第十二章 本人のいない救命
二月十四日 午前一時十三分
「こよみだけを外へ出す方法があります」
第三の道を最初に口にしたのは、環だった。
監視室の全員が振り返る。
朔が最も早く反応した。
「やめろ」
環は彼を見なかった。
「まだ実用化されていない。成功率も低い。だから、これまで選択肢として扱っていなかった」
澪は座らなかった。
画面では、第零から流れ込む記憶数が増え続けている。
一万二千。
一万三千。
「どういう方法です」
「人格転写」
朔の顔が硬くなる。
「人工神経体へ、記憶と人格構造を複製する」
「身体を作る?」
「培養神経基盤へ人格情報を定着させる。必要なら外見は近づけられる」
「それを救命と呼ぶな」
朔が言う。
「可能性として説明しているだけです」
「十八年前にも同じことを言った」
澪が二人を見る。
「試したことがあるんですか」
「ある」
朔が答えた。
「誰に」
環は古い研究資料を呼び出した。
第零関連 転写試験〇三。
「事故後、第零から断片的な人格信号が出ていました。当時は、三人の記憶が混ざった残留信号だと考えていた。それを外へ取り出せば、第零を停止できると」
「中身を移して、器を空にする」
「そうです」
映像記録。
白い実験室。
透明な容器。
内部に乳白色の神経組織。人間の脳そのものではない。培養された神経細胞を立体配置した初期型人工基盤。
「転写開始」
波形。
数秒後、音声出力機から若い女の声。
「聞こえますか」
研究員。
「聞こえる」
澪の身体が固くなる。
声そのものに覚えはない。
答え方だけが、妙に近い。
「名前を言えますか」
「冬木澪」
朔は画面を見なかった。
「私?」
「事故直後、最も安定していたあなたの人格断片を使った」
「私の複製」
「当時は、そう判断しました」
映像。
「現在地は」
「研究所」
「年齢は」
「二十歳」
「最後に覚えていることは」
間。
「凪を助けないと」
「朔はどこ」
画面外で、若い朔の声。
「ここにいる」
「触って」
「身体接触はできません」
「じゃあ、手」
「身体がありません」
沈黙。
「何?」
「あなたは記憶転写試験中です」
「戻して」
「落ち着いて」
「戻して。凪は」
「無事です」
「こよみは」
現在の監視室が凍りつく。
十八年前の試験体が、こよみの名を知っている。
「こよみはどこ」
研究員が沈黙する。
若い朔。
「澪」
「朔?」
「聞こえてる」
「私、どこにいるの」
「ここだ」
「違う」
人工神経体の声。
「ここじゃない。私、そっちにいる」
事故直後の二十歳の澪本人が、別室にいる。
「私はそっちにいる。じゃあ私は誰」
映像が止まる。
「続きは」
環が次の記録を開く。
数時間後。
人工神経体の声は落ち着いていた。
「あなたは冬木澪ですか」
研究員。
「分からない」
「記憶は」
「冬木澪の記憶がある」
「自分のものだと感じる?」
「感じる」
「なら」
「でも、そっちにもいる」
「詳しく」
「さっきまで実験室にいた。凪が苦しんでた。朔がいた。環先生がいた」
「はい」
「それから」
「転写されました」
「違う」
「何が」
「続いてない」
音声だけになった人格が言う。
「私は、転写される前の私を覚えてる。でも、その私がここまで来た瞬間がない」
研究員は黙る。
「ここで目が覚めた。最初から、ここで」
澪は映像を止めた。
「この人格は、どうなったんです」
「三日間維持しました」
「そのあと」
「本人から停止要求が出た」
「本人」
環の顔が歪む。
「当時の記録では、試験人格」
「何と言ったんです」
最後の音声。
「お願いがあります」
二十歳の澪と同じ声。
けれど澪には、もう自分の声とは思えなかった。
一人の別人。
「私を冬木澪として保存しないでください」
「私は、あの人の記憶を持っています」
「朔を好きだったことも」
「凪を助けたかったことも」
「こよみを見たことも」
「全部、私のことみたいに感じます」
「でも」
