話を聞いてください。


 少なくとも、資料としてではなく。


 表示が消え、記憶一覧へ戻る。


 誰もすぐには話さなかった。


 収蔵されていたのは、一人の少女ではない。


 少女を知らない人々まで含む、一つの町だった。


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