表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第二部 存在しなかった家族

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/24

第七章 救われた妹

二月十三日 午後八時十二分


 病院の自動扉が開いた瞬間、澪は黄色い扉の絵を握ったままだったことに気づいた。


 その向こうに青い海。


 13さいになったら いく。


 裏には二十八。


 原資料固定室から地上へ戻るあいだ、環は透明な保全袋へ入れるよう何度も求めた。澪は拒んだ。


 記憶資料かは確認できていない。汚染物質でもない。現実世界に存在している一枚の紙であり、今のところ所有者も不明だった。


 本当の理由は別にある。


 袋へ入れた瞬間、資料になる気がした。


 収蔵番号をつけられ、温度を管理され、誰かが価値を判断するものになる。


 こよみが描いたのなら、それは資料である前に、少女が未来へ向けて書いた予定だった。


 まだ標本にはしたくなかった。


「ここで待って」


 病院のロビーへ入った環が言った。


「凪さんの主治医と話してくる」


「私も行きます」


「まず状態を確認する」


「妹です」


「だからよ」


 環は足を止める。


「意識は戻っている。ただ神経過活動が続いている。あなたを見ることで、第零との接続が強くなる可能性がある」


「会っただけで?」


「分からない」


「また、それですか」


 環は疲れたように眉間を押さえた。


「分からないから慎重にしているの」


 病棟の奥へ消える。


 澪はロビーの椅子へ座った。


 夜間診療の時間帯だった。


 受付では、子どもを抱いた父親が書類を書いている。片手を包帯で覆った若い女が、友人と笑っている。清掃員が自動販売機へ缶を一本ずつ補充している。


 普通の病院。


 普通の夜。


 資料館の地下で、別の世界から紙が出てきたことなど誰も知らない。


 明日の午後四時に何かが開くことも。


 澪は周囲の人間を一人ずつ見た。


 父親。


 眠る子ども。


 包帯の女。


 友人。


 受付職員。


 清掃員。


 もし第零が開けば、この人たちはどうなる。


 同じ人物として残るのか。


 別の人生へ変わるのか。


 存在しなくなるのか。


 環が言った。


 現在の世界には、今夜帰る家があり、明日会う相手がいる。


 その言葉が、初めて具体的な重さを持った。


 世界は大きなものとして存在しているのではない。


 子どもの靴下を直す父親。包帯の巻き方を笑う誰か。自動販売機へ一本ずつ缶を入れる人。


 そういう小さな継続の集まりだった。


 こよみに十三歳の予定があるように、この人たちにも明日がある。


「姉ちゃん」


 声。


 病棟への入口に、凪が立っていた。


 病衣の上に灰色の上着。右手で点滴台を押し、左手に自分の靴。


 三十四歳。


 澪より四つ年下。


 顔色は悪い。それでも病人らしく寝ている人間には見えなかった。


「何してるの」


 澪は立つ。


「そっちこそ」


「病室にいて」


「主治医にはトイレって言った」


「嘘じゃない」


「途中までは本当に行った」


「戻って」


「姉ちゃんが来てるって聞いたから」


「誰から」


「灯」


 三枝灯。


 名も顔も浮かぶ。


 黒髪を短く切り、笑うと右頬にだけ薄いえくぼ。凪と同じ救急救命士だった。一年前に現場勤務を減らし、救命講習の指導をしている。二人は来春から小さな食堂を開く計画を立てていた。