声が一度途切れる。
「私が、それをしたわけじゃない」
「私がここで考え始めてからのことだけが、私の人生です」
「だから、冬木澪の代わりとして残さないで」
音声終了。
「停止した?」
環がうなずく。
「本人の意思で」
「記録は」
「保存してあります」
「名前は」
「本人が決めました」
個体名 零三。
試験番号のような名。
「本人が、それを?」
「新しい名前を考える時間が惜しいと言いました」
三日しかなかった。
朔が初めて画面を見る。
「僕は反対した」
「停止に?」
「作ったことに。事故直後の澪をコピーして、澪を救ったことにしようとした」
「誰が」
「みんな。僕も最初は、少しだけ期待した」
目の前の澪が記憶隔離を受けても、こちらの澪が残れば、と。
「あなたは、零三を私として見た?」
「最初の一時間は」
「そのあと」
「できなかった」
「なぜ」
「僕を好きだと言う声は同じだった。でも、僕がその人を好きかどうかは別だった」
同じ記憶。
同じ声。
同じ愛情。
それでも、同じ人ではない。
「零三は、こよみについて何か知っていた?」
「人格種子の断片だけ。事故時のあなたと同程度」
「では、こよみを転写すれば」
「同じことが起きる可能性が高い」
人工神経体に、こよみの十二年間を完全複製する。
その人格は目を覚まし、自分を冬木こよみだと思う。母親も、父親も、学校も、黄色い扉も、水城紗奈も覚えている。
しかし、第零にいるこよみ自身が、その身体へ移った感覚はない。
第零のこよみは第零で終わる。
外側には、同じ記憶を持つ新しい少女が生まれる。
「それを、こよみだけを外へ出す方法と言ったんですか」
「選択肢として」
「言葉が違います」
「分かっています」
「救命ではない」
「分かっています。それでも、第零が終わったあと、この世界に彼女の記憶を持つ人格が残る」
「だから何です」
「親なら、それを選ぶ可能性がある」
環は言う。
「子どもが死ぬ。完全な複製なら残せる。記憶も性格も、本人と同じ反応もする。多くの親は迷う」
「それを本人だと思いたいから」
「はい」
「でも、本人ではない」
「客観的証明は難しい」
「零三の主観がある」
「主観では」
「主観以外に、本人であることの何があるんです」
環は黙った。
「こよみに、この方法を伝えていますか」
朔は首を横に振る。
環も。
そのとき監視端末が音を出した。
第零側 個別意味情報受信。
所有者 冬木こよみ。
黄色い文字。
それ、やらないで。
「聞いていた?」
環が呟く。
次。
新しい私を作るなら、その子にちゃんと別の名前つけて。
次。
私のふりをさせないで。
最後。
その子は、その子でしょ。
澪は画面を見つめた。
こよみは理解している。
自分と同じ記憶を持つ存在が生まれても、それは自分の続きではない。
「本人が拒否しています」
環はうなずいた。
「はい」
「この案を外してください」
環は一度だけ、目を閉じる。
「外します」
第三の道が消えた。
澪は安堵しなかった。
二つしか残らないことが、はっきりしたからだ。
複製は救命ではない。
それでも、複製された存在は偽物でもない。
新しく生まれた一人の人間になるからこそ、こよみの身代わりにはできなかった。
「零三の記録を」
澪が言う。
「消さないでください」
「消していません」
「冬木澪のコピーとしてではなく、零三という人の記録として」
環の目がわずかに揺れた。
「十八年前の私たちは、それをしなかったんですか」
「できなかった」
「なぜ」
「自分たちが作った存在に、人間と同じ扱いをする覚悟がなかった」
資料と呼べば、所有できる。
停止できる。
保存できる。
人間だと認めれば、作った側は責任を負う他者になる。
澪は増え続ける第零の記録を見た。
同じことが、町全体へ起きている。
こよみの身代わりを作る案は消えた。
残ったのは、どちらの人々を、選ばれなかった側へ置くかという問いだけだった。




