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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第一部 声の所有者

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第五章 命令に背く

二月十三日 午後六時二十分


 施錠されてから十九分が過ぎても、誰も旧観測室へ入ってこなかった。


 警報音は鳴らない。赤い照明も点かない。ただ、廊下の端から順に閉じた扉が、外の世界とのつながりを断っていた。


 壁面には、同じ文字が表示され続けている。


 第零継続域より解錠要求を受信

 要求種別 自動継続補正

 優先対象署名 冬木こよみ

 内部要求 承認済み

 外部承認 待機中


 その下で、機械が変換した人名。


 要求者 冬木こよみ。


 黄色い印が二秒おきに明滅する。


 光る。


 消える。


 また光る。


 一度、扉を叩く音のようだと思ってしまうと、それ以外には見えなかった。


「触らない方がいい」


 朔が言った。


「触るつもりはありません」


「外部承認が何を意味するか分からない」


「分からないものへ触れないのは、修復士の基本です」


「君は、分からないものほど確かめようとする」


「今の私の話ですか」


「そうだ」


 澪は表示を見る。


「この要求を、こよみ本人が出したと思っているんですか」


「人名表示を信じるなら」


「自動継続補正とは」


「古い機械語だ。僕にも正確には分からない」


「では、別人が名を使っている可能性もある」


「ある」


「機構による自動処理の可能性も」


「ある」


「こよみが意思を変えた可能性も」


「ある」


「何も分からないんですね」


「だから十八年間調べた」


「十八年かけても分からなかった」


「外から見ているだけでは」


 壁の向こうで金属の動く音がした。


 最も遠い防火扉から、逆順に鍵が外れていく。


 最後に旧観測室の扉が開いた。


 透明な防護面をつけた保安職員が四人。先頭の二人は、神経活動を一時的に遮断する拘束具を持っている。


 二人は朔を囲んだ。残りは澪から数歩離れて止まる。


 その後ろから、鷺沢環が入ってきた。


 右手には端末ではなく、十八年前の型式に見える細い認証棒。


 環は表示を一度見る。驚いた様子はない。


「接続を終了させて」


「すでに終了しています」


「旧回線が起動している」


「直接接続とは別です」


「分かっています」


 環は朔を見る。


「久世さん。両手を見える位置へ」


「僕を拘束する根拠は」


「無許可区域への侵入。資格停止中の職員への神経接続。機密資料の外部転送」


「外部転送を知っているなら、受領先も分かってるはずだ。法定保全庫だよ」


「正式な手続きを経ていない」


「正式な手続きを待てば、あなたが消す」


 保安職員が一歩近づく。


 朔は両手を上げた。


「端末を渡して」


「僕が渡さなくても、記録は外にある」


「端末を」


 朔は個人端末を床へ置いた。職員が回収する。


 環は次に澪を見る。


「接続を承認したのは、あなた?」


「はい」


「強制された?」


「いいえ」


「危険性の説明を受けた?」


「分かっている範囲では」


「彼は、自分に都合のいい範囲しか説明していない」


「館長も同じです」


 旧観測室が静かになった。


 保安職員が澪を見る。


 環は怒らなかった。


「そう見えることは理解しています」


「第零収蔵庫は存在しないと言いました」


「現在の収蔵施設としては存在しない」


「言葉を分ければ嘘ではないと?」


「第零は収蔵庫ではない」


「では、何です」


 環は黄色い表示へ目を向けた。


「十八年前に閉鎖された実験領域です」


「その中に、こよみがいる」


「その表現は正確ではない」


 朔が短く笑う。


「まだ、それを言うのか」


「あなたは黙って」


「十八年続いた記憶を実験残渣と呼べば、人間じゃなくなるのか」


「人間という言葉を、あなたの感情だけで定義しないで」


「感情じゃない。連続性がある。自分の過去を覚え、外側を観測し、信号を送り、自分の名前で記憶の所有権を主張した」


「そのすべてが装置の自己生成である可能性を、あなたは排除できない」


「人間の意識だって、脳の自己生成だ」


「議論をしに来たのではありません」


 環は澪へ向き直る。


「あなたは今夜、退館します」


「質問に答えてください」


「医療施設で再検査後、自宅待機。第零に関する業務から外します」


「私が選択基準者と表示された理由は」


「旧装置が十八年前の神経情報を参照しているから」


「なぜ私が基準なんですか」


「今の状態で聞くべき話ではない」


「いつなら聞けますか。明日の午後四時より前?」


 環は答えなかった。


「完全解錠まで二十二時間を切っています」


「解錠はさせません」


