表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第二部 存在しなかった家族

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/24

第六章 雨漏りの家

二月十三日 午後六時二十一分


 昇降機の扉の向こうには、廊下ではなく円形の部屋があった。


 照明は消えている。中央の黒い円筒だけが、深い水の底にいる生き物のように青い光を明滅させていた。


 壁際に三脚の椅子。


 どれも頭部を固定する金属枠と、腕を載せる台がある。長く使われていないはずなのに、埃は積もっていない。


 床の溝に沿って、銀色の線が中央の円筒へ集まっている。


 天井に古い文字。


 原資料固定室。


 澪が降りると、足元の灯りが一つずつ点いた。三脚の椅子の背面に表示が浮かぶ。


 被験者 冬木凪(ふゆきなぎ)


 継続接続者 久世朔


 選択基準者 冬木澪


 澪は自分の名が記された椅子の前で止まった。右肘掛けに赤い緊急停止ボタン。表面には、爪で引っかいたような半月形の傷がある。


「私がつけたものですか」


「たぶん」


「覚えていないんですか」


「あのときは、誰がどこへ触れていたかまで記録されてない」


 昇降機の扉が閉じ、天井から古い合成音声が流れた。


「一次観測者の原資料保全権は終了しました」


 壁に表示。


 管理者による強制入室まで 二十六分。


「二十六分で何を」


「原記録を見せる」


「どれが原記録です」


 朔は中央の円筒へ手を当てた。青い光が強まり、崩れた数字と記号が表面に現れる。


 基準記憶 固定中


 継続信号 受信中


 終了命令 未確定


「停止していない」


「十八年前から」


「なぜ電源を切らなかったんです」


「切ろうとした。何度も」


「切れなかった?」


「切れば、中にあるものがどうなるか分からなかった」


「実験資料が失われる」


「最初は、そう呼ばれていた」


 朔は円筒から手を離す。


「事故のあと、この部屋は封鎖された。第零から外へ出る信号は雑音として扱われ、環は消えるのを待った」


「消えなかった」


「時間と一緒に増えた」


「十八年間、あなたは信号を受け取り続けた?」


「完全な形ではない。夢に近い日もある。音しか来ない日も。何か月も途切れることもあった」


「自分の想像と区別できますか」


「できないこともある」


「それを原記録と呼ぶのは不正確です」


「だから、この部屋まで来た。ここなら、僕が後から書き換えた部分と、第零から直接届いた部分をある程度分けられる」


「完全に?」


「できる範囲で」


 澪は凪の名が記された椅子を見る。その表示だけ暗い。


「第零へ直接つなぐには、凪を含む三人の神経鍵が必要?」


「そうだ。今できるのは、僕が受け取ってきたものを、原信号と照合して見せることだけ」


「どの記憶を」


「君が選べばいい」


「内容を知らずに選べません」


「日付なら指定できる」


「幸福な場面は除外します」


 朔は疲れた顔をした。


「また、それか」


「誕生日や旅行を見せられても、あなたが失いたくないものしか分かりません」


「自転車の日は幸福だったか」


「最後には三人で帰りました」


「家族なら、歩いて帰るだけで幸福に見えるのか」


「少なくとも、あなたが保存したい記憶です」


 朔は止まった時計へ目を落とした。


「では、最近の夜を見せる」


「いつ」


「今年の一月二十八日」


 最初の再生から二週間ほど前。


「何があったんです」


「こよみが金を盗んだ」


 澪は朔を見る。


「理由は」


「見れば分かる」


