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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第五部 四十七秒

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23/24

第二十三章 四十七秒

二月十四日 午後四時十三分〇〇秒


 声は空気を震わせなかった。


 言葉になる前の意味が、記憶と同じ速さで互いへ届いた。


 最初の一秒で、冬木澪は二つの人生を思い出した。


 思い出した、という言葉では足りない。


 戻ったのでも、見せられたのでもない。


 二つとも最初から自分の人生だったように、同じ重さで身体の中に存在した。


 現在世界。


 十一歳。父と母の間で、凪へ選択を渡した冬。


 十六歳の凪の事故。


 第零実験。


 記憶隔離。


 資料館で働いた十六年。


 凪が救急救命士になった日。


 三枝灯を紹介された夜。


 理由を知らず、九月二十一日に休み続けた十二年。


 そして、第零世界。


 朔と暮らした雨漏りの家。


 銀色の指輪。


 陣痛。


 泣かなかった八秒。


 こよみの最初の泣き声。


 三歳のこよみが牛乳をこぼした朝。


 四歳の誕生日、蝋燭を吹き消そうとして唾を飛ばしたこと。


 五歳。熱。


 六歳。一人で買い物へ行き、頼んだものと違う牛乳を得意そうに持ち帰ったこと。


 七歳。自転車。


 八歳。林檎。


 九歳。夜中に嘘をついて起きていたこと。


 十歳。黄色い扉。


 十一歳。世界がおかしいと一人で気づいたこと。


 十二歳。水城紗奈。望遠鏡。雨の夜。


 全部。


 一秒。


 十二年と十八年が、同時に流れ込む。


 四十六秒。


 目の前に、こよみがいた。


 もう境界は見えない。


 少女は資料館の床に立っているようにも、澪が台所へ立っているようにも見える。


 こよみが手を伸ばす。


 澪も。


 指先が触れた。


 温かい。


 映像ではない。


 記憶でもない。


 十二歳の手。


 澪の身体は、その手を知っていた。


 熱を測った。


 爪を切った。


 道路を渡るときにつないだ。


 喧嘩のあと、振り払われた。


「お母さん」


「こよみ」


 迷わず、名を呼ぶ。


 少女の顔が崩れる。


 二人の手がつながった。


 四十二秒。


 現在世界の記憶が流れる。


 凪。三十四歳。病室。灯。食堂。来年四月。まだ名のない店。


 現在の街。


 資料館職員。


 眠る子どもを抱いた父親。


 澪が一度も会ったことのない何十億人。


 こちらにも明日の予定がある。


 凪を救ったのは十八年前。


 その後の十八年は、澪が与えたものではない。


 凪が生きた。


 姉ちゃんが選んだあと、私が十八年、生きたんだよ。


 こよみの言葉も重なる。


 私が残った。


 紗奈は残らなかった。


 どちらも正しい。


 だから、正解はない。


 三十八秒。


 制御装置。


 左、現在履歴。


 右、第零履歴。


 澪の右手は中央のレバーへ置かれている。


 左手は、こよみとつながったまま。


「お母さん」


「うん」


「今、やっぱり」


 少女の意味が震える。


「選んでほしい」


 来ると思っていた。


 来ないでほしいとも思っていた。


「私を選んで」


 十二歳。


 最後。


 生きたい。


 当然だった。


「うん」


 澪が答えると、こよみの顔に一瞬、安堵が浮かぶ。


 すぐに自分で首を振った。


「違う。今のなし」


「なしにはできない」


「できる。忘れて」


「聞きました」


「さっき忘れていいって言った」


「いなかったことにはしないと言いました」


「ずるい」


「うん」


「お母さん」


「うん」


 こよみが泣きながら怒る。


 澪は、その顔を愛していた。


 今、はっきり愛していた。


 植えつけられた感情かもしれない。