 情報を一つずつ確認する。


 まだ失っていない。


「灯さん、ここにいるの?」


「駐車場。私の鞄を取りに行ってる」


「一番に連絡したんだ」


「倒れたら一番最初に呼ぶ人だから」


 当然のように言う。


 一番最初に呼ぶ人。


 そういう人が、自分にもいたのだろうか。十八年前の朔がそうだったのかもしれない。


「座って」


「姉ちゃんに言われると腹立つな」


「なぜ」


「いつも私が言う側だから」


 凪は椅子へ腰を下ろし、顔をしかめた。


 澪が手を伸ばす。


 凪は片手を上げて止める。


「大丈夫」


「大丈夫な人は救急車で運ばれない」


「救急車に乗った人が全員死にそうだと思ってる?」


「そうは言っていない」


「乗せる側としては、これくらい普通」


「今は乗せられた側でしょう」


 凪は点滴台へ背を預けた。


「何が起きたの」


「高速の高架下。自転車と配送車の接触」


「患者は」


「軽傷。右手首たぶん骨折」


「その現場で?」


「離れる前。急に頭の中で、知らない音がした」


「どんな」


「食器が割れる音」


「実際には」


「路上。食器なんてない」


「ほかは」


「女の子が泣いてた」


 澪の身体が固くなる。


「こよみじゃないよ」


 名前を言われた。


「知ってるんだ」


「十八年前から」


「十二年前に生まれた子の名前を?」


「その言い方だと、やっぱり生まれたんだね」


「質問に答えて」


 凪は点滴の管を指でつまむ。


「第零実験のあと、一回だけ聞いた」


「誰から」


「姉ちゃん」


 澪は何も言わない。


「事故のあと、三日くらい眠れてなかった。私の病室にも来たり来なかったり。ある夜、急に来て、ベッドの横へ座った」


「何を話したの」


「最初は何も。ずっと私の顔を見てた」


「それが嫌だった?」


「私じゃない誰かと比べてるみたいで」


 澪は口を閉じた。


「私が何って聞いたら、姉ちゃん泣いた」


「私は、あなたの前で泣くことがあった?」


「昔はね」


 凪が少し笑う。


「今は葬式でも泣かないけど」


「続きは」


「女の子がいたって。小さい子が、自分をお母さんって呼んだって」


「年齢は」


「分からない。姉ちゃんも混乱してた」


「名前は」


「翌日。こよみって名前だったって」


「名づけたとは言わなかった?」


「言わなかった」


 十八年前の澪は、すでに名を知っていた。


 なら、環が言った、澪の脳のどこかに名前が残っていた可能性は一部正しい。


 だが、資料自身が再生前から名を持っていた事実は残る。


「なぜ今まで言わなかったの」


「言うなって言われたから」


「誰に」


 凪は答えない。


「環?」


「違う」


「朔?」


「違う」


 澪は妹の顔を見る。


「私?」


 凪はうなずく。


「何と言ったの」


「思い出したいって言っても、話すなって」


「理由は」


「教えてくれなかった。ただ、私を見ながら言った」


 凪は澪をまっすぐ見る。


「あなたを見るたびに、あの子を思い出すようになったら嫌だから、って」


 ロビーの音が遠くなる。


「私は、あなたを憎んでいた?」


「知らない」


「そうなるのを恐れた」


「たぶん」


「あなたを救ったから、こよみを失ったと思っていた?」


「それも知らない」


 凪は言う。


「でも、私はそう思った」


「ずっと?」


「十代のうちは結構」


 凪は笑おうとした。うまくいかない。


「姉ちゃんが私を助けたから、姉ちゃんの人生が壊れたって思ってた」


「そんなこと」


「今の姉ちゃんが否定しても、当時の姉ちゃんがどう思ってたかは変わらない」


 正しい。


「だから救急救命士になったの?」


 問いが出た。


 凪の眉が上がる。


「やめて」


 思ったより強い声。周囲が振り返る。


「その話、本当に嫌い」


「ごめん」


「私が救急やってるって言うと、みんな同じこと言う。事故の経験を生かしたんですね。救われた恩を返してるんですね。命の大切さを知ってるんですね」


「私はそこまで」


「同じ」


 凪の目が鋭い。


「私が仕事を選んだ理由、一回でも聞いた?」


 澪は答えられない。


「なぜなの」


「給料」


 澪は瞬きをした。


「最初はね」


「給料」


「高校のとき、母さんの店が潰れかけてた。大学へ行く余裕もない。資格を取れて、早く働けて、手当もつく仕事を探した」


「それで救急救命士」


「あと、体力はあった」


「それだけ?」


「最初は。やってみたら向いてた。それだけ」


