第七章 救われた妹
二月十三日 午後八時十二分
病院の自動扉が開いた瞬間、澪は黄色い扉の絵を握ったままだったことに気づいた。
その向こうに青い海。
13さいになったら いく。
裏には二十八。
原資料固定室から地上へ戻るあいだ、環は透明な保全袋へ入れるよう何度も求めた。澪は拒んだ。
記憶資料かは確認できていない。汚染物質でもない。現実世界に存在している一枚の紙であり、今のところ所有者も不明だった。
本当の理由は別にある。
袋へ入れた瞬間、資料になる気がした。
収蔵番号をつけられ、温度を管理され、誰かが価値を判断するものになる。
こよみが描いたのなら、それは資料である前に、少女が未来へ向けて書いた予定だった。
まだ標本にはしたくなかった。
「ここで待って」
病院のロビーへ入った環が言った。
「凪さんの主治医と話してくる」
「私も行きます」
「まず状態を確認する」
「妹です」
「だからよ」
環は足を止める。
「意識は戻っている。ただ神経過活動が続いている。あなたを見ることで、第零との接続が強くなる可能性がある」
「会っただけで?」
「分からない」
「また、それですか」
環は疲れたように眉間を押さえた。
「分からないから慎重にしているの」
病棟の奥へ消える。
澪はロビーの椅子へ座った。
夜間診療の時間帯だった。
受付では、子どもを抱いた父親が書類を書いている。片手を包帯で覆った若い女が、友人と笑っている。清掃員が自動販売機へ缶を一本ずつ補充している。
普通の病院。
普通の夜。
資料館の地下で、別の世界から紙が出てきたことなど誰も知らない。
明日の午後四時に何かが開くことも。
澪は周囲の人間を一人ずつ見た。
父親。
眠る子ども。
包帯の女。
友人。
受付職員。
清掃員。
もし第零が開けば、この人たちはどうなる。
同じ人物として残るのか。
別の人生へ変わるのか。
存在しなくなるのか。
環が言った。
現在の世界には、今夜帰る家があり、明日会う相手がいる。
その言葉が、初めて具体的な重さを持った。
世界は大きなものとして存在しているのではない。
子どもの靴下を直す父親。包帯の巻き方を笑う誰か。自動販売機へ一本ずつ缶を入れる人。
そういう小さな継続の集まりだった。
こよみに十三歳の予定があるように、この人たちにも明日がある。
「姉ちゃん」
声。
病棟への入口に、凪が立っていた。
病衣の上に灰色の上着。右手で点滴台を押し、左手に自分の靴。
三十四歳。
澪より四つ年下。
顔色は悪い。それでも病人らしく寝ている人間には見えなかった。
「何してるの」
澪は立つ。
「そっちこそ」
「病室にいて」
「主治医にはトイレって言った」
「嘘じゃない」
「途中までは本当に行った」
「戻って」
「姉ちゃんが来てるって聞いたから」
「誰から」
「灯」
三枝灯。
名も顔も浮かぶ。
黒髪を短く切り、笑うと右頬にだけ薄いえくぼ。凪と同じ救急救命士だった。一年前に現場勤務を減らし、救命講習の指導をしている。二人は来春から小さな食堂を開く計画を立てていた。
情報を一つずつ確認する。
まだ失っていない。
「灯さん、ここにいるの?」
「駐車場。私の鞄を取りに行ってる」
「一番に連絡したんだ」
「倒れたら一番最初に呼ぶ人だから」
当然のように言う。
一番最初に呼ぶ人。
そういう人が、自分にもいたのだろうか。十八年前の朔がそうだったのかもしれない。
「座って」
「姉ちゃんに言われると腹立つな」
「なぜ」
「いつも私が言う側だから」
凪は椅子へ腰を下ろし、顔をしかめた。
澪が手を伸ばす。
凪は片手を上げて止める。
「大丈夫」
「大丈夫な人は救急車で運ばれない」
「救急車に乗った人が全員死にそうだと思ってる?」
「そうは言っていない」
「乗せる側としては、これくらい普通」
「今は乗せられた側でしょう」
凪は点滴台へ背を預けた。
「何が起きたの」
「高速の高架下。自転車と配送車の接触」
