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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第三部 二つの現在

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第十三章 後悔の治療

二月十四日 午前二時〇七分


「見せたいものがある」


 朔が言った。


 澪はすぐには返事をしなかった。


 零三の声が、監視室にまだ残っているような気がする。


 私がここで考え始めてからのことだけが、私の人生です。


 画面では、第零から流れ込む記憶数が増え続けている。


「何をです」


「僕が十八年間見てきた人たち」


「患者」


「そうだ」


「第零と何の関係が」


「こよみだけで、僕が扉を開けたがってると思ってるだろ」


 澪は否定しない。


「違わない。でも、それだけじゃない」


 朔は個人端末を机へ置いた。外部通信は切られ、保存された医療資料だけが読める。


「僕が第零を開くべきだと思うようになったのは、こよみが生まれる前からだ」


 最初の記録。


 患者A。女性、三十二歳。未生記憶依存。


「現実の子どもを愛せなくなった」


「未生記憶の中に、別の子どもがいた?」


 朔が音声を開く。


「息子は悪くありません」


 女の声。


「分かってます。でも、顔を見ると、この子じゃないって思う」


「未生記憶の中では娘でした。十歳まで育てました。現実では、一度も生まれていません」


「でも、好きな食べ物も、雷を怖がることも、寝る前に水を飲むことも知ってる」


「息子が私をお母さんと呼ぶたび、違う子に呼ばれてる気がします」


 澪は画面から目を逸らさない。


 遠くない。


「治療は」


「未生記憶の身体感覚を切った。娘の名は覚えてる。思い出せば悲しい。でも、現実の息子と競合しなくなった」


「本人は満足した?」


「一年後、解除を希望した。娘を忘れていくのが怖いと」


「解除した?」


「しなかった。医師として危険だと判断した」


「本人より、自分の判断を優先した」


「そうだ」


「後悔していますか」


「してる」


「同じ状況なら」


 朔は少し考える。


「たぶん、また止める」


 次。


 患者B。男性、四十五歳。反復未生再生による自傷。


 車の事故で娘を失った。事故直前、右へ曲がるか、直進するか。現実では直進。未生記憶では右へ曲がり、事故を避けている。


「毎晩見ます」


 男の声。


「右へ曲がる。娘が生きる。高校へ行く。結婚する。孫ができる」


「そのたび、朝に目が覚める。現実には墓しかない」


 男は、自分の手を何度も傷つけた。


 直進を選んだ手だから。


「治療は」


「未生記憶へのアクセスを完全遮断。本人は拒否した。家族の同意を取った」


「強制的に」


「そうだ」


「結果は」


「三か月後、初めて眠れたと言った」


「事故から」


「七年」


「娘を忘れた?」


「忘れてない。後悔もある。ただ、後悔の向こう側が見えなくなった」


「向こう側」


「右へ曲がった人生を、現実と同じ強さで感じられなくなった」


 凪に近い。


 別の選択があると理屈では分かる。しかし、感情を伴って生きられない。


「墓の前で、初めて現実の娘の話ができた」


 朔が言う。


「それまでは、生きている未生記憶の娘と比較していた」


 次。


 患者C。女性、二十六歳。未生人格への同一化。


 別の大学へ進学した未生記憶では画家。現実では事務職。


「私は、こっちじゃない」


 患者の声。


「今の人生は、失敗した方です」


「向こうの私は絵を描いてる。展示会もしてる。恋人もいる。こっちには何もない」


 治療は、未生記憶の再生頻度を下げること。創作療法。職業変更。


 一年後、患者自身が絵を描き始めた。


「この人は、未生記憶を消していません」


「そうだ」


「それでも救われた」


「そうだ」


「なら、『もし』そのものが悪いわけではない」


「もちろん」


「あなたは、人類から『もし』をなくそうとしている」


「善悪の話じゃない。耐えられない人間がいる」


「未来を想像する力は、後悔だけではない。共感も、創作も、反省もそこから生まれる」


「分かってる」


「なら、なぜ奪う」


「同じ力で、何千万人も自分を罰してる」


「人数は分からないでしょう」


「数じゃない。一人でも、七年間毎晩、死んだ娘を生かしてから朝にもう一度殺す人がいる」


 澪は何も言えない。


「未生記憶の技術を作ったのは、僕たちだ。治療になると思った。実際、救った人もいる。でも技術がなくても、人間の脳はもともと『もし』を作る」