「あなたは、その行為をどう評価していますか」


「悪いことだ。同時に、そうさせた理由の一部は僕にある」


「そのように解釈した記憶ということですね」


「そうかもしれない」


「記憶の中の私は」


 朔は少し迷った。


「こよみを傷つける」


「どうやって」


「言ってはいけないことを言いかける」


「何を」


「先には言わない」


 第零の澪は、現在の澪とは別の人生を歩んだ人間だ。それでも自分から分かれた存在である以上、都合の悪い言葉を完全な他人事として見ることはできない。


 澪は自分の名が表示された椅子へ座った。


「接続深度は十パーセント。運動感覚は遮断。感情は発信者を識別できる形に。途中で境界値が上がったら、私の意思を待たずに切ってください」


 朔は一瞬黙った。


「返事を」


「分かった」


「記録は、この部屋の固定層へ。複製の所有権は私へ」


「できる」


 端子が下りる。


 中央の円筒が回転を始めた。


 原信号照合

 受信記憶 二〇五〇年一月二十八日

 発信履歴 第零継続域

 観測者情報使用率 一・二パーセント


 通常の未生記憶ではあり得ないほど低い。観測者による補完をほとんど必要としていない。


 所有者欄には、複数、とあった。


「家族三人の記憶が混ざっている?」


「同じ場所にいた人間の感覚が、互いを補っている」


「そんな抽出方式はありません」


「現在の技術には」


 接続が始まった。


 最初に落ちてきたのは雨だった。


 冷たい滴が額へ当たる。


 目を開けると、最初に見た台所にいた。


 同じ窓。同じ冷蔵庫。同じ白い壁紙。


 ただし夜だった。


 室内のあちこちに、金属製の鍋や青い洗面器が置かれている。


 雨漏り。


 天井の三か所から水が落ちていた。


 ぽつ。


 ぽつ。


 少し遅れて、別の場所から。


 ぽつ。


 三つの音が不揃いな拍子を作る。


 この家に二週間前にもいた、という感覚が澪へ流れ込む。床の洗面器を何度も空にした。夕食を温め直した。帰らない朔へ三度連絡した。


 これは第零の澪の記憶。


 現在の自分のものではない。


 そう線を引く。


 視界が変わる。


 玄関前。朔の視点。手には濡れた外套と仕事鞄。


「ただいま」


 返事はない。


 台所へ入ると、三十八歳の澪が流し台の前に立っていた。現在の澪と同じ年齢。髪は肩より短く、袖を肘までまくって濡れた布巾を絞っている。左手の薬指に銀色の指輪。


 食卓の向こうに、こよみ。


 目の前の段ボール箱から、黒い機械を取り出している。細いねじ回し。黒い筒。三脚。傷ついた接眼部。


 小型の天体望遠鏡。


「それ、どうした」


 こよみの手が止まる。


「もらった」


「誰に」


「友達」


「どの友達」


「お父さんの知らない子」


「名前は」


「知らなくていいじゃん」


 第零の澪が、食卓の端にある茶色い封筒を持ち上げた。修繕費、と書かれている。


「こよみ。もう一度だけ聞くよ。ここに入っていたお金、知らない?」


「知らない」


「一万二千円、足りない」


「最初からじゃないの」


「昨日、数えた」


「お母さんが使ったんでしょ」


「使ってない」


「忘れたんじゃない」


「こよみ」


 朔が名を呼ぶ。


 少女の左足が床を擦る。


「顔を見て」


「嫌」


「お金を取ったのか」


「取ってない」


「では、望遠鏡は誰にもらった」


「友達」


「名前は」


「だから知らなくていいって!」


 こよみが立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、食卓が揺れた。天井から落ちた水が、望遠鏡へ一滴当たる。