 第零から流れ込んだ身体記憶かもしれない。


 それでも、今この瞬間の澪がこよみを愛していることは、誰にも取り消せない。


 三十二秒。


 だから、選びたかった。


 こよみを。


 目の前の一人を。


 澪の右手が、第零側へ一ミリ動く。


 こよみ。


 十三歳。


 十四歳。


 高校。


 海。


 犬。


 未来。


 全部、手に入る。


 代わりに、現在世界が未生側へ落ちる。


 凪。


 灯。


 環。


 資料館。


「お母さん」


「うん」


「私だけ見ないで」


 澪の手が止まる。


「後ろも見て」


 こよみが振り返る。


 そこに第零の町。


 河合美緒。


 桑原実。


 浅田修一。


 瀬戸文雄。


 名前を回収できなかった人々。


「私を選んだら、この人たちは残る」


「うん」


 こよみは今度、澪の後ろを見る。


 現在世界。


 凪。


 灯。


 朔。


 環。


 街。


「でも、凪さんたちを、今度はこっちに閉じ込めないで」


 澪は動けない。


「そっちの人を、生まれなかった方にしないで」


 こよみの声は、哲学の答えではなかった。


 自分が閉じ込められた側にいた十二年から出た言葉だった。


「こっちにいるの、怖いよ」


「うん」


「外の人に、本物じゃないって言われるの、嫌だよ」


「うん」


「だから、ほかの人を私にしないで」


 二十四秒。


 澪は、最終選択の形を見た。


 凪か、こよみかではない。


 現実か、偽物かでもない。


 どちらを選んでも、選ばれなかった側が生じる。


 第零の人々は本物だった。


 現在の人々も本物だった。


 その上で、第零を現実化するには、現在世界の履歴を置き換えるだけでは足りない。


 反実仮想参照網を、一つの履歴へ固定しなければならない。


 その結果が、意味の奔流として澪へ見えた。


 凪は、失った食堂の代わりを探そうと思えない。


 失敗した医師は、別の治療法を想像できない。


 親は、傷つけた子どもの立場を自分の痛みとして考えにくくなる。


 子どもは、まだ存在しない世界を描けない。


 後悔は減る。


 苦痛も減る。


 同時に、今とは違う明日を願う力も失われる。


 こよみを残すために、未来の選択そのものを閉じる。


 現在世界の人々は、その変更へ同意していない。


 第零の人々も、世界全体を固定してほしいと一つの意思で決めたわけではない。


 澪が全員に代わって、未来の形まで決めることになる。


 十九秒。


「こよみ」


「うん」


「私は」


 言葉が出ない。


 少女は、何も言われる前に分かった顔をした。


「そっちなんだ」


 澪の顔が歪む。


「ごめ――」


「言わないで」


 こよみが遮る。


「ごめんって言ったら、私、許さなきゃいけないみたいになる」


 澪は止める。


「分かった」


「うん」


「でも、愛しています」


 こよみの顔がぐしゃぐしゃになる。


「今言う?」


「今しかない」


「ずるい」


「うん」


「大嫌い」


「うん」


 こよみが澪へ飛びついた。


 もう境界はない。


 腕を回して抱く。


 赤ん坊ではない。


 十二歳の身体。


 重い。


 両腕を使わなければ抱えられない。


「死にたくない」


 耳元の意味。


「うん」


「お母さん、死にたくない」


「うん」


 それしか言えない。


 救うとも、大丈夫とも、怖くないとも言えない。


「十三歳になりたかった」


「うん」


「海、見たかった」


「うん」


「犬も」


「うん」


「お父さんも、お母さんも」


「うん」


「紗奈に謝れなかった」


「うん」


「全部嫌」


「うん」


 十一秒。


 澪の右手が、現在履歴側へ動き始める。


 こよみは抱きついたまま、止めない。


 身体だけが震えている。


「お母さん」


「うん」


「最後に、私、ちゃんといた?」


 澪はレバーを握る。


「いました」


「本当に?」