「人を救いたかったからでは」


「救いたいよ。今は」


 凪の声が穏やかになる。


「でも最初から立派だったことにしないで」


 澪は何も言えなかった。


「私、十六歳の事故で人生の全部が決まったわけじゃないから」


 その後に十八年がある。


 高校を卒業した。就職した。初めて現場へ出た。失敗した。人を救えなかった夜もある。灯と出会った。恋をした。食堂をやろうと決めた。


 事故の結果として停止していたわけではない。


「灯さんとは、どうやって知り合ったの」


「急に何」


「聞いたことがなかったと思って」


「聞いたよ。去年の正月」


 澪の胸が冷たくなる。


 凪の家で鍋を囲んだことは覚えている。灯もいた。凪が酒をこぼした。


 出会いを聞いた部分だけが、ない。


「もう一度、教えて」


 凪は姉の顔を見た。


「忘れたの」


「少し」


「第零を見たから?」


 澪は答えなかった。


 凪の顔から怒りが消え、恐怖が浮かぶ。


「どこまで見た」


「こよみの家。雨漏りの夜」


「もう見ないで」


「そうはいかない」


「何を忘れるか分からないんでしょ」


「だから確認している」


「確認してる間に、私たちのこと忘れたら?」


 澪は返せない。


 凪は視線を外した。


「灯と会ったのは三年前。大量事故の研修。机が足りなくて、私の隣へ無理やり座ってきた」


「灯さんから?」


「そう。初対面なのに私のコーヒー飲んだ」


「間違えて?」


「本人はそう言う。でも絶対わざと」


 凪の口元に笑み。


「研修のあと返せって言ったら、新しいの買うから一緒に行こうって」


「告白は」


「私」


「意外」


「何が」


「灯さんの方かと」


「灯を何だと思ってるの」


 少しだけ、いつもの会話になった。


 澪は覚えようとした。


 三年前。


 大量事故研修。


 コーヒー。


 凪から告白。


「食堂は」


「来年四月」


「場所」


「西口の古い商店街」


「名前」


「まだ。姉ちゃんには絶対決めさせない」


「なぜ」


「前に候補を出してもらったら、全部資料館みたいだった」


「覚えてない」


「『余白』とか『分岐点』とか」


「悪くないと思う」


「食堂だよ」


「分かってる」


「灯は『おかえり』がいいって」


「それは食堂らしい」


「私はちょっと恥ずかしい」


「でも好きなんでしょう」


 凪は答えない。顔に出ている。


「姉ちゃん」


「何」


「私を理由にしないでね」


「何の」


「明日のこと」


「何が起きるか知ってるの」


「全部は知らない」


 今度は、怒らなかった。


「知っている範囲を話して」


「第零が開いたら、今の世界が危なくなる。私は、この世界の……」


 凪が額へ手を当てる。


「現実の錨?」


「それ」


「誰から」


「環先生。事故のあと」


「私も聞かされた?」


「たぶん」


「忘れた」


「そうだね」


「あなたが生きていることが、こちらを固定している」


「そう言われた」


「だから症状が出た」


「たぶん」


 澪は凪を見る。


「もし、現在を守るためにあなたが必要なら」


「そういう顔しないで」


「まだ何も」


「分かるよ。姉ちゃん、すぐ私を『守るもの』にするから」


「妹だから」


「それが嫌」


 凪の声は低い。


「私が生きてる世界を残してって言えば、姉ちゃんは私のために選んだことにする。私が、こよみを助けていいよって言えば、今度は私が自分を犠牲にしたことになる」


「凪」


「どっちも嫌」


「でも、あなたの人生が失われるかもしれない」


「だから何」


「だから何って」


「私の人生をどう扱うかは、私も決める。でも世界をどっちにするかまで、私が決める気はない」


「自分が消える可能性があっても?」


「怖いよ」


 即答だった。


「食堂やりたい。灯と一緒に住みたい。来月、温泉行く予定。まだ救急も辞めたくない」


 声が一度だけ途切れる。


「この前、現場で助けた高校生が、春になったら会いに来るって言った。別に来なくていいのに、ちょっと待ってる」


 澪は黙って聞く。


「母さんとも、まだ話してないことある。姉ちゃんにも借りた本を返してない」


「それはいい」


「よくない。三年借りてる」


「もうあげる」


「そういうことじゃない」


 凪は笑った。


「死にたくないよ」


 小さな声だった。


 澪は手を伸ばした。


 今度は凪も止めない。


 手を握る。冷たい。


「でも、だからって、こよみを消せとも言えない」


