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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第二部 存在しなかった家族

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8/24

第八章 忘却同意書

二月十三日 午後九時〇七分


 封筒を開ける音は、思っていたより小さかった。


 薄い接着部分が、指先の力だけで剥がれる。


 十八年間閉じられていたものが開く音としては、あまりにも頼りない。


 病棟の面談室。


 机を挟んで凪。


 窓際に環。


 三人だけだった。


 古い書類を机へ置く。


 感情記憶隔離に関する本人意思確認書。


 作成日、二〇三二年二月十六日。


 第零実験の二日後。


 対象者氏名 冬木澪。


 年齢 二十歳。


 隔離対象 第零実験中および実験後に形成された感情記憶群。


 印刷された文字の下に、手書きの追記。


 出来事の記録は残してください。感情だけを切ってください。


「感情だけ」


 凪が小さく言う。


「だから事故があったこと自体は覚えてる」


「うん」


「私が被験者だったことも」


「覚えてる」


「でも、そのとき何を感じたかがない」


 第零実験。凪の発作。緊急停止。研究所の閉鎖。朔との別離。


 どれも事実として知っている。


 温度がない。


 次の項目。


 隔離処置によって失われる可能性のあるもの。


 事故に関する情動反応。


 関係者への親密感。


 関連する身体記憶。


 周辺時期の連続した自伝的記憶。


 隔離対象と強く結びついた人物への愛着が低下、または消失する可能性があります。


 朔。


 名は書かれていない。


「これを読んだ上で、私は同意した?」


「うん」


 凪が答える。


「朔を忘れる可能性も」


「説明した」


 環が言う。


「すべて?」


 環の視線が一瞬止まる。


「処置そのものの危険性については」


「質問に答えてください」


「すべてではない」


「何を伏せたんです」


「第零が完全には停止していない可能性」


「こよみについては」


「未生記憶による急性投影だと説明した」


「本当は違うと思っていた?」


 環は答えない。


 澪は次のページへ移る。


 本人による隔離希望理由。


 印刷欄は空白。


 二十歳の澪が、長い文章を書いている。


 私は、冬木凪を見るたびに、自分が何を捨てたのかを考えています。


 最初の一文で、息が浅くなった。


 凪は視線を落とす。


 凪を助けたことを後悔しているわけではありません。


 次の行は一度書かれ、消されていた。筆圧だけが残る。


 少なくとも今は。


 胃の奥が冷たくなる。


 この先もずっとそう言える自信がありません。


 あの中には、私が選ばなかった人生がありました。


 朔がいました。


 私がいました。


 知らない家がありました。


 まだ生まれていない子どもがいました。


 その子は私をお母さんと呼びました。


 凪を助けようとすれば、その子がどうなるか分かりませんでした。


 その子を助けようとすれば、凪がどうなるか分かりませんでした。


 私は停止しました。


 凪が妹だからです。


 そこで文章が一度途切れる。


 でも、それだけではありません。


 怖かったからです。


 知らない子どもにお母さんと呼ばれたことが。


 その子を本当に愛しているような記憶があったことが。


 朔と暮らしている自分が、今の自分より幸せに見えたことが。


 私は凪を助けたあと、あちらを失ったことを悲しいと思いました。


 そのことが、一番怖いです。


 文字が乱れている。涙の跡。


 凪が生きていることを見て、安心するより先に、あの子が消えたと思いました。


 私は最低です。


 その一文だけ、何度も書き直した跡がある。


 私は最低です。


 このまま覚えていたら、いつか凪を憎むかもしれません。


 凪を見るたびに、あの子を思い出すかもしれません。


 あなたが生きているせいで、と思ってしまうかもしれません。


 そんなふうに凪を愛したくありません。


 澪は一度、紙から目を上げた。


 凪の目から涙が落ちている。音はない。


 手を伸ばしかけ、戻した。


 今触れることが、凪のためなのか、自分を楽にするためなのか分からない。