「うん」


「そっちから見ても?」


「うん」


「資料じゃなく?」


「うん」


「娘?」


 喉が壊れそうになる。


「私の娘です」


 こよみが、泣きながら笑った。


「そっか」


 七秒。


 レバーが現在側の不可逆域へ入る。


 選択確定開始。


 世界が揺れる。


 こよみの身体が薄くなる。


「林檎」


「何」


「厚い方」


 澪は泣きながら笑った。


「知っています」


「忘れたら」


「紙に書きます」


「またそれ」


「うん」


 五秒。


 こよみの腕が光へ変わる。


 澪は、触れられなくなるまで抱きしめた。


「お母さん」


「うん」


「今度は、選ばないでくれて」


「違う」


「何が」


「私は、あなたを選ばなかったんじゃない」


 こよみが見る。


「私は、この世界を選びました」


「同じじゃん」


「違います」


「また難しいこと言う」


 少女が少し笑う。


 三秒。


 澪が残そうとしたのは、正しかった世界ではなかった。


 明日、間違いを選び直せる世界だった。


「お母さん」


「うん」


「私も愛してる」


 二秒。


 こよみが消える。


 一秒。


 最後に、手の温度がなくなる。


 レバーが現在履歴側へ最後まで落ちた。


 零秒。


 白。


 音が戻った。


 最初に聞こえたのは、時計だった。


 かち。


 澪は床へ膝をついている。


 両腕の中には何もない。


 台所も、雨も、黄色い扉もない。


 第零収蔵域の奥には、停止した黒い機械。


 表示。


 現在履歴 確定。


 第零継続域 終了。


 読めた。


 意味も分かった。


 動けなかった。


「澪」


 朔が近づく。


「こよみは」


 言いかけ、止まる。


 具体的な記憶が薄い。


 胸元の紙を出す。


 冬木こよみ。父へ。


 私を助けたいと思っていて。


 でも、私の代わりに決めないで。


「僕の娘?」


「はい」


 朔はその場へ座り込む。


 環は、制御装置から離れた場所に立ったまま、一歩も動いていない。


 遠隔画面。


 凪がいる。


 灯も。


「姉ちゃん」


 返事ができない。


「姉ちゃん」


 もう一度。


「うん」


「私、いる?」


「うん」


「今の私?」


 凪。三十四歳。妹。


「うん」


「食堂、覚えてる?」


 西口。


 来年四月。


 三枝灯。


 顔は出ない。


 紙の記録。


「覚えています」


 嘘ではない。


 記憶としてではなく、証言として。


「名前は、まだ決めてない」


「うん」


「灯が、『おかえり』がいいって」


 澪は画面の、知らない顔を見る。


 この数時間、凪の手を握っていた人。


「はい」


「こよみは」


 沈黙。


 左側だけ跳ねた髪。


 黄色い絵の具。


 十二歳。


 まだ思い出せる。


「いなくなりました」


 凪が目を閉じる。


「そっか」


「うん」


「姉ちゃんが選んだ?」


 制御装置の中央に、古い百円硬貨が残っている。


 使わなかった。


「はい」


「そっか」


 許さない。


 責めない。


 評価しない。


 澪が選んだという事実だけ。


「姉ちゃん。ここから、生きて」


「うん」


「絶対――」


 凪は止まり、自分で少し笑う。


「やめた。絶対とは言わない」


「そうしてください」


 通信は切れない。


 凪と灯は画面の向こうにいる。


 朔は隣。


 環は後ろ。


 現在世界は残った。


 第零世界は失われた。


 正しかったかは分からない。


 永遠に分からない。


 分からないまま、生きるしかない。


 時計は午後四時十三分四十七秒。


 次の瞬間、秒針が進んだ。


 午後四時十三分四十八秒。


 誰も止めなかった。


 時計の秒針は、止まらずに次の一秒へ進んだ。


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