「患者は」
「軽傷。右手首たぶん骨折」
「その現場で?」
「離れる前。急に頭の中で、知らない音がした」
「どんな」
「食器が割れる音」
「実際には」
「路上。食器なんてない」
「ほかは」
「女の子が泣いてた」
澪の身体が固くなる。
「こよみじゃないよ」
名前を言われた。
「知ってるんだ」
「十八年前から」
「十二年前に生まれた子の名前を?」
「その言い方だと、やっぱり生まれたんだね」
「質問に答えて」
凪は点滴の管を指でつまむ。
「第零実験のあと、一回だけ聞いた」
「誰から」
「姉ちゃん」
澪は何も言わない。
「事故のあと、三日くらい眠れてなかった。私の病室にも来たり来なかったり。ある夜、急に来て、ベッドの横へ座った」
「何を話したの」
「最初は何も。ずっと私の顔を見てた」
「それが嫌だった?」
「私じゃない誰かと比べてるみたいで」
澪は口を閉じた。
「私が何って聞いたら、姉ちゃん泣いた」
「私は、あなたの前で泣くことがあった?」
「昔はね」
凪が少し笑う。
「今は葬式でも泣かないけど」
「続きは」
「女の子がいたって。小さい子が、自分をお母さんって呼んだって」
「年齢は」
「分からない。姉ちゃんも混乱してた」
「名前は」
「翌日。こよみって名前だったって」
「名づけたとは言わなかった?」
「言わなかった」
十八年前の澪は、すでに名を知っていた。
なら、環が言った、澪の脳のどこかに名前が残っていた可能性は一部正しい。
だが、資料自身が再生前から名を持っていた事実は残る。
「なぜ今まで言わなかったの」
「言うなって言われたから」
「誰に」
凪は答えない。
「環?」
「違う」
「朔?」
「違う」
澪は妹の顔を見る。
「私?」
凪はうなずく。
「何と言ったの」
「思い出したいって言っても、話すなって」
「理由は」
「教えてくれなかった。ただ、私を見ながら言った」
凪は澪をまっすぐ見る。
「あなたを見るたびに、あの子を思い出すようになったら嫌だから、って」
ロビーの音が遠くなる。
「私は、あなたを憎んでいた?」
「知らない」
「そうなるのを恐れた」
「たぶん」
「あなたを救ったから、こよみを失ったと思っていた?」
「それも知らない」
凪は言う。
「でも、私はそう思った」
「ずっと?」
「十代のうちは結構」
凪は笑おうとした。うまくいかない。
「姉ちゃんが私を助けたから、姉ちゃんの人生が壊れたって思ってた」
「そんなこと」
「今の姉ちゃんが否定しても、当時の姉ちゃんがどう思ってたかは変わらない」
正しい。
「だから救急救命士になったの?」
問いが出た。
凪の眉が上がる。
「やめて」
思ったより強い声。周囲が振り返る。
「その話、本当に嫌い」
「ごめん」
「私が救急やってるって言うと、みんな同じこと言う。事故の経験を生かしたんですね。救われた恩を返してるんですね。命の大切さを知ってるんですね」
「私はそこまで」
「同じ」
凪の目が鋭い。
「私が仕事を選んだ理由、一回でも聞いた?」
澪は答えられない。
「なぜなの」
「給料」
澪は瞬きをした。
「最初はね」
「給料」
「高校のとき、母さんの店が潰れかけてた。大学へ行く余裕もない。資格を取れて、早く働けて、手当もつく仕事を探した」
「それで救急救命士」
「あと、体力はあった」
「それだけ?」
「最初は。やってみたら向いてた。それだけ」
「人を救いたかったからでは」
「救いたいよ。今は」
凪の声が穏やかになる。
「でも最初から立派だったことにしないで」
澪は何も言えなかった。
「私、十六歳の事故で人生の全部が決まったわけじゃないから」
その後に十八年がある。
高校を卒業した。就職した。初めて現場へ出た。失敗した。人を救えなかった夜もある。灯と出会った。恋をした。食堂をやろうと決めた。
事故の結果として停止していたわけではない。
「灯さんとは、どうやって知り合ったの」
「急に何」