「どうやって」


「必要な措置を取ります」


「内部にあるものを消去して?」


 環の目がわずかに動いた。


「破棄するつもりなんですね」


「言葉を選んで」


「何と呼べばいいんです。実験領域の停止? 記憶媒体の初期化?」


「まだ決定していない」


「嘘だ」


 朔が言う。


 保安職員が腕を取り、拘束具を巻いた。淡い青い光。指から力が抜け、両腕が落ちる。


「澪」


「彼女に話しかけないで」


「環の言葉を、そのまま信じるな」


「連れていって」


「第零へ行け。下にある原記録を見ろ。環が見せる要約じゃなく――」


 出力が上がり、朔の声が途切れた。膝が崩れかける。


「やめてください」


 澪が言う。


 環が手を上げ、出力が下がった。


 朔は息を整えたが、もう話さなかった。連行される直前まで澪を見ている。


 助けを求める目ではない。


 自分の言葉に従えと要求する目だった。


 澪は朔にも怒りを感じた。


 環は、知らせず遠ざけようとする。


 朔は、自分と同じ結論へ到達することを当然だと思っている。


 二人とも、自分の決断を澪のためだと信じていた。


 朔が廊下へ出されたあと、環は表示へ認証棒を当てる。


 外部承認 待機中


 その文字が暗くなり、管理封鎖処理へ変わった。


「何をしたんです」


「外部承認経路を切断しています」


「要求を拒絶した?」


「要求の真偽が確認できていない」


「確認するため、原記録を見せてください」


「認められません」


「私は一次観測者です」


「同時に、最も強く汚染されている可能性がある人間です」


「接続前から資料は私の名を知っていました」


「だからこそよ」


 環の声が強くなる。


「あなたを狙って送られた記憶かもしれない。母親としての感覚を植えつけ、特定の行動を取らせるために」


「こよみは、自分を選ぶなと言いました」


「その言葉で警戒を下げるためかもしれない」


「内部表示は解錠要求です」


「矛盾した情報で判断を乱すこと自体が目的かもしれない」


「誰の目的です」


「分からない」


「館長も分からない」


 環は黙る。


「朔は、分からないまま扉を開けようとしている。館長は、分からないまま中を消そうとしている」


「同じではない」


「どこが」


「現在の世界は、すでに存在している」


 環の声は低かった。


「ここには生活している人がいる。今夜帰る家があり、明日会う相手がいる。第零を開くことで何が起きるか分からないなら、現在を守る側へ判断を置くのが当然です」


「中に意識がある可能性は」


「可能性だけで、現実の全員を危険にさらせない」


「人間なら?」


「証明されていない」


「人間ではないとも証明されていません」


「だから調査する」


「私を外して?」


「あなたが調査対象だからです」


 正しかった。


 澪自身が、第零の一部である可能性がある。選択基準者として認識され、こよみを娘だと感じる残留がある。


 そんな人間を、判断する側へ置くべきではない。


 環の論理には反論できない部分がある。


 だからこそ、信用できなかった。


 正しい理由だけを使い、知らせたくない事実まで隠している。


「帰って。今夜は眠りなさい。明日の朝、私から説明します」


「すべて?」


「必要な範囲で」


 やはり同じだった。


 保安職員が澪のそばへ来る。


「ご案内します」


 澪は旧観測室を出た。


 抵抗はしない。


 廊下では、朔が壁際の椅子へ座らされていた。拘束具はついたまま。顔だけを上げる。


 澪は通り過ぎた。


 彼についていくとも、環に従うとも決めていない。


 まだ何も選んでいなかった。


 非常階段を上がり、地下三階へ戻る。


 長期収蔵庫前の廊下を歩いている途中、第二収蔵庫と第三収蔵庫の間の壁面端末が黄色く光った。


 未登録資料 原情報固定中

 一次観測者による保全確認 未実施


 その下に、澪の職員番号。


「画面を消して」


 環が命じる。


 職員が触れる。反応しない。


 環の認証棒。


 管理者による取消不可


 新しい文。


 資料倫理規程 第十一条適用

 一次観測者保全権は、資格停止後も失効しません


 澪は条文を知っていた。


 未登録資料の所有者情報が収蔵処理中に自律変化した場合、管理側の改変や隠蔽を防ぐため、最初に観測した修復士には、原情報の保存場所を一度だけ確認する権利が残る。


 館長にも停止できない。


「保全権を放棄して」


 環が言う。


 画面下部に二つの選択肢。


 権利を行使する。


 権利を放棄する。


「行使すると」


「原資料への最短経路が、一時的に開く」


「どれくらい」


 端末が答える。


 保全猶予 四十七秒。


「第零へ続く経路が開く?」


「旧実験施設への保守路です」


 初めて、環が明確に認めた。


「外部承認になりますか」


「ならない」


「解錠を早める?」


「その可能性は低い」