「会ったこともないのに」


「姉ちゃんが、あの子の名を忘れるために私のことまで怖がったんでしょ。何か、いたんだと思う」


「人間だと思う?」


「知らない」


「あなたなら、どうする」


 凪の表情が変わる。


「それ、ずるいよ」


「なぜ」


「私に決めさせようとしてる」


 澪は息を止めた。


 無意識だった。


 凪が現在を残してと言えば、その言葉を理由にできる。こよみを救ってと言えば、それも。


 十一歳の冬と同じ。


「ごめん」


「姉ちゃん、昔からそうだよ。私に聞いて、私が決めた方にする」


「知ってる」


「十一歳のときも」


 やはり覚えている。


「母さんの方がいいって言ったの、私だから」


「あなたは五歳だった」


「でも姉ちゃんは聞いた。私、ずっと少し嫌だった」


「何が」


「私が母さんって言ったから、姉ちゃんも母さんについてきたみたいに言うこと。五歳の私が、姉ちゃんの人生を決めたみたいじゃん」


「そんなつもりでは」


「分かってる。でも、姉ちゃんが決めたんだよ」


 父の声が戻る。


 おまえが選んだんだからな。


 責任を押しつけられた気がして、澪は選択そのものから距離を取るようになった。


 凪は責めているのではない。


 選択を返そうとしている。


「私が母さんって言ったあと、姉ちゃんは自分で母さんについていった」


「……うん」


「第零も同じにしないで」


「分かった」


「私が何を言っても、最後は姉ちゃんが決めて」


 怖かった。


 逃げ道が一つ減る。


 同時に、少しだけ身体が軽くなった。


 廊下の向こうから足音。


「凪!」


 三枝灯が走ってきた。片手に大きな仕事鞄、もう片方に凪の靴下と携帯端末。


「何で出てるの」


「トイレ」


「反対」


「遠回りした」


「点滴引きずって?」


 灯は凪の前へ来ると、まず顔色を見て、次に点滴の流量を確かめ、最後に澪を見る。


「澪さん、こんばんは」


「こんばんは」


 知っている人。


 何度も会っている。


 その事実を確認する。


「すみません、止められなくて」


「いつものことです」


「姉ちゃんまでそっち側に行く?」


 灯は凪へ靴下を渡した。


「先生が探してる。あと三分」


「五分」


「戻るなら四分」


「分かった」


 二人のやり取りには、長く一緒にいる人間の気安さがあった。


 凪が灯の肩へ触れる。灯が考えず点滴台を引き寄せる。


 小さな動き。


 第零実験とは無関係の時間が、そこにある。


 凪が灯を先に病室へ行かせたあと、仕事鞄の前面ポケットから透明な封筒を出した。


 古い紙。角が黄ばんでいる。


「これ、十八年間持ってた」


「何ですか」


「姉ちゃんの字」


 紙の一番下に署名。


 冬木澪。


 二十歳の自分の字だった。


「事故のあと、姉ちゃんが書いた」


 書類上部。


 感情記憶隔離に関する本人意思確認書。


「なぜ今まで」


「言わないでって言われたから」


「今日まで?」


「期限はなかった」


「なら、なぜ今」


「姉ちゃんが、自分で下へ行ったから」


 凪は封筒を澪の手へ押しつけた。


「これ読んだら、たぶん私に怒ると思う」


「私が頼んだんでしょう」


「それでも。守ってたのか、逃げてたのか、自分でも分かんない」


 そのとき、環が主治医とともに現れた。


 環の目が封筒へ向く。


 足が止まる。


「凪さん。それを、まだ持っていたの」


「持ってました」


「渡してはいけないと言われたはず」


「誰に?」


 環は答えない。


 凪は澪と環の間に立たなかった。一歩だけ離れた。


「これは姉ちゃんのだから。読むかどうかも、姉ちゃんが決める」


 澪は封筒の端へ指をかけた。


「冬木さん」


 環の目に制止と、それ以上の恐怖。


「それを読めば、忘れた理由まで思い出そうとする」


「それがいけないんですか」


「取り戻す記憶には、場所が必要になる」


「何の話です」


「人間の記憶容量は無限ではない」


 澪の指が止まる。


「失った十八年前を戻すなら、その分だけ、今のあなたから何かが失われる」


 凪を見る。


 灯との出会い。


 コーヒー。


 食堂。


 今、覚え直したばかりのこと。


 澪は封筒を開かなかった。


 まだ。


 手放しもしなかった。


 十八年前の自分が、現在の自分へ何を禁じたのか。


 何を守ろうとしたのか。


 答えは、薄い紙一枚の向こう側にあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