「聞いたことがなかったと思って」
「聞いたよ。去年の正月」
澪の胸が冷たくなる。
凪の家で鍋を囲んだことは覚えている。灯もいた。凪が酒をこぼした。
出会いを聞いた部分だけが、ない。
「もう一度、教えて」
凪は姉の顔を見た。
「忘れたの」
「少し」
「第零を見たから?」
澪は答えなかった。
凪の顔から怒りが消え、恐怖が浮かぶ。
「どこまで見た」
「こよみの家。雨漏りの夜」
「もう見ないで」
「そうはいかない」
「何を忘れるか分からないんでしょ」
「だから確認している」
「確認してる間に、私たちのこと忘れたら?」
澪は返せない。
凪は視線を外した。
「灯と会ったのは三年前。大量事故の研修。机が足りなくて、私の隣へ無理やり座ってきた」
「灯さんから?」
「そう。初対面なのに私のコーヒー飲んだ」
「間違えて?」
「本人はそう言う。でも絶対わざと」
凪の口元に笑み。
「研修のあと返せって言ったら、新しいの買うから一緒に行こうって」
「告白は」
「私」
「意外」
「何が」
「灯さんの方かと」
「灯を何だと思ってるの」
少しだけ、いつもの会話になった。
澪は覚えようとした。
三年前。
大量事故研修。
コーヒー。
凪から告白。
「食堂は」
「来年四月」
「場所」
「西口の古い商店街」
「名前」
「まだ。姉ちゃんには絶対決めさせない」
「なぜ」
「前に候補を出してもらったら、全部資料館みたいだった」
「覚えてない」
「『余白』とか『分岐点』とか」
「悪くないと思う」
「食堂だよ」
「分かってる」
「灯は『おかえり』がいいって」
「それは食堂らしい」
「私はちょっと恥ずかしい」
「でも好きなんでしょう」
凪は答えない。顔に出ている。
「姉ちゃん」
「何」
「私を理由にしないでね」
「何の」
「明日のこと」
「何が起きるか知ってるの」
「全部は知らない」
今度は、怒らなかった。
「知っている範囲を話して」
「第零が開いたら、今の世界が危なくなる。私は、この世界の……」
凪が額へ手を当てる。
「現実の錨?」
「それ」
「誰から」
「環先生。事故のあと」
「私も聞かされた?」
「たぶん」
「忘れた」
「そうだね」
「あなたが生きていることが、こちらを固定している」
「そう言われた」
「だから症状が出た」
「たぶん」
澪は凪を見る。
「もし、現在を守るためにあなたが必要なら」
「そういう顔しないで」
「まだ何も」
「分かるよ。姉ちゃん、すぐ私を『守るもの』にするから」
「妹だから」
「それが嫌」
凪の声は低い。
「私が生きてる世界を残してって言えば、姉ちゃんは私のために選んだことにする。私が、こよみを助けていいよって言えば、今度は私が自分を犠牲にしたことになる」
「凪」
「どっちも嫌」
「でも、あなたの人生が失われるかもしれない」
「だから何」
「だから何って」
「私の人生をどう扱うかは、私も決める。でも世界をどっちにするかまで、私が決める気はない」
「自分が消える可能性があっても?」
「怖いよ」
即答だった。
「食堂やりたい。灯と一緒に住みたい。来月、温泉行く予定。まだ救急も辞めたくない」
声が一度だけ途切れる。
「この前、現場で助けた高校生が、春になったら会いに来るって言った。別に来なくていいのに、ちょっと待ってる」
澪は黙って聞く。
「母さんとも、まだ話してないことある。姉ちゃんにも借りた本を返してない」
「それはいい」
「よくない。三年借りてる」
「もうあげる」
「そういうことじゃない」
凪は笑った。
「死にたくないよ」
小さな声だった。
澪は手を伸ばした。
今度は凪も止めない。
手を握る。冷たい。
「でも、だからって、こよみを消せとも言えない」
「会ったこともないのに」
「姉ちゃんが、あの子の名を忘れるために私のことまで怖がったんでしょ。何か、いたんだと思う」
「人間だと思う?」
「知らない」
「あなたなら、どうする」