「第零を開いてそれをなくすのは、治療ではなく、人間そのものの変更です」


「そうだ」


 迷わず認める。


「創作も弱くなる」


「分かってる」


「他人の立場を想像する力も」


「分かってる」


「社会を変えようとする力も」


「分かってる」


「それでも?」


「それでも、苦しまなくて済む」


 軽薄なら否定できた。


 朔は、失うものを理解している。


「仕組みを、もう一度説明してください」


 澪が言う。


 朔は監視画面に、世界規模の神経網を表示した。


「二〇四〇年代以降、未生記憶装置は単独で動いていない。記憶が現実か可能性かを判定するため、世界中の匿名化された反実仮想(はんじつかそう)パターンを参照してる」


 反実仮想参照網。


 接続者の脳から、個人を特定できない形で「選ばなかった側」の構造を集め、各装置が現実と可能性を区別する共有基盤。


「第零を現実にするには、一つの未生履歴を、現在と同じ因果強度まで引き上げる必要がある」


「参照網全体を、第零履歴へ固定する」


「そう」


「固定されたあと、接続人口は」


「別の過去を感情的に想像しにくくなる。自分が選ばなかった道も、他人の立場も、まだ存在しない未来も」


「全員ではない」


「厳密には、参照網に長期接続している人口の大半。でも今は、医療、教育、行政、個人端末まで含めて、ほぼ世界規模だ」


 こよみの言う、みんな。


「人々は選択肢を論理的に比較できる。でも、選ばなかった方を、身体を伴って思い描けなくなる」


「後悔は減る」


「羨望も。自責も」


「反省も」


「弱くなる」


「共感も」


「弱くなる」


「まだ存在しない社会を望むことも」


「難しくなる」


「それを、静かだと言うんですね」


「少なくとも、今よりは」


「幸福ですか」


「知らない」


「では、なぜ」


「僕も、後悔から逃れたいからだ」


 朔は止まった時計を見る。


 こよみ。


 時計店。


 澪と暮らした人生。


 父親だった自分。


 十八年間、選ばなかった側を毎日生き続けている。


「あなた自身を治療すれば」


「した。十一年前」


「効果は」


「三日で戻った」


「第零が新しい記憶を送り続けるから」


「そうだ」


 向こうでこよみが成長する。


 新しい朝。新しい誕生日。新しい喧嘩。


 記憶の発生源が生き続けている。


「だから開く」


「それも理由の一つ」


「閉じれば、あなたの記憶も止まる」


「そうだ。僕が楽になるためだけなら、消した方がいい」


 澪は予想と違う答えに止まる。


「それでも開く方を選ぶ」


「中に人がいるから。あそこにいる人間を殺して、自分だけ静かになるのは嫌だ」


 そのとき、澪は一つの違和感を拾った。


 第零内部の要求だけでは、物理扉は開かない。


「外側の解錠経路を、あなたが作ったんですね」


 朔の表情が止まる。


「いつから」


「十二年前」


「こよみが生まれたころ」


「独立した第一人称が確認されたあと」


「環には」


「言ってない」


「こよみにも」


「言ってない」


「私をここへ連れてきたのも」


「必要だった」


「選択基準者だから」


「そう」


 環は隠して遠ざけた。


 朔は見せて近づけた。


 方向が逆なだけで、どちらも澪を自分の望む場所へ動かそうとしている。


「あなたも、私に選ばせる気はなかった」


「違う。最終的に決めるのは君だ」


「その前に、扉が開くよう十二年かけて条件を作った」


「選べる状態を作るため」


「私に聞かずに」


「君は記憶を失っていた」


「だから判断させなかった」


 朔は黙る。


「昔の私へは聞いた?」


 朔の目が動いた。


「何を」


「もし第零が続いたら、いつか、もう一度選べるようにしてほしいと言った」


「証拠は」


「僕の記憶だけ」


「それを信用しろと?」


「しなくていい。だから原記録を探してる」


 十八年前の澪が何を望んだか。


 それを知れば、現在の澪は楽になるのか。


 また判断を過去へ渡すだけではないのか。


「昔の私が頼んでいたとしても、今の私が従う理由にはなりません」


「分かってる」


「では、外部解錠を止めてください」


 沈黙。


「できるんですね」


「できる」


「なら」


「しない」


「なぜ」


 朔はまっすぐ答えた。


「扉は開けるべきだから」


 監視室の外で、警告が点灯した。


 外部解錠準備 進行中。


 実行主体 久世朔。


 残り 十三時間十一分。


 朔が準備したものは、もう計画ではなかった。


 動き始めていた。


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