「現在世界を書き換える?」


「四十七秒の保全経路だけなら、起きないはず」


「では、なぜ止めるんです」


「あなたが、もっと深く第零と接続されるから」


「私のためですか」


「それだけではない」


「原資料を見れば、館長の判断に従わなくなるかもしれないから?」


「見たものが真実だと判断できないからです」


「見ないままなら、真実を判断できるんですか」


「今のあなたは自由に選べる状態ではない」


「館長の命令に従うことだけが、自由な選択ですか」


「違う。今は選ばないことが必要なの」


 その言葉は、澪が自分へ言い続けてきた言葉に似ていた。


 決めるには情報が足りない。


 今でなくてもいい。


 詳しい人間へ任せればいい。


 間違えるくらいなら、何もしない方がいい。


 澪は端末の前へ立った。


 右手がポケットへ入る。


 財布を取り出す。


 古い百円硬貨。


 表なら行使。


 裏なら放棄。


 偶然へ渡せば、失敗したあとで自分を責めずに済む。


 硬貨を親指の爪へ載せた。


 階段の奥から、朔の声がかすかに届いた。


「押せ、澪」


 澪は顔を上げる。


「あなたも命令しないで」


 声は廊下の奥まで届いた。


 物音が止まる。


 澪は硬貨を投げなかった。


 財布へ戻す。


 今、どちらが正しいかは分からない。


 第零にいるものが人間かも。


 こよみの警告と機械の要求のどちらが本人の意思かも。


 環が世界を守ろうとしていることは嘘ではない。


 朔がこよみを愛していることも、おそらく嘘ではない。


 しかし二人の正しさのどちらかを選ぶ前に、澪自身が知らなければならなかった。


 知ったあと、環と同じ結論へ達するかもしれない。


 朔の望む通り扉を開くかもしれない。


 どちらとも違うことをするかもしれない。


 間違えた責任は、自分に残る。


 それでも、知らないことを理由に、誰かへ選択を渡すことはできなかった。


 澪は、権利を行使する、に触れた。


 端末全体が黄色く光る。


 一次観測者保全権を確認

 経路封鎖を解除します

 残り 四十七秒


 廊下の照明が消えた。


 足元に黄色い線が現れ、収蔵庫の間を走り、非常階段とは反対の壁へ続く。


 壁の内部で重い装置が動き始める。


「止まりなさい」


 環の声。


 黄色い線の先に亀裂。壁が左右へ開き、細い保守階段が現れた。


 残り四十一秒。


 保安職員が澪の腕を取ろうとする。


 端末が警告。


 一次観測者への接触を禁止

 保全連続性が失われます


 職員の手が止まる。


「拘束しないで」


 環が命じる。


 澪は黄色い線を踏んだ。


 一歩。


 もう一歩。


「冬木さん」


 環の声が追う。


「この先で見えるものは、あなたのために作られた可能性がある」


「分かっています」


「あなたが望むものだけを見せる」


「私が何を望んでいるか、私にも分かりません」


 残り三十三秒。


 階段を下りる。


 背後で別の警告。


 継続接続者を確認

 補助経路を開放します


 廊下の奥で朔の拘束具が消灯した。力を取り戻した朔が立つ。床の黄色い線が二つに分かれ、一方が朔の足元へ伸びる。


「来ないでください」


 朔の足が止まる。


「一人では旧設備を動かせない」


「あなたを信じたわけではありません」


「分かってる」


「私に見せるものを選ばないでください」


 朔は一秒迷い、うなずいた。


「分かった」


 残り二十四秒。


 二人は階段を下りる。


 上から環の声。


「澪!」


 敬称のない名を、澪は初めて聞いた。


 足を止めそうになる。


 止めない。


 階段の先に、小さな昇降機。


 扉の上に、旧実験区画。


 残り十七秒。


 澪が先に入り、朔が続く。


 行き先は一つ。


 原資料固定室。


 扉が閉まりかける。


 階段の上に、環。


「戻ってきなさい」


 命令ではなかった。


 懇願に近い。


 澪は隙間から環を見る。


 十八年前から何かを知り、隠し、澪を監視しながら仕事を与えた人。


 嘘をついている。


 同時に、本気で守ろうとしている。


「戻ります」


 環の顔に安堵が浮かぶ。


「自分で見たあとに」


 扉が閉じた。


 残り九秒。


 昇降機が暗闇を降りる。


「怖いか」


 朔が聞く。


「はい」


 否定する理由はなかった。


 残り三秒。


 昇降機が止まる。


 二秒。


 扉が開く。


 冷たい空気。


 十八年間閉鎖されていた旧実験施設。


 澪は境界を越えた。


 一秒。


 背後で扉が閉じる。


 保全猶予が終了した。


 資格情報の失効を告げる表示が一瞬光る。


 もう、館長の命令へ従う職員としては戻れない。


 それでも澪は前を向いた。


 知らないまま従うことだけは、もう選ばない。


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