 少女は慌てて袖で拭いた。


 誰かにもらった物を扱う手ではない。


 自分で選び、自分のものとして持ち帰った手。


「いくらだった」


 朔が聞く。


 こよみは黙る。


「一万二千円、全部使ったのか」


「九千八百円」


 声は小さい。


 第零の澪が目を閉じる。怒りを抑える閉じ方。


「残りは」


「机の引き出し」


「どうして取ったの」


「欲しかったから」


「欲しければ、家のお金を盗んでいいのか」


「盗んでない。借りただけ」


「誰にも言わず持っていくのを、盗んだと言う」


「返すつもりだった」


「どうやって」


 こよみは答えない。


 朔は望遠鏡を持ち上げた。外装に傷。倍率調整つまみが欠け、鏡筒の端が歪んでいる。


「どこで買った」


「駅の向こうの古い店」


「一人で?」


「一人で行ける」


「そういうことを聞いてない。壊れた物を、九千八百円で買わされたのか」


「直るって言ってた」


「店の人が?」


「たぶんって」


「たぶんで、家の金を」


「直せばいいじゃん!」


 こよみは望遠鏡を指した。


「お父さん、何でも直せるんでしょ」


「これは違う」


「何が」


「中の鏡が割れてる。部品を換えるだけじゃ直らない」


「作ればいいじゃん」


「簡単には作れない」


「お父さんならできるって言った!」


「いつ」


「私が望遠鏡欲しいって言ったとき!」


 朔の中に記憶が浮かぶ。


 夏の夜。集合住宅の屋上。隣の建物に遮られた狭い空。こよみが星を近くで見たいと言った。朔は仕事の連絡を見ながら、いつか作ってやると答えた。


 約束したつもりはなかった。


 こよみにとっては違った。


「だから買ったのか」


「壊れてても、お父さんなら直せると思った」


「先に相談すればよかった」


「相談した」


「いつ」


「何回も」


「僕は聞いてない」


「聞いてないのは、お父さんでしょ!」


 冷蔵庫前の洗面器へ、雨水が大きく落ちる。


「朔」


 第零の澪の声は静かだった。


「今は、お金を取ったことだけ話して」


「同じ話だろ」


「違う。こよみがしたことと、あなたが守らなかった約束は別」


「約束した覚えはない」


「覚えてないなら、してないことになるの?」


 現在の澪の意識が反応した。


 朔が以前、自分へ向けた問いと同じだった。


「君まで、こよみの側に立つのか」


「側の話じゃない」


「今は盗んだことを叱るべきだろ」


「もう話した」


「なら、どうして机に出したまま」


「あなたに直してほしいと言うから」


「直らない」


「見てもいないのに?」


「見れば分かる」


「何でも最初から決めるね」


 その一言で、二人の争いが、こよみから以前のものへ移った。


 この家を出るのは次の研究が終わってから。


 雨漏りを直すのは管理会社の返事を待ってから。


 こよみと出かけるのは仕事が落ち着いてから。


「僕は、この家のために働いてる」


「家にいない人から守られてる感じはしない」


「感情の話で生活費は出ない」


「生活費だけの話なら、あなたじゃなくてもいい」


 言葉が落ちた。


 第零の澪自身も、口にしたあとで動けなくなる。


 朔の胸へ鋭い痛み。怒りより先に、恐怖。自分がいなくてもいいと、本当に思われているのではないか。


「なら、僕がいない生活を選べばいい」


「また全部か何もないかにする」


「君が言ったんだろ」


「いらないなんて言ってない」


「今、言った」


「言ってない!」


 こよみが二人を見ている。


「私のせいで喧嘩してるんでしょ」


「違う」


 第零の澪がすぐ答える。


「嘘」


「こよみのせいじゃない」


「お金取ったから喧嘩してる」


「それより前からだ」


 朔が言う。


「そういうことじゃない!」


「じゃあ何なの」


 こよみは二人を交互に見る。


「私がいなかったら、お金ももっとあるし、お父さんも仕事できるし、お母さんもこんな家にいなくていいんでしょ」


「そんな話はしてない」


「してるじゃん。私のために働いてるって言った。私がいるから引っ越せないって言った」


「こよみ」


「じゃあ、産まなきゃよかったじゃん!」


 雨音だけが残る。


 第零の澪は、すぐに否定しなかった。


 疲労。怒り。繰り返してきた金の話。床の洗面器。直らない天井。返事をしない管理会社。一人で温め直した夕食。


 それらが顔を通り過ぎる。


「そうね」


 声が低かった。


「あなたが生まれてなければ、こんなふうに――」


 最後までは言わない。