 だから、忘れたいです。


 事故を忘れたいわけではありません。


 凪を助けたことも忘れたくありません。


 あの子の存在を否定したいわけでもありません。


 ただ、感情を切ってください。


 凪を見るたびに比較しないで済むように。


 朔を見ても、失ったものを思い出さないように。


 もし、あの子が本当にどこかにいるとしても、私がその子を選ばなかった責任を、凪へ渡さないために。


 澪はそこで読むのを止めた。


 責任を、凪へ渡さないために。


 十一歳の澪は、父母の選択を五歳の凪へ渡した。


 二十歳の澪は、同じことを繰り返したくなかった。


 忘却は、ただの逃避ではない。


 凪を守ろうとしていた。


 同時に、自分も守ろうとしていた。


 朔から逃げた。


 こよみから逃げた。


 選択の責任から逃げた。


 そのすべてが同じ行為の中にある。


「続きがあります」


 環が言う。


 署名欄の直前に、太い線で囲まれた追記。


 未来の私へ。


 もし思い出したいと言っても、戻さないでください。


 私は、思い出したくなると思います。


 忘れたあとなら、きっと、知らないことが怖くなるから。


 でも、今の私は知っています。


 知ったまま生きる方が、凪を傷つける。


 だから、この決定だけは、未来の私より今の私を信用してください。


 現在の澪は、この数時間ずっと言ってきた。


 自分のことを、他人に決めさせるな。


 知らないまま従うな。


 選択を奪うな。


 そして十八年前の自分は、未来の自分へ命令している。


 思い出したいと言っても、戻すな。


「凪。だから話さなかった?」


「最初の何年かは」


「最初の?」


「二十五歳くらいのとき、一回だけ聞いた。事故のあと、私が何か隠してないかって」


「どうしたの」


「嘘ついた。何もないって」


「私が頼んだから」


「そう」


「それから?」


「三十になったころ。第零って言葉を夢で見た気がするって」


「そのときも話さなかった」


「約束だったから」


「十八年も?」


「約束って、時間が経ったら勝手に無効になるの?」


 澪は返せない。


「でも今日、姉ちゃんが自分で下へ行った」


「だから?」


「昔の姉ちゃんの言うことだけを聞くのは違うと思った」


「なぜ」


「今の姉ちゃんも、姉ちゃんだから」


 その言葉が残った。


 二十歳の自分。


 三十八歳の自分。


 どちらが本物ということではない。


 どちらにも意思がある。


「館長」


 澪は環を見る。


「あなたは、この書類を根拠に説明しなかった?」


「一部は」


「一部?」


「記憶隔離の解除に同意しなかったのは、あなた自身の希望だったから」


「ほかは」


 環は机のそばへ来る。


「研究所を守った」


「だから隠した」


「そう」


「私が忘れたいと言ったことを利用した」


 環の顔がわずかに歪む。


「そうです」


 初めて、言い訳をしなかった。


「あなたを保護したかった。それも事実。でも、それだけではなかった」


 怒りはある。


 だが、環だけを責めて終わることはできない。


 環は隠した。


 凪も隠した。


 朔も隠した。


 そして自分自身も隠した。


 守るため。逃げるため。研究を残すため。愛する人を失わないため。自分が悪人にならないため。


「記憶を戻す方法はあるんですね」


 環は黙る。


「回復不能とは書いていない」


「技術的には可能」


「代償は」


「今の記憶」


「具体的に」


「何が失われるかは選べない。記憶は倉庫ではない。古いものを戻すため新しいものを一つずつ捨てるわけでもない。神経経路が再編成される」


「人の名前」


「あり得る」


「仕事」


「技術記憶は比較的残りやすい」


「凪との出来事」


 環は一瞬ためらう。


「あり得る」


「灯さん」


「あり得る」


「今日のことも」


「あり得る」


 澪は、凪が教え直したことを思い出す。


 三年前。


 大量事故研修。


 コーヒー。


 凪から告白。


 来年四月。


 西口商店街。


 おかえり。


「こよみとの記憶は戻る?」


「第零側と同期できれば、一部は」


「十二年間」


「完全には無理」


「思い出せば、こよみを娘として愛するようになる?」


 環は首を横に振る。


「愛情を戻す、とは言えない。愛は一つの記憶ではない。十二年の小さな出来事、身体感覚、怒り、疲労、安心、習慣。その集積です」


「今の私が消える?」


「そうは言っていない。でも、大きく変わる」


 凪が立ち上がった。点滴台が揺れる。


「駄目」


「凪」


「戻さないで。姉ちゃんが頼んだんだよ」


「十八年前の私が」


「姉ちゃんだよ」


「今の私も、私です」


「分かってる!」


 凪の声が響く。


「分かってるから嫌なんだよ。今の姉ちゃんが消えるかもしれないんでしょ」


「消えるとは」


「私にとっては同じ」


 凪は言う。


「今の姉ちゃんは、私が灯と出会った話を知ってる。仕事の愚痴も、母さんと喧嘩したことも、食堂のことも」


「一部、もう忘れています」


「だからこれ以上なくさないで。こよみの母親になるために、私の姉ちゃんじゃなくならないで」


 澪はすぐに返せなかった。


 こよみを取り戻す。


 言葉だけなら美しい。


 だが、そのために凪との十八年が押し出される。


「今夜は戻しません」


 澪は言った。


「約束?」


 約束という言葉が怖かった。


 今ここで永続的な約束を作れば、未来の自分をまた縛る。


「今夜は」


 言い直す。


「今夜は戻さない」


 凪は不満そうだった。それでもうなずいた。


 書類の最後。


 署名、冬木澪。


 立会人、鷺沢環。


 もう一人。


 久世朔。


「朔も立ち会った」


「はい」


「反対した?」


「最後まで」


「なぜ」


「こよみを忘れることになるから」


「それだけ?」


「自分が忘れられるからでもあったと思う」


 人間らしい理由だった。


「私は朔に何と言ったんです」


「本人へ聞くべきです」


「あなたも聞いていた」


 環はしばらく黙った。


「久世さんは、いつか後悔すると言った」


「私は」


「『後悔できるくらいなら、それでいい』と答えた」


 奇妙に胸へ残る。


 今の澪は、後悔を避けるために選択しない。


 十八年前の澪は、後悔する未来を選んだ。


「意味が分かりません」


「今なら少し分かる」


「何が」


「後悔するには、選ばなかった方を想像できなければならない」


 朔が主張する、第零を開けば失われる「もし」。


 十八年前の澪は、その代償の一部を知っていたのかもしれない。


 書類の裏側に鉛筆の文字が透けている。


 裏返す。


 九月二十一日。


 忘れても、休むこと。


「これは私の字です」


 凪も環も知らないと言う。


 こよみの誕生日。


 澪は毎年、その日に休暇を取ってきた。理由を知らず、予定も入れず、一人で過ごした。


 完全には忘れていなかった。


 名前も感情も切り離して。


 誕生日だけを、未来の自分へ残した。


「明日の午後四時まで、あと十九時間ですね」


「そうです」


「それまでに、知る必要があることを全部知ります」


「冬木さん」


「記憶を全部戻すとは言っていません。でも、もう『昔の私が決めたから』だけでは従いません」


「昔の判断を軽視しないで」


「していません。だから、この書類を捨てません」


 二十歳の自分が恐れたもの。


 三十八歳の自分が知りたいもの。


「過去の私の選択も、今の私の選択も、両方ここに置きます。その上で、今の私が決めます」


 携帯端末が震えた。


 資料館からの緊急通知。


 第零継続域 異常信号を検出

 未登録記憶 一件

 所有者 冬木こよみ

 再生要求先 冬木澪


 記憶時間、四十七秒。


 安定完全再生回数。


 残り二回。


 通知の下に、黄色い一文。


 お母さんじゃなくていいから、話したい。


 澪の指が止まる。


 母親としてではなく。


 初対面の人間として。


「資料館へ戻ります」


 凪が息を呑む。


 環は即座に言う。


「認めません」


「再生するとは言っていません」


「同じことよ」


「違います。まず、あの子がなぜ私を探しているのか調べます」


 胸元に、十八年前の自分の書類。


 内ポケットに、十三歳になったら海へ行くと書いた少女の絵。


 現在には凪がいる。灯がいる。仕事がある。失いたくない十八年がある。


 どれか一つだけを見て決めることは、もうできなかった。


「姉ちゃん」


 凪が言う。


「私のこと、忘れないで」


 澪はすぐには約束しなかった。


 できない約束はしたくない。


「忘れたくない」


 それが今、言える最も正確な言葉だった。

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