凪の表情が変わる。
「それ、ずるいよ」
「なぜ」
「私に決めさせようとしてる」
澪は息を止めた。
無意識だった。
凪が現在を残してと言えば、その言葉を理由にできる。こよみを救ってと言えば、それも。
十一歳の冬と同じ。
「ごめん」
「姉ちゃん、昔からそうだよ。私に聞いて、私が決めた方にする」
「知ってる」
「十一歳のときも」
やはり覚えている。
「母さんの方がいいって言ったの、私だから」
「あなたは五歳だった」
「でも姉ちゃんは聞いた。私、ずっと少し嫌だった」
「何が」
「私が母さんって言ったから、姉ちゃんも母さんについてきたみたいに言うこと。五歳の私が、姉ちゃんの人生を決めたみたいじゃん」
「そんなつもりでは」
「分かってる。でも、姉ちゃんが決めたんだよ」
父の声が戻る。
おまえが選んだんだからな。
責任を押しつけられた気がして、澪は選択そのものから距離を取るようになった。
凪は責めているのではない。
選択を返そうとしている。
「私が母さんって言ったあと、姉ちゃんは自分で母さんについていった」
「……うん」
「第零も同じにしないで」
「分かった」
「私が何を言っても、最後は姉ちゃんが決めて」
怖かった。
逃げ道が一つ減る。
同時に、少しだけ身体が軽くなった。
廊下の向こうから足音。
「凪!」
三枝灯が走ってきた。片手に大きな仕事鞄、もう片方に凪の靴下と携帯端末。
「何で出てるの」
「トイレ」
「反対」
「遠回りした」
「点滴引きずって?」
灯は凪の前へ来ると、まず顔色を見て、次に点滴の流量を確かめ、最後に澪を見る。
「澪さん、こんばんは」
「こんばんは」
知っている人。
何度も会っている。
その事実を確認する。
「すみません、止められなくて」
「いつものことです」
「姉ちゃんまでそっち側に行く?」
灯は凪へ靴下を渡した。
「先生が探してる。あと三分」
「五分」
「戻るなら四分」
「分かった」
二人のやり取りには、長く一緒にいる人間の気安さがあった。
凪が灯の肩へ触れる。灯が考えず点滴台を引き寄せる。
小さな動き。
第零実験とは無関係の時間が、そこにある。
凪が灯を先に病室へ行かせたあと、仕事鞄の前面ポケットから透明な封筒を出した。
古い紙。角が黄ばんでいる。
「これ、十八年間持ってた」
「何ですか」
「姉ちゃんの字」
紙の一番下に署名。
冬木澪。
二十歳の自分の字だった。
「事故のあと、姉ちゃんが書いた」
書類上部。
感情記憶隔離に関する本人意思確認書。
「なぜ今まで」
「言わないでって言われたから」
「今日まで?」
「期限はなかった」
「なら、なぜ今」
「姉ちゃんが、自分で下へ行ったから」
凪は封筒を澪の手へ押しつけた。
「これ読んだら、たぶん私に怒ると思う」
「私が頼んだんでしょう」
「それでも。守ってたのか、逃げてたのか、自分でも分かんない」
そのとき、環が主治医とともに現れた。
環の目が封筒へ向く。
足が止まる。
「凪さん。それを、まだ持っていたの」
「持ってました」
「渡してはいけないと言われたはず」
「誰に?」
環は答えない。
凪は澪と環の間に立たなかった。一歩だけ離れた。
「これは姉ちゃんのだから。読むかどうかも、姉ちゃんが決める」
澪は封筒の端へ指をかけた。
「冬木さん」
環の目に制止と、それ以上の恐怖。
「それを読めば、忘れた理由まで思い出そうとする」
「それがいけないんですか」
「取り戻す記憶には、場所が必要になる」
「何の話です」
「人間の記憶容量は無限ではない」
澪の指が止まる。
「失った十八年前を戻すなら、その分だけ、今のあなたから何かが失われる」
凪を見る。
灯との出会い。
コーヒー。
食堂。
今、覚え直したばかりのこと。
澪は封筒を開かなかった。
まだ。
手放しもしなかった。
十八年前の自分が、現在の自分へ何を禁じたのか。
何を守ろうとしたのか。
答えは、薄い紙一枚の向こう側にあった。