 自分の口を、自分の手で覆う。


 こよみは動かなかった。


 泣かなかった。


 ただ、何かを確認するように両親を見た。


 それから望遠鏡を抱き上げ、台所を出ていった。


 第零の澪が追おうとする。


 朔が腕をつかむ。


「今は行くな」


「離して」


「その顔で何を言う」


「謝る」


「自分が楽になるために?」


「あなたに言われたくない」


「そうだな」


 朔は手を離す。


「でも今行けば、こよみに君を許す仕事をさせる」


 第零の澪の肩が下がる。


「じゃあ、どうしたらいいの」


「分からない」


 朔は初めて、その夜、分からないと言った。


 記憶が少し跳ぶ。


 狭い廊下。


 こよみの部屋の扉が数センチ開いている。


 机の灯り。


 壁には、何枚もの扉の絵。黄色。取っ手の形も、向こうの景色も違う。


 紙の隅に、小さな日付が書かれている。


 二〇四七年九月二十一日。


 二〇四八年九月二十三日。


 二〇四九年九月二十一日。


 制作日だろうか、と現在の澪は思った。


 机の前で、こよみは一枚の絵へ黄色を塗っている。


 扉の左側の輪郭だけが消えていた。紙に傷も濡れた跡もない。最初から描かれていなかったように白く抜けている。


 こよみは、消えた線を塗り直す。


 一度では薄い。


 二度。


 三度。


 父と母が、半分開いた扉の外へ立つ。


 こよみは気づいている。肩が一瞬硬くなった。


 それでも振り返らない。


「こよみ」


 第零の澪が扉を軽く叩く。


「さっきのこと、話したい」


「何の話?」


「私が言いかけたこと」


「聞いてない」


「聞こえてたでしょう」


「望遠鏡、直さなくていいから」


「そういう話じゃない」


「もう欲しいものも言わない」


「こよみ」


「じゃあ何」


 第零の澪は答えられない。


 こよみは消えた輪郭を塗り終えた。筆を水へ入れる。透明だった水が、ゆっくり黄色へ変わる。


 少女は扉の絵だけを見つめたまま、母親が言いかけた言葉を、聞こえなかったふりをした。


 その瞬間、記憶の中で黄色い線が走った。


 絵から漏れた色ではない。


 机を越え、床を這い、部屋の輪郭に沿って一瞬光る。


 朔の視点は、その線を認識していない。


 第零の澪も。


 外から見ている現在の澪だけに見えた。


 こよみが筆を置く。


 顔を上げた。


 父でも母でもなく、こちらを見る。


 唇が動く。


 声は聞こえない。


 それでも意味だけが届いた。


 見つけた。


 記憶が崩れた。


 黄色い線が一斉に明るくなり、部屋も家族も望遠鏡も、細かな粒へ引き延ばされる。


「切って」


 澪は言った。


「全部、切って」


「切ってる」


 朔の声が遠い。


 原資料固定室へ戻る。


 身体が椅子の背へぶつかり、呼吸ができない。


 中央の円筒が高速で回転し、青かった光が黄色へ変わっている。


 澪は端子を自分で剥がした。


 床へ片手をつく。


 冷たい。


 右膝が痛い。


 これは現在の痛み。


「冬木澪。三十八歳。国立未生記憶資料館」


 声に出す。


 壁の時刻表示は、午後六時四十四分、午後九時十二分、午前二時〇三分、午後四時十三分と書き換わり、また戻る。


 自分の腕時計。


 午後六時四十五分。


「二〇五〇年二月十三日、午後六時四十五分。ここが現在です」


 呼吸が戻る。


 管理者による強制入室まで、三分十四秒。


 二十六分あったはずの時間が、ほとんどない。


「接続は」


 履歴を見る。


 開始、午後六時二十九分十一秒。


 終了、午後六時四十四分五十八秒。


 十五分四十七秒。


「体感では五分もなかった」


 朔が言う。


 原信号複製。一件。


 観測汚染率、二・八パーセント。


 所有権、冬木澪。


 その下。


 外部挿入信号 一件。


 発信元、第零継続域。


 内容。


 見つけた。


「あなたにも見えましたか」


「何が」


「最後に、こよみがこちらを見た」


 朔は本当に分からない顔をした。


「僕には何も」


 なら、あれは朔の記憶ではない。


 第零側から観測中の澪へ、直接差し込まれた。


「黄色い扉は何ですか」


「分からない」


「こよみは何年も描いている」


「十歳くらいから」


「なぜ」


「聞いても教えなかった」


「線が消えることは」


 朔の目が止まる。


「ある。扉の向こうが変わることも。描いた本人が前と違うことに気づかないときもあった」


「こよみは気づいていた」


「たぶん」


「だから描き直す」


 壁の向こう、下から鈍い音。


 一度。


 また。


 金属を内側から押したような音。


 表示。


 下層区画 圧力変動

 内部信号増大

 管理封鎖 維持不能


 その直後、澪の上着から着信音がした。


 仕事用の受信板。


 資格停止で無効化されたはずなのに点灯している。


 発信者。


 冬木凪。


「凪?」


 通話を開く。


 雑音。その向こうに荒い呼吸。


「姉ちゃん」


「どこにいるの」


「救急車の中。私が乗せる側じゃないやつ」


 冗談を言おうとしている。声は震えていた。


「症状は」


「頭痛。吐き気。少し痙攣。意識はある」


「病院へ行って」


「行ってるって」


「灯さんは」


 名はすぐ出た。


 三枝灯(さえぐさあかり)。凪の恋人。


「連絡した。姉ちゃんにもずっとかけてた」


「地下で通信が」


「ねえ」


 凪が遮る。


「何かした?」


「何を」


「第零」


 朔が顔を上げる。


「なぜ、その名を知ってるの」


「姉ちゃん」


「答えて」


「久世さん、いる?」


「います」


「やっぱり。じゃあ、下への道を開けたんだ」


「何を隠してるの」


「電話じゃ無理」


「今話して」


「私も全部は知らない」


「その言い方は聞き飽きた」


 凪が黙る。


「館長も朔もあなたも、全部は知らないって言う。でも私にだけは何も知らせない。何を守ってるの」


「姉ちゃんを」


「それも聞き飽きた」


「私を守ってる部分もある」


「ほかは」


 長い沈黙。


「私自身」


 予想していなかった答えだった。


「十八年前のことを姉ちゃんが全部思い出したら、私を見る目が変わるのが怖かった」


「どういう意味」


「会って話す」


「病院から出ないで」


「行く」


「どこへ」


「資料館」


「発作を起こしたばかりでしょう」


「だから行く。第零が動いたから、私に症状が出た」


「何が起きてるの」


「たぶん、あっちが近くなってる」


 凪は呼吸を整えた。


「久世さんに、私をつながせないで」


 朔の顔が変わる。


「なぜ」


「三人そろったら、下が開く」


 床下で三度目の音。部屋全体が揺れた。


 表示。


 現実の錨 接近を検出

 神経鍵 三件目 予備照合開始


「凪。絶対に来ないで」


「行くよ」


「来ないで」


「姉ちゃん一人に決めさせる方が危ない」


「何を決めるの」


 凪が息を呑む。


「病院で待ってて」


 通話が切れた。


 管理者による強制入室まで、零。


 扉が開く。


 保安職員、その後ろに環。


 環は室内へ一歩入るなり、中央の円筒と澪と朔を確認した。


「接続したのね」


「しました」


 環の視線が表示へ向かう。


 現実の錨 接近を検出。


 その文字を見た瞬間だけ、顔から血の気が引いた。


「凪さんを来させないで。救急搬送先にも移動禁止と伝えて」


「本人には言いました。来ると言っています」


 環が目を閉じる。


「遅かった」


「何がです」


 返事はない。


「凪が来れば、何が起きるんです」


「今日はもう接続を続けない」


「質問に答えてください」


「あなたの安全だけの問題ではない」


「現在世界を守るため」


「それもある」


「ほかには」


 環は凪の椅子を見る。


「凪さん自身の人格を守るため」


「接続すると壊れる?」


「可能性がある」


「十八年前と同じように?」


 環の口が止まる。


 澪は受信板を握ったまま言う。


「私を守るためという説明は、もう受け入れません」


「あなたの安全だけではない」


「知っています」


 澪は、床へ落ちた黄色い光に気づいた。


 円筒の配線の隙間に、一枚の紙が挟まっている。


 しゃがみ、引き抜く。


 端が少し湿っていた。


 絵。


 黄色い扉。


 向こうに青い海。


 下に子どもの字。


 13さいになったら いく


 裏には、鉛筆で二十八。


「この部屋に、紙を生成する機能はありませんよね」


「ない」


 環の声はかすかだった。


 絵の具は乾ききっていない。


 澪の親指に黄色がついた。


 第零のこよみが、十三歳になったらしたいこと。


 海へ行く。


 消えたい人間が描いた未来ではない。


 澪は黄色く汚れた親指を握った。


 その色だけは、記憶ではなかった。


 現実の皮膚